第232回 なみの亜子『「ロフ」と言うとき』

二分咲きの梅に降りくるにわか雪梅花は真白でなきを知りたり
なみの亜子『「ロフ」と言うとき』
 梅が二分咲きだから季節は2月である。梅は一番に春を告げる花だが、早く咲くために雪が降ることもある。都会でもままあることだが、作者が住む山中ではふつうのことなのだろう。白梅の花に雪が降る。真っ白な雪と比較すると、白梅の花にもうっすらと色が着いていることに初めて気づくという歌である。「発見の歌」に分類される歌であるが、結句の「真白でなきを知りたり」に一抹の寂しさが感じられるところが歌の味わいだろう。

 なみの亜子は「塔」所属の歌人で編集委員。数々の受賞歴があり、本歌集は『めい』(2006年)、『ばんどり』(2009年)、『バード・バード』(2013年)に続く第4歌集である。2017年に上梓された。歌集題名は最初は何のことかよくわからないが、読み進むにうちにやがてその意味が明かされる。
 作者は10数年前に都会生活を捨てて西吉野の山中に移り住んでいる。作者の歌の最大の魅力は山深い自然の息吹が肌に感じられる点だろう。

朝靄を手にわけてゆく山みちにししの掻き跡ぬれぬれとして
朽ちすすむ小屋にも秋の陽のあたる山のほぐれていたるひととき
背のたかき檜の縦に裂くるがはながくながくわが耳にさけぶ
電源の遮断されたる集落は降り積もりゆく雪にともさる
生きながら死んでゆく樹よ山がわの樹皮より獣の唾液に病みて

 一首目、山の朝は靄が深い。山道に残るイノシシの掻き跡がまだ乾いておらず生々しく濡れている。イノシシは泥に体を擦りつけて体表に付く寄生虫を取るという。そんな風景だろうか。二首目、山村は過疎化と高齢化が進んでいる。無人のまま朽ちる家屋も多くある。そんな小屋に穏やかな陽が射す時間は、厳しい顔を見せる山の自然がゆったりとくつろいでいる時間なのだ。三首目、枝に積もった雪の重みに耐えかねて樹木が裂ける。雪の多い冬は倒木被害が甚大である。下句の「ながくながくわが耳にさけぶ」の14音の破調は、木の叫びが耳から離れない様を表すものだろう。四首目、倒木によって電線が破断して村は停電になる。一帯は闇に包まれるが、灯りがなくなると、積もった雪が白く見える、いわゆる雪明かりによって村がぼうっと明るく見える。五首目、鹿は樹皮を剥がして食べるので、木が枯れてしまう食害が大きい。鹿除けにネットを張っても器用に飛び越してしまうので、手の打ちようがないのだそうだ。鹿は斜面に生えた木の山側から樹皮を囓るというのは、実際に見た人でないとできない表現だろう。
 都会生活をしている人間には想像もできない山深い自然の厳しさと豊かさである。その自然は聴覚、触覚、味覚、嗅覚などすべての感官を打つのだが、なかでも音についての歌が印象に残る。

このごろは近くまで来る夜の鹿の小枝折るおと目つむりて聞く
ひとつぶひとつぶ水死なせゆく音として聴けるつめたきわが夜の耳
軍団となりて烏はとりかこむとんび一羽の羽ひらくおと

 一首目、夜更けか明け方に鹿が小枝を踏む音が寝室の間近に聞こえる。二首目の前には「垂直に夜をしたたり落ちながら水はまもれり管の凍るを」という歌があるので、冬の夜に水道管が凍結するのを防ぐために、蛇口を少し緩めて水を出している様子だと知れる。ぼたりぼたりと水が滴る音を「水死なせゆく音」と聴いているのである。初句の「ひとつぶひとつぶ」という字余りのリフレインが水の滴りを表現している。美しい歌である。三首目、都会でも見かける光景だが、烏と鳶は生活圏が重なっているため、よく喧嘩する。一羽の鳶を烏の群れが取り囲み、鳶はさて逃げるかと羽を開くのだ。
 そんな山暮らしの作者に事件が起きる。いっしょに暮らしているパートナーがあろうことか脊椎を損傷して障碍者となるのである。

