157:2006年6月 第2週 勝野かおり
または、生活と内面の混沌は蓮根の穴から立ち上る

たこ焼きのたこを楊枝にいらいつつ
    薄い利益にわれはも泣かゆ
          勝野かおり『Br』

 歌集題名の『Br』は元素記号で、臭素(ブロム)を表す。臭素は自然界には単体として存在しない元素で、名前の通り強い刺激臭がある。元素記号が題名になっている歌集も珍しいが、よりによって臭素である。この選択をした作者がただものではないことはただちに明らかだろう。勝野は昭和44年(1969年)生まれで、「まひる野」「ラエティティア」に所属しており、『Br』が第一歌集である。巻末のプロフィールを見ると、島田修三に師事し、島田が勤務する愛知淑徳大学国文科で学んでいる。先週取り上げた島田修三のお弟子さんだったのだが、これはまったくの偶然である。

 さて、勝野が作る短歌だが、言葉を使いこなす妙にこなれた達者な側面と、短歌形式に沿うことをあまり考えない側面とが混じり合っているというのが一読した印象である。掲出歌は妙に達者な方で、これはまるで啄木である。働いても暮しが楽にならずじっと掌を見つめる啄木と、営業成績がなからかあがらず上司に叱られ、たこ焼きをいじくっている勝野の姿は、まるでパロディーのようにぴったりと重なる。しかし、勝野には換骨奪胎のパロディーを作る意図はないのであり、ただ短歌に託すものが似通っているということなのだろう。

 小説での立身出世を志した啄木にとって、短歌は「悲しき玩具」であったが、啄木が作る短歌には泣かせる抒情とかなりの量の自己憐憫が混じっていた。思うに任せない情けない自分の姿は、啄木の筆によってやや甘いが美しい絵として定着された。一方、勝野の視線は美しくないものばかりへと向かうようである。

 鯖味噌に箸を汚せる午後八時なしくずし的に夜が更けていく

 音もなくはるかかなたの夕空をむだにはらはらひらける花火

 姓を捨て瓦礫を捨てし週末の手元に残る文のいくばく

 偽物のような夕陽はしずみゆく 偽物としちゃあ泣けてくるのだ

 爽やかな朝のイトナミ御不浄に切なく蠅は足場を求む

 鍋縁をこごる豆味噌生娘のどて煮の串はのびやかなりき

 味噌がよく登場するのは、勝野が名古屋周辺に暮らしているからである。1首目は下句の「なしくずし的に」という部分に予定調和崩壊のやるせなさがたゆたい、それが鯖味噌に形象化されているところに中年オジサン的抒情を見るべきだろう。これは師である島田修三の直接の影響かもしれない。2首目は本来は美しく詠うべき花火の歌なのだが、それが「むだにはらはら」と詠まれているところに勝野の心情がある。同じ花火を詠んだ歌をあげてみるとちがいがよくわかる。

 つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれたり 小池 光

 酒の席はづしてひとり倚る窓の遠く音なく花火あがれり  山崎一郎

 小池の歌には「つつましき」という部分に庶民への共感があり、花火が夜の水の存在を浮き上がらせるという発見があるだけで、作者の個人的心情はない。山崎の歌には逆に個人的心情が底ごもっていて、群の中の孤独か窓際族的状況の悲哀が花火に託されている。山崎の歌も勝野の歌も、花火から音を奪うことによって花火を心象化しているという手法は同じなのだが、山崎の歌があくまで短歌の形式美を志向しているのにたいして、勝野は短歌の形式美の追究にそれほど興味がないようだ。

 引用歌に戻ると、3首目はおそらく離婚の時の歌だろう。「姓」と「瓦礫」とが同列に置かれている所がポイントで、この辺に勝野の男性的と言ってもよい思い切りの良さが見られる。結婚生活の思い出の品々が「瓦礫」とはすさまじい。4首目は結句の伝法な口語文体が師の島田を彷彿とさせる。5首目は短歌にはあまり登場しないトイレの歌で、トイレを飛び回る蠅を歌に詠むところに勝野の面目がある。そういえば島田もしきりに放屁の歌を作っていた。

