うす霜の降りたる冷凍庫の奥の
豚肉(ポーク)やさしくたたまれてある
阪森郁代『ナイルブルー』
世の中には批評の言葉に乗りやすい短歌と乗りにくい短歌がある。乱暴に言うと、定型でリアリズム短歌は乗りやすく、非定型で非リアリズムの短歌は乗りにくい。定型のリアリズム短歌は、破調や破格はあれど最終的には期待値周辺に収束するが、非定型の非リアリズムの短歌の場合、非定型さと非リアリズムさの向かう方向が拡散してしまうので、捉えがたいのだ。今週取り上げた阪森郁代も批評の言葉に乗せにくい歌を作る人である。あまり論じられることがないのはそのせいかも知れない。
以前に「冷蔵庫の歌」を集めて論じたことがあるが、掲出歌は冷凍庫の風景であり、冷蔵庫よりもさらに温度が下がっている。詠われているのは、冷凍庫の奥に豚の薄切り肉が畳まれて保存してあるという、どこのご家庭でもふつうに見かける光景である。豚肉は近所のスーパーで買って、余った分を冷凍してあるのかもしれない。問題はなぜこれが短歌になるのかである。それは言葉の注意深い選択と結合の魔術によって、日常よく見かける風景が非日常へと転位され、にわかに象徴的意味を帯びたり心象風景として昇華されることで、日常と個を超えた普遍的言語の世界に触れるからである。永田和宏風に「虚空間に触れる」と言ってもよい。この相転位はひとえに言葉の作用によるものである。阪森の掲出歌では具体的にどのような言葉の選択と結合がこの相転位を実現しているのかと言うと、それは「うす霜」の「うす」と「やさしく」のふたつである。ためしに上句を「いちめんに霜の降りたる冷凍庫に」と変えたり、下句を「豚肉きちんとたたまれてある」と変えたりすると、歌は突然表情を変貌させ、元の歌が持っていた相転位への飛翔力を喪失するのは誰の目にも明らかだろう。もっと具体的に言うと、「うす霜」の「うす」は現実感を希薄化することで象徴的地平への飛翔を触媒し、感情形容詞である「やさしく」は現実の地層の中に作者の受容した感覚の触手を忍び込ませる働きがある。ちなみに後者の語法は、現実の無機的描写に徹した小説家ロブ=グリエが嫌った語法である。
阪森郁代は「玲瓏」に所属し、1984年に「野の異類」で角川短歌賞を受賞している。受賞作を収録した第一歌集『ランボオ連れて風の中』は1988年の出版で、サラダ現象の翌年である。ライトヴァースが話題になった時代の中では異色の歌集と受け止められたことだろう。先に掲出歌に見た阪森の語法は、第一歌集においてすでにはっきりと認められる。
かろがろと空へ曳かれてひかる鳥われらの知恵のふいにさびしき
盲ひたる山羊の眠りもそのままにゆふべの地震(なゐ)もやさしく過ぎぬ
咽喉にはやはらかき夢ふふむゆゑつぐみもひよもわれに親しき
いづへよりくるしく空の垂れ来しや麒麟ひつそり立ちあがりたり
全首が写実とは一線を画する心象風景であるが、一首目の「かろがろと」「ふいに」、二首目の「やさしく」「そのままに」、三首目の「やはらかき」、四首目の「くるしく」「ひつそり」などの言葉が、上に指摘した相転位を促進して現実の風景を詩的空間へと転化する働きをしている。名詞は事物を指示し、動詞は出来事を指示し、それらは現実側に所属するものである。しかしながら形容詞と副詞は事物や出来事の有り様を述べるものであり、現実側というよりは知覚者側に帰属する。阪森が現実の情景を心象風景へと相転位するのに用いる語群のほとんどが形容詞と副詞であるのは、このような理由によるものである。
今回読んだ『ナイルブルー』は2003年に出版された第四歌集である。全体として心象風景という特質は保持されながらも、いささかの変化が見られるのは時間の経過ゆえだろう。2001年の9.11テロと塚本邦雄令夫人の死去、作者の父と兄の他界を含む作歌期間であるためか、歌集の随所に死者の影が揺曳している。
やがて来る凶事を視野に入れにつつ白き十字をひらくどくだみ
だれもが死者として現われる汀(みづぎは)に水の羞ぢらひ満ちみちてをり
冷たさに戸惑ひながら水鳥に呑まれてしまふ日々のゆふぐれ
天心を逸れて陽はあり父に点(さ)す点眼水のこぼれてしまふ
マンションはやがて霊廟 貯水槽深夜はみづのひしめき聞こゆ
つばさてふかくもしなやかなるものに壊れしビルのたましひいづこ
テロールの蜜の暗さを思ふさへ汗ばみし夜のうすら三日月
街にほろびの雪はふりつつしかすがに更新されてゆく天使たち
夏空がうながしてくる死もあらむ今日のココアは鳥の匂ひす
一首目は「ナイルブルー」と題された連作の中にあり、エジプト・聖書・イエス・神などの語が見られる連作であるので、「やがて来る凶事」とは中近東の地に起きる災厄、近くはイラク戦争を念頭に置いたものであり、「白き十字」は十字架を連想させる。二首目は作者の身辺に続いた親族の死去に触発されたものだろう。死者の集まる水は美しいイメージである。三首目は阪森特有の難解さがあるがなぜか惹かれる所がある歌。四首目は亡父の思い出で、太陽が天心を逸れることと、目薬が目にうまく入らずこぼれることのあいだに遠い呼応が見られる。五首目ではマンションが霊廟となる未来の幻視が、深夜に貯水槽に溜まる水のざわめきに象徴されており、黙示録的ヴィジョンとなっている。六首目と七首目は9.11テロとそれに続く恐怖の時代に想を得た歌である。直接には「ビルのたましひ」と詠われているが、その背後にテロの犠牲者を想定していることは言うまでもない。八首目は「三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ」という万葉集の歌の本歌取りかもしれない。かすかな終末感と地上の災厄への神の無関心を感じさせる。九首目は帯にも印刷されており、作者自信の作なのだろう。生の横溢するべき夏という季節に死の予感と感じとり、朝に飲むココアに鳥の幻臭を覚えるという取り合わせが見事である。鳥は生命のシンボルであると同時に、生命のはかなさを表し、ときに凶事の予兆ともなる。この歌ではかすかな鳥の幻臭が虚空間への入り口となっているのである。