ピカソ展見終えて濠に光あり
静かに充ちてわが日々を撃て
大島史洋『時の雫』
1944年生まれの大島史洋のように歌歴の長い歌人の場合、時間軸に沿って作風が大きく変化していてとても論じにくい。歌人論的には、アララギ会員だった父親の影響で作歌を始め、近藤芳美と土屋文明に傾倒したというリアリズムの骨格に加えて、未来に入会して岡井隆の前衛短歌の影響をもろに被ったという重層的な短歌的自己形成を経ている。ひと筋縄では行かないのである。第一歌集『藍を走るべし』(1970年)は、語法と発想において前衛短歌の影響が濃厚だが、それ以上に作者と時代の若さが痛いほど感じられる歌集となっている。前衛短歌の影響は次のような歌群に顕著だろう。
「大公」の調べ悲しき寒の夜幾千の眼に見おろされつつ
ひそやかにあけがたの野を走りゆく熱情のあるカタピラーのうえ
汗ながす緑のボンベ遠き世は吾が憎しみのうらがわの牡蠣
真昼間に感電死する工夫あれ かの汗の塩をも吾は愛さむ
炒められて緑輝く 父よ越えられぬ子を知らず眠るな
写実を旨とする伝統的近代短歌に対抗する前衛短歌の戦略のひとつは、思想を暗喩を通じて表現するというものだが、一首目などは浜田到や塚本邦雄がいなければ書かれなかった歌だろう。二首目はとりわけ思想を肉感的な言葉で表現する技法を開発した岡井の影響が色濃い。四首目の「感電死する工夫」は塚本好みである。また五首目のような二句切れも、伝統的な短歌の韻律を壊そうとする前衛短歌の常套手段であることは今日ではよく知られていることだ。写実を排する道を取り観念の喩による形象化という手法を採用する代償は、難解・晦渋・読者への伝達度の低下である。大島もまたその例外ではなく、『藍を走るべし』はさまざまな作歌の試みが詰まった実験箱のようだ。この歌集が出版されたとき、どのように受け止められたのか知りたいものだ。作者と時代の若さは次のような歌群にまぎれもない。
手のなかの鶸のぬくもりしめあげてゆけばひとつのいのちくるしむ
生き方を問われていたる青年のコーラを一気にのみほせる見ゆ
ゴム鉄砲犬のシールを撃ちつづくこの焦燥の沈みゆくまで
部屋隅にたまりし埃をつまみもち誰も経てゆく夢のかなしき
いま僕におしえてほしいいちにんの力のおよぶ国のはんいを
いつの世にも青年は自意識の塊であり、自負とその裏返しの自己嫌悪と無力感に浸されている。歌集が出版された年代を考えれば、それに政治的挫折という時代の空気もまた付け加わるだろう。これらの歌には眼前に突然拡がる生に戦き、自己とは何かを問い自我の確立に葛藤する青年の姿がある。その清潔感は抜きん出ており、またこの青春のトーンの高さはまぎれもなく60年代から70年代初めの時代の空気を背景としている。「短歌には青春がよく似合う」と言われるが、このような青春らしい青春歌集は現代においては、女性歌人ならいざしらず(例えば横山未来子)、男性歌人には絶えて見られなくなった。わずかに黒瀬珂瀾が『黒耀宮』で一人気を吐くのみである。
時として観念的過ぎて晦渋な歌も散見するとはいえ、第一歌集『藍を走るべし』は意欲的な試みを盛り込んだ歌集なのだが、大島の作風は大きく変化してゆく。第二歌集『わが心の帆』(1976年)あたりからすでに、平凡な日常に題材を採った歌が多くなり、初期の観念性と晦渋は影を潜めるようになる。その背景には作者の就職・結婚に続き子供が生まれ、実人生にがっちりと組み込まれたという事情があるだろう。
捨てられし子猫が濡れて寄りくるをエセヒューマニズムの眼もて見おろす
川なかの杭に生いたる青草を朝々に見て妻のよろこぶ
明確におのれの立場を示せとぞいさぎよしとは思わぬものを
職場には友はいらぬと言いしかば波ひくごとくうとまれてゆく
第三歌集『炎樹』(1981年)になるとさらにその傾向に拍車がかかり、何でもない日常を描くリアリズムとつぶやくように心情を述べる歌ばかりになる。
妻の病めば子供もいたく静かにて襖を少しあけて見ている
子をつれて絨毯などを見に来しがバド・パウエルのレコードを買いぬ
休日を個の解放のごとくいう貧しく群れて孤立する個か
わが買いしさくら草を貧弱と妻は言いぬこういう感じが好きなのである
器には耐うる術なきかなしさの夕陽を見上ぐオランウータン
季刊現代短歌『雁』53号(2002年)は大島の小特集を組んでいる。「下降志向のリアリズム」という題名の文章を寄稿した島田修三はそのなかで、社会的地位や収入が上がることを願う上昇志向ならぬ「下降志向」が大島にはあり、「より豊かな生活への果てしのない階梯を上がりつづけることを共同幻想とする現代」に、あえて逆の方向を行く「確信犯的な低い文学的視座」が心理的リアリズムを支えていると論じている。
要するに大島は第一歌集『藍を走るべし』で展開した世界を「若気の至り」と断じ、その世界を封印してしまったのである。そのとき拠るべきものは、作歌を開始した頃からのもともとの骨格であったリアリズムである。しかし大島の興味は世界をリアルに写実することにあるのではなく、むしろリアルな世界に囲繞された〈私〉をドラマ化と観念抜きに描くことにあると思われる。かくして大島は目線低く日々変わりない日常と日常にまみれた自己を歌うのである。
神田川の濁りの底を進みゆく緋鯉の群の数かぎりなく 『時の雫』
自意識を諸悪のもとと思うまで畳屋の香につつまれている 『いらかの世界』
神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す
紫蘇の葉のにおいのなかにしゃがむときなまぐさき身よたたかうなかれ 『四隣』
マンションの屋上にして金網のなかなる下着がおりおり光る 『幽明』
こともなく日は過ぎゆくをいま少し深く悲しめみずからのため 『燠火』
しかし、とここで考えてしまう。小池光も第一歌集『バルサの翼』の輝くような世界を封印してしまい、「ながながと板の廊下に寝そべれる一本棒の先端尻尾」のような歌を作るようになった。男性歌人はどうしてもこのような道を辿るものなのだろうか。リアリズムに着地しない中年(老年)短歌というものは不可能なのだろうか。
ここからは大島の短歌とは関係なく私の勝手な夢想である。私が気になってしかたがない画家にヘンリー・ダーガー(1892-1973)がいる。シカゴ生まれのダーガーは不幸な生い立ちで、病院の雑役夫として孤独で貧しい生涯を送った。亡くなった後の狭いアパートから『非現実の王国として知られる地におけるヴィヴィアン・ガールズの物語』という1万5000ページに及ぶ長大な作品と、水彩とコラージュによる多数の絵画が発見された。その絵画は少女たちが巻き込まれる戦争物語で、少女が磔にされ切り刻まれるシーンが続く妄想の産物である。古雑誌とゴミの散乱する狭いアパートの孤独と、物語世界の波瀾万丈の絢爛さはこれ以上ないほど対照的である。しかし私がダーガーが気になって展覧会があると遠路足を運び、画集まで買って眺めてしまうのは、作品自体に不思議な魅力が漂っていることもさることながら、ダーガーの孤独な営みに芸術のひとつの原点があると感じるからに他ならない。それは想像力で現実を超えることである。ダーガーはそれを最も純粋な形で実践したと言える。さて短歌の世界はどうだろうか。