 OA機器の販売業界で働く女性である勝野を取り巻く現実はなかなか厳しいようで、「職場詠」というのんびりした呼び方が似合わないほどである。もうほとんど「ストレス短歌」と呼んでもよいくらいだ。

 X社C社当社の相見積の果てなる今日の陸橋は見よ

 キツイキタナイクルシイカナシイ4Kの職場 日清の「どん兵衛」を食う

 あはれ濁机に蕎麦をすすれる深夜なり妄想(ゆめ)の奥処にアニムスは来よ

 なわのれん突っ伏して哭く同僚の鬢の際まで不揃いである

 堀川に浮かぶ瀬もなしクレームの果てなる夕べにひん曲がる杭

 X社はゼロックスでC社はキャノンらしい。相見積とは、購入元が複数の業者から見積を取ることを言う。業界では「アイミツを取る」と言う。いちばん低い価格を出した業者が買ってもらえるのだから必死である。結句「今日の陸橋は見よ」の雰囲気からすると競争に負けたのかもしれない。引用した5首目は古典和歌の語法と雰囲気を「ストレス短歌」に強引に移植したもので、こういう路線に勝野のおもしろさがあるように思う。

 この歌集の描くもうひとつの世界は、私たちが生きている現代世界の状況である。オフィスで夜中にどん兵衛を食べるのが小世界だとすれば、こちらは大世界の短歌ということになる。ずばり「くさい」という題名の連作であり、勝野の臭素感覚はここで爆発している。

 国境はないと言いうる東(ひんがし)の亜細亜 桃も傷めば臭い

 チャルメラはとぎれぬ夕闇どろどろと脂ぎりつつ硝煙臭し

 知らざるは悪、またシアワセ 大東亜共栄圏にはYENの臭素が

 なにもかもきわどいところにある、あいもせかいももりの郭公の巣も

 声なき少数派(サイレント・マジョリティ)は店奥の蠅取りリボンに絡め取られて

 1首目は「フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう」という加藤治郎の歌とどこかで呼応しているようだ。これらの歌が描いているものを一言で言うと「きな臭い世界」であり、歌集題名の『Br』は最終的にはこのような次元へと漂ってゆくべきものと把握されている。4首目のように平仮名を多用して童謡のような世界へと持ってゆく手法や、5首目のように言いさしの喩にまとめる手法は、80年代終わり頃から目立ち始めた修辞で、不機嫌に周囲を罵倒するスタイルの師の島田には見られないという点に、世代論的展開を感じることもできるだろう。

今まで引いた歌とやや傾向が異なるのは次のような歌である。

 ほんの僅かな歪みのありて鍵穴に挿し込む鍵がまわらないのだ

 直線を引く間際のことゆくりなく直線定規の欠けたるを知る

 語弊とはこうして生ずコンパスの支点の針は少しく歪みて

 切り口を水にさらされ白々と蓮根の穴に問う謎はなし

 1首目から3首目はいずれも「微細な歪み」を取り上げた歌で、近代短歌が唱道して来た写実と観察が現代短歌の新しい修辞の文脈でもまた有効であることを示している。4首目は奥村晃作の「タダゴト歌」を連想させるが、実はかなり機能のちがう歌で注目した。「蓮根の穴には問う謎がないほど白々と明白だ」と断定するということは、蓮根を観察している〈私〉の方は逆に内部がドロドロで迷走して謎だらけだということを浮かび上がらせる。光が闇を際立たせ、闇が光を明るく感じさせるように、「AはBである」という断定は、「AでないものはBではない」という論理学的には誤謬の含意を浮上させることがある。そして、「AはBである」という断定が明白で陳腐 (trivial) な命題であればあるほど、その効果は増大する。陳腐な命題をわざわざ発話するのは、隠された語用論的意図があるからである。かくして蓮根の歌は、蓮根の穴を覗く〈私〉の混沌を逆照射するのである。これは短詩型としての短歌の力を十全に発揮したものだと言わねばならない。静を詠んで動を感じさせ、動を詠んで静を幻視させるというように、一首の外部に意味の場を投影するところに、極小の詩形である短歌の磁場の強度があるのだ。蓮根の歌はそうした短歌の機微を感じさせる歌となっているところに注目すべきだろう。