164:2006年8月 第1週 早坂 類
または、静かな透明感のなかに世界が遠ざかる

さりげなくさしだされているレストランの
      グラスが変に美しい朝
   早坂類『風の吹く日にベランダにいる』

 早坂類の第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』は、1993年に河出書房新社から出版されたが、長らく入手不可能になっていた。このたび『短歌ヴァーサス』第9号誌上で復刻されたのは喜ばしい。このような誌上復刻には著作権を持つ作者以外に、出版社からも許諾を取らなくてはならないが、現代短歌のプロデューサー荻原裕幸の尽力あっての企画である。

 『風の吹く日にベランダにいる』は当初、河出書房新社による「(同時代)の女性歌集」シリーズの一巻として世に出た。初期の同シリーズでは、俵万智『かぜのてのひら』、道浦母都子『風の婚』、林あまり『最後から二番目のキッス』、李正子『ナグネタリョン』、太田美和『きらい』が1991年から刊行されている。早坂の歌集と時期を同じくして出版された第二シリーズには、沖ななも『ふたりごころ』、松平盟子『たまゆら草紙』、井辻朱美『コリオリの風』、干場しおり『天使がきらり』がある。河出書房新社のような大手出版社が歌集を手がけたのは、もちろん1987年のサラダ現象がきっかけであり、従来の歌壇以外の場所に歌集読者を掘り起こそうという意図によるものである。だから歌集としては例外的な初刷部数だったようだ。今では考えられないことである。表紙にも作者のオシャレな写真が添えられていて、従来の歌集のイメージよりもポップなものになっている。

 サラダ現象を受けての短歌バブルと、世の中を覆ったバブル経済末期の時代のムードに最もよくマッチしていたのは干場しおりの『天使がきらり』だろう。早坂の『風の吹く日にベランダにいる』も、収録されている歌を単語レベルで拾ってみると、消費経済を謳歌した時代背景が透けて見える。あくまで透明で軽やかなイメージの「アクリルの風」、「湘南」「道玄坂」「茅ヶ崎」「竹下通り」などのオシャレな地名、「リチャードと呼ばれていた奴」「クレープを焼く僕ら」「ライムソーダ」などのポップでライトなアイテムがあちこちに散りばめられている。ところが歌をよく読んでみると、その意外な暗さに驚かされるのである。一見明るく見えるのは次のような歌である。

 生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る茅ヶ崎

 トーストを握ったまんま眠りこむ茅ヶ崎少女のシングルベッド

 ティンパニの音がかすかに鳴っている夢に出てくるみたいなカフェ

 秋空の絹層雲はたかくひろくクレープを焼く僕らの上に

 草を見に行こうよと言ったね まなざしが春のコーラによみがえっている

 彼方から見ればあなたはオレンジの光の森のようではないか

 しかしよく見れば一見明るい歌の背後にも、忍び寄る寂しさと虚無感が透けて見える。茅ヶ崎に遊ぶ若者たちは、「生きてゆく理由」への問いかけをあらかじめ封印しており、刹那の現在のみを生きる。それは未来がないということだ。トーストを握ったままの少女が眠るのは、わざわざシングルベッドと表現されている。また三首目に登場するカフェの描き方には、どこか離人症的な現実との懸隔感が感じられる。離人症の症状には、自分の存在感が希薄であるとか、自分と世界の間に透明なベールがかかっているように感じるとか、自分の意識が体から抜け出して外から自分の行動を見ているような気がするなどのものがあるという。早坂の歌に特徴的なのは目の前の現実との懸隔感であり、この感覚は四首目の高い秋空にも、六首目の彼方から眺める描き方にも感じられるのである。このため一見すると明るい歌の中にも、どこかしんと静まりかえったような寂しさ・切なさを感じさせる所があり、それが早坂短歌が若い人たちに人気がある秘密だろう。

 このような特徴を持つ早坂短歌の最良の部分は次のような歌である。

 四年前、原っぱだったねとうなずきあう僕らに特に思いはなくて

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはぐらかす音楽(おと)