尿袋ぶらさげにつつ窓際のベッド電動にひとを起こしぬ
車椅子で自宅でできる仕事ですか、と尋ねられしをひとには言わず
座位とれるまでの五十日水っ気のおおき流木たりしあなたは
車椅子でどこにも行きたくないひとの車椅子押す自販機までを
五足目の靴買いゆけど気にいらぬまず靴を履くというができぬも

 脊椎を損傷して下半身麻痺の状態が続く。ようやく座位がとれるようになり、車椅子に乗るようになっても、障碍者になったショックの大きさは想像に難くない。やがてパートナーはリハビリに励んでようやく杖で歩行できるようになる。

障害に等級ありぬわが夫は二番目の重さと申請さるる
杖の名はロフストランドクラッチという「ロフ」と言うとき息多く出る
両杖のグリップ以外のもの持てず座ればものを取りには行けず
あたらしき歩行にひとの動くとき犬の二頭は杖にきゆく
何もかもどいつもこいつも腹立って腹立って投げくるたとえば尿瓶

 二首目で歌集題名の謎が明らかになる。「ロフストランドクラッチ」とは、脇で体重を支える通常の松葉杖とは異なり、手首から肘までをカバーする支えが付いている金属製の杖のことである。その名を略して「ロフ」と呼んでいるのだ。しかし歩行のために両手を使うので、三首目にあるように物を持つことができない。「なんでこんなことになったのか」というやり場のない怒りが高じて、五首目のように物を投げたくなるのも当然である。

スティール社のわが草刈り機十年を越えてまだ刈る刈れるが嬉し
現実として貧困をきわめつつもらった胡瓜日に三度食う
道造り今年はかあちゃんわれが出る座って草でも引けよと言わる
伐りたての生木のごとき重たさに横たわりいて起きがたき身は

 山では体を使わないと暮らして行けない。放置しておくと庭は草で覆われてしまう。雨で流された道の修復は集落の共同作業である。以前はパートナーがしていた仕事も作者がするしかない。歌集後半は生活のための苦闘の連続であり、読んでいて心が苦しくなる。
 そんな暮らしのなかでも作者は微細な自然の息吹に目を注いでいる。

 

かすか水仙の香りのしたり雪のしむ浸潤ふかき土踏みゆけば
誰かひとつ置き忘れたる手袋のごとき朴の葉秋の深みに
陽のあたる川面にひかり立つ朝をひかり分けゆく犬をしたがえ
高き陽の下ゆく人の誰も誰もまるくさびしい影をはなさず
盛りたつ草のふかみにつゆくさの花のひかりて青を放ちぬ

 

 パートナーが脊椎損傷によって障碍を負うという大きな事件が本歌集の山場なので、どうしてもその顛末に目が行くが、作者の資質は上に引いたような身の回りの自然に細やかな目を注ぐ歌によく表れているように感じられる。
 あとがきによれば作者とパートナーは山を降りて都会に引っ越したようだ。もう山の自然を詠んだ歌を読むことができないのかと思うと残念な気持ちにもなるが、日々の暮らしが安らかになることを願うばかりである。

 

166:2006年8月 第3週 なみの亜子
または、吉野山中に新たな私を立ち上げる歌

われのみが内臓をもつやましさは
    森の日暮れの生臭きまで
         なみの亜子『鳴』

 略歴と歌集の栞の情報によると、作者は1963年生まれで、コピーライターとして活躍していた人らしい。「塔」短歌会に所属し、同人誌『D・arts』で評論に健筆をふるい、2005年には「寺山修司の見ていたもの」で現代短歌評論賞を受賞している。『鳴』は第一歌集で「めい」と読む。

