167:2006年8月 第4週 便器の歌

 もともと和歌は雅の世界であり、至高の美をめざすものだったが、明治になって近代短歌が成立すると、人間の生活に関係するものすべてを素材とするようになった。そこには明治時代に大きな影響力を持った文学思想としての自然主義も関係している。蒲団を抱えて泣く例のアレですね。というわけで歌の世界には登場しにくかった便所も短歌に詠われるようになった。とはいえそれほど数があるわけではない。先ごろ上梓された労作『現代短歌分類集成』(おうふう)には、5首が収録されている。

 蒸しむしと暑き昼なり厠にて大きなる蜘蛛をたたき殺しぬ  川田 順

 セザンヌをトイレに飾るセザンヌはトイレに画きしものならなくに  岩田 正

 同じ家の中でも書斎や台所を詠った歌はたくさんあるので、劣勢はいかんともしがたい。ちなみに『現代短歌分類集成』の分類項目は曲者で、「台所」は立項されておらず「厨」が見出し語になっていたりして油断がならない。川田の歌は昔風の汲み取り便所の雰囲気が濃厚で、岩田の歌は表現も「トイレ」となっていてマンションの白いトイレを思わせる。おのずから時代の変化が反映されている。便所というと、短歌ではなく俳句だが、寺山修司の「便所より青空見えて啄木忌」という句が頭に浮かぶ人も多かろう。場所としての便所ではなく、物体としての便器の歌となるとさらに数が少ないが、ないわけではない。そこには短歌の表現領域をひたすら拡大しようとしてきた現代歌人たちの汗と涙が感じられるのである。

 ベダルきゅうと下げるやいなやTOTOの初雪色にあふれだす冬  十谷あとり

 ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに  島田幸典

 便器から赤ペン拾うたった今覚えたものを手に記すため  玲はる名

 十谷の歌では、便器は代表的衛生陶器メーカーでロックバンドの名前にもなったTOTOと換喩的に表現されている。下句の「初雪色にあふれだす冬」は、水流が泡立つ様子と外の冬景色を重ね合わせているのだろう。島田の歌のポイントは、大袈裟なまでに古歌の語法をパスティーシュしているところにあり、その古語法と便器という素材との懸隔感が歌を成立させている。一方、玲の歌では便器は詠われる対象というよりも、もう少し作者の内的世界に関係する物象として把握されている。理由のよくわからない切迫感とせつなさを浮上させるために、便器は効果的なアイテムとして使われているのである。若い歌人の歌には、理由のよくわからないせつなさを表現しているものが多く見られる。玲の歌もまたその系譜に連なるものとして読める。だからここはどうしても便器でなくてはならないのだという意味で、理由のある便器の歌なのだ。

 つややかな便器がほつり陽をあびてまずしい広場の泉のそばに  小林久美子

 あたたかな便座に腰かけて両の掌をひざにはさみておりつ

 ろざりあは べんざにすわり なきじゃくる くちいっぱいに ものをおしこみ 

 小林には便器の歌が多い。好みの素材と思われる。小林独特の童話のような催眠的リズムで紡ぎ出される歌のなかで、便器は暖かく人を座らせて受け容れるものとして把握されているようだ。正の価値を付与された便器の歌としては出色のものと言えるだろう。

 抗菌仕様の便器から立ちあがって走れ! 聖なれ! 傲慢であれ!  早坂 類

 真夜中の二十ワットに照らさるる便器の白をしばし見おろす  浜名理香

 十戒につけ加へたきいましめぞ便器に立ちて説教するな  山田富士郎

 洋式便器ずらりとならぶ会議室疑ひもなく腰かけてゐる

 早坂の歌では抗菌仕様の便器は人を拘束するものとして捉えられているようだが、便器でなくてはならない必然性があまり感じられない。浜名の歌は極めて即物的に便器を詠っていて、即物的すぎてコメントのしようがない。山田の歌は一風変わっている。ロンドンのハイド・パークあたりに行くと、日曜の朝、道行く人に演説している人を見かけるが、たまたま便器に立って説教していた人がいたのだろうか。それにしても十戒に付け加えたいとは激しい怒りようである。山田は「世界はかくあるべきだ」という倫理性の高い歌人なので、このように怒るわけだ。山田の2首目はたぶん夢の光景だろう。「便器に腰掛ける」という行為の秘私性が夢の中の異和感を演出している。

 通庸のひまごの家でとまどひぬ西洋便器をまへにしてしまひ  仙波龍英

 極東製西洋便器に腰おろす水無月はるか霊界をおもふ

 通庸とは三島通庸(みちつね)で、幕末の薩摩藩士から明治政府の内務官僚となり、子爵にまで上り詰めた人。土木県令とまで呼ばれた人だったから、通庸の曾孫の家も立派な洋風建築だったのだろう。しかし私生活においては仙波も負けないほどの資産家の息子だったから、西洋便器にたじろいだとはちょっと考えにくい。2首目では便器に座って霊界に思いを馳せていて、便器が異界との交通機関のように捉えられている。そういえば、人気スクリーンセーバーのフライング・トースターのもじりで、空飛ぶ便器というのがあったと記憶している。ちなみに、この歌の前に詞書きのように「全長が十米ものキタミミズ羽帽あたりに棲むといふ恐ろし」という謎のような文言があり、注に「『スクラップ学園』(吾妻ひでお著)による」とある。『わたしは可愛い三月兎』にはおびただしい詞書きと注が付されており、誰か解読してくれないかと思うほどである。

 今日からはあげっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか  穂村 弘

角川『短歌』2006年1月号に発表された「火星探検」のなかの一首で、亡くなった母親への挽歌である。小用を足した後には便座を降ろしておいてくれと母親から常日頃言われていたのだろう。母親が亡くなった今ではもう降ろす必要がないのだが、それでも便座が無駄に降ろされているところに痛切な喪失感があり、便器を詠った歌のなかでは最も心を打つものとなっている。今までの穂村の歌とは感触が異なる点も注目されるのである