 そらいろのセスナがとおく飛んでいてそればかりみているゆうまぐれ

 そしていつか僕たちが着る年月という塵のようなうすいジャケッツ

 カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした

 ふと僕が考えるのは風のまま外海へ出たボールのことだ

 空っぽの五つの椅子が海沿いのホテルでしんと空を見ている

 これらの歌を読んでいると、「みずいろのゼリーがあれば 皿のうえにきままきまぐれのみつるゆうがた」と詠んだ村木道彦をつい連想してしまう。村木の短歌は徹底して青春の歌であり、早坂の短歌もまた過剰なまでの青春性を帯びている。若い人は村木の歌にハマる時期があるというが、早坂の歌にも若さを引きつける同じような強い磁力がある。

 その一方で早坂には次のような歌もある。

 閉ざされた体に黒く穿たれたのぞき穴から空を見ている

 にじみ出る汗でこの世を汚します僕の海辺は真っ赤な海です

 〈越えがたい死魔の領域〉という沼に生い茂ってゆけ夜の羊歯類

 しらじらという空の様子は死んでゆく肉の臭いにすこし似ている

このような自己の内の暗い辺土への傾斜には驚かされるが、歌集巻末に添えられた異例に長いあとがきに述べられている17歳の時の家出のエピソードを読むと、なるほどと納得するものがある。家と学校が代表する「不自由なチューリップ畑」から逃げ出すべく家出して鳥取砂丘まで行ったが、そこにあったのは風と誰も乗っていないリフトと遙かに見える海だけだったという。この無人の砂丘が早坂の原風景である。歌が暗く寂しいのは無理もない。

 短歌界での早坂の評価は定まってはいないようだ。『短歌ヴァーサス』第9号に荻原裕幸が「悲鳴の気配」と題して早坂短歌の受け容れにくさについて寄稿している。短歌はその短い詩形ゆえに省略的にならざるをえないが、その際、表現される全体の核となる部分を摘出し、残りの部分は読者の想像に任せるというのがふつうの手法である。一方、早坂の歌では逆であり、テキストの外に表現の核となる部分をはみ出させてしまい、決めどころになる部分を欠いているにもかかわらず、読んでいると泣きたくなると荻原は書いている。これはどういうことだろうか。比較的世代の近い歌人の歌と比較してみよう。

 冷蔵庫の上に一昨日求めたるバナナがバナナの匂いを放つ 吉野裕之『空間和音』

 貝柱スライスされて卓にありその他の臓器既に洗はれ  大津仁昭『異民族』

 吸い終えたたばこ灰皿に押しつけて口惜しそうな夏の唇  武田ますみ『そしてさよなら』

早坂の短歌との質感の相違は明白だろう。歌が描写し提示する素材は、香るバナナであり貝柱の刺身であり君の唇であり、それらは歌の中心に確実にある。作者はその素材をある見方で、ある角度から、ある修辞を用いて言語空間に定位し、それによって作者である〈私〉が反照的に照射される。描写される素材は31文字の一首全幅を占めており、余白はない。これに対して早坂の歌の欠落感はずっと大きい。

 特別なことではなくてスリッパの片方ずつをゴミの日に出す

 海沿いにひるがえっているTシャツとただ吹くだけの風の一日

「スリッパの片方ずつをゴミの日に出す」という日常の行為が詠われていて、当然ながら読者は「どうして両方一度にゴミに出さないのか」という疑問を抱くのだが、この疑問はあらかじめ「特別なことではなくて」という意味のない措辞によって封印されている。二首目においても、もともと風はただ吹くだけなのだが、それをわざわざ「ただ吹くだけの風の一日」と表現することにより、過剰ではなくむしろ欠落が生じている。「テキストの外に表現の核となる部分をはみ出させてしまう」という荻原の言い方ももっともなのだが、それよりも目立つように感じられるのは上にも述べたどこか離人症的な現実との懸隔感なのである。しかし、そのことがかえって早坂の短歌に読者が容易に共感できる入り口を与えているとしたら、それはそれで考えてみるべき問題ではないかという気もするのである。