166:2006年8月 第3週 なみの亜子
または、吉野山中に新たな私を立ち上げる歌

われのみが内臓をもつやましさは
    森の日暮れの生臭きまで
         なみの亜子『鳴』

 略歴と歌集の栞の情報によると、作者は1963年生まれで、コピーライターとして活躍していた人らしい。「塔」短歌会に所属し、同人誌『D・arts』で評論に健筆をふるい、2005年には「寺山修司の見ていたもの」で現代短歌評論賞を受賞している。『鳴』は第一歌集で「めい」と読む。

 短歌には、作者の人生行路と不即不離の関係に立つものもあれば、作者の実人生を直接には反映しないものもある。前者は「人生派」であり、後者は「芸術派」「コトバ派」を旗印とする。歌集の構成に当たっては、前者は編年体を好み、後者は歌の制作年代に関係なく歌集一巻を緻密に構成することを好む。これらすべては作者と歌の関係に由来する。

 なみの亜子の『鳴』を一読してまず感じるのは、作者の人生行路を抜きにしてこの歌集を読むことはできないということである。なぜなら、作者は都会生活を捨てて、奈良県の吉野の山中に移住するという決断をしているからである。歌集は5章に別れているが、1章から4章までが移住前の歌で、5章が移住後の歌であり、両者の間で歌の質におおきなちがいがあるのである。前半からいくつか歌を引いてみよう。

 ゆっくりと紙飛行機を折るように部屋着をたたむあなた アディオス

 着て逢えばきまって雨になるシャツの 壊れ始めはこんなに静か

 もうあかんと言ってしまった女子トイレ角(かど)つきあわせタイルの並ぶ

 死ぬときもひとり 小型の掃除機の背筋を伸ばして立っている部屋

 雨音に気づいたのはきみ夜明け前細くサッシを開けて抱き合う

 不倫中ほどには結婚したくなくラップされてる秋の日向よ

 片方の靴ばっかりを売る男それを値切れる男に歯のなし

 きみはもうオレのかたちになったんか疑似餌(ルアー)見せ合うときの間に

 一首目、「アディオス」はスペイン語で「さようなら」だから、これは男との別れの歌である。歌全体がかもし出す雰囲気はあくまで都会的な男女の恋愛風景だろう。二首目も別れの歌で、下句の「壊れ始めはこんなに静か」にかすかな諦念が感じられる。三首目は職場におけるストレスを詠んだものだろうか。四首目は働いてひとりで生きて行く女性の決意が詠われている。五首目になると、作者は新たな愛に出会う。同じ愛かどうかはわからないが、六首目を見ると結婚して家族のいる男性との不倫関係を経た恋愛であることが知れる。一首跳んで最後の歌では、恋愛対象である相手の男性と渓流釣りに出掛けていて、やがて結ばれる幸福感が滲み出ている。

 というように、歌集前半の歌を眺めて行くと、都会で働く女性の感情生活を中心とした歌が並んでいて、恋愛の喜びと悲しみや孤独感が大きな位置を占めている。やや異色なのは先ほど跳ばした七首目で、天王寺界隈というディープな大阪の風景を詠んだ歌群である。このラインもなかなかおもしろいと思うのだが、おそらく作者にとってこの方向性の歌は単なる通過点に過ぎないだろう。吉野移住後の歌は次のように変化する。

 南天の赤き実のみが免れて雪の積もりのひたすらなるを

 みずうみの底へあなたは先にゆき待つべしぬるき岩礁として

 活け墓は一度しずかに陥没す人のようやく身を逃れる日

 唱えつつおばあら暗き振動体となりゆくさまを 覧娑婆訶(おんらんそわか)

 驟雨あらば 昨夜殺せしむかでよりたちくるものの濃ゆき土間なり

 作者を取り巻く風景は一変する。雪深い山里で、つい最近まで土葬が行なわれていて、昼でも暗い茅葺きの家のなかから、老婆達の唱える真言密教のマントラが響いて来る。このような生活風土の変化と連動するように、歌集前半で詠まれていた都会的恋愛風景は、二首目の歌のようにおだやかに自然と融合するかのごとき情感の表現へと変わるのである。

 風土の変化は作者の感性の変化を招来せずにはおかない。掲出歌「われのみが内臓をもつやましさは森の日暮れの生臭きまで」を見ると、深閑とした山の木々に囲まれて、「われのみが内臓をもつ」という認識に至り、生臭さの幻臭を感じるまでに至る。新たな環境に置かれた作者の感性の変化が、自己認識の方向へと歌を押し上げている様が手に取るように感じられる。歌集の白眉は隣り合う次の歌だろう。

 深く息をすい込むときに少しだけさざめく森のありなむ我に

 立ちおれば藻におおわれし沼なりきわたしのなかに沈みおる靴

 ある夜は羽蟻おびただしき卓の上わたしひとりのものを咬む音

 一首目は自分の体の中に森の存在を感じているのだが、その想像上の森は周囲に拡がる現実の森と秘やかに呼応している。二首目も外と内の呼応であり、身体の中に沼を感じているのだろう。三首目ではふだん意識しない咀嚼の音を、絶対的静寂のなかで見いだしている。歌集前半に見られた淡い喪失感や疎外感覚は、歌集後半では影を潜めてしまう。それらは厳しい山国の風土の中に静かに溶解し、生と死が露わに見える新しい環境が作者の新たな〈私〉を浮上させているのである。歌は風土と切り離すことができないという事実を今更ながらに思い出させてくれる歌集である。