 短歌には、作者の人生行路と不即不離の関係に立つものもあれば、作者の実人生を直接には反映しないものもある。前者は「人生派」であり、後者は「芸術派」「コトバ派」を旗印とする。歌集の構成に当たっては、前者は編年体を好み、後者は歌の制作年代に関係なく歌集一巻を緻密に構成することを好む。これらすべては作者と歌の関係に由来する。

 なみの亜子の『鳴』を一読してまず感じるのは、作者の人生行路を抜きにしてこの歌集を読むことはできないということである。なぜなら、作者は都会生活を捨てて、奈良県の吉野の山中に移住するという決断をしているからである。歌集は5章に別れているが、1章から4章までが移住前の歌で、5章が移住後の歌であり、両者の間で歌の質におおきなちがいがあるのである。前半からいくつか歌を引いてみよう。

 ゆっくりと紙飛行機を折るように部屋着をたたむあなた アディオス

 着て逢えばきまって雨になるシャツの 壊れ始めはこんなに静か

 もうあかんと言ってしまった女子トイレ角(かど)つきあわせタイルの並ぶ

 死ぬときもひとり 小型の掃除機の背筋を伸ばして立っている部屋

 雨音に気づいたのはきみ夜明け前細くサッシを開けて抱き合う

 不倫中ほどには結婚したくなくラップされてる秋の日向よ

 片方の靴ばっかりを売る男それを値切れる男に歯のなし

 きみはもうオレのかたちになったんか疑似餌(ルアー)見せ合うときの間に

 一首目、「アディオス」はスペイン語で「さようなら」だから、これは男との別れの歌である。歌全体がかもし出す雰囲気はあくまで都会的な男女の恋愛風景だろう。二首目も別れの歌で、下句の「壊れ始めはこんなに静か」にかすかな諦念が感じられる。三首目は職場におけるストレスを詠んだものだろうか。四首目は働いてひとりで生きて行く女性の決意が詠われている。五首目になると、作者は新たな愛に出会う。同じ愛かどうかはわからないが、六首目を見ると結婚して家族のいる男性との不倫関係を経た恋愛であることが知れる。一首跳んで最後の歌では、恋愛対象である相手の男性と渓流釣りに出掛けていて、やがて結ばれる幸福感が滲み出ている。

 というように、歌集前半の歌を眺めて行くと、都会で働く女性の感情生活を中心とした歌が並んでいて、恋愛の喜びと悲しみや孤独感が大きな位置を占めている。やや異色なのは先ほど跳ばした七首目で、天王寺界隈というディープな大阪の風景を詠んだ歌群である。このラインもなかなかおもしろいと思うのだが、おそらく作者にとってこの方向性の歌は単なる通過点に過ぎないだろう。吉野移住後の歌は次のように変化する。

 南天の赤き実のみが免れて雪の積もりのひたすらなるを

 みずうみの底へあなたは先にゆき待つべしぬるき岩礁として

 活け墓は一度しずかに陥没す人のようやく身を逃れる日

 唱えつつおばあら暗き振動体となりゆくさまを 覧娑婆訶(おんらんそわか)

 驟雨あらば 昨夜殺せしむかでよりたちくるものの濃ゆき土間なり

 作者を取り巻く風景は一変する。雪深い山里で、つい最近まで土葬が行なわれていて、昼でも暗い茅葺きの家のなかから、老婆達の唱える真言密教のマントラが響いて来る。このような生活風土の変化と連動するように、歌集前半で詠まれていた都会的恋愛風景は、二首目の歌のようにおだやかに自然と融合するかのごとき情感の表現へと変わるのである。

 風土の変化は作者の感性の変化を招来せずにはおかない。掲出歌「われのみが内臓をもつやましさは森の日暮れの生臭きまで」を見ると、深閑とした山の木々に囲まれて、「われのみが内臓をもつ」という認識に至り、生臭さの幻臭を感じるまでに至る。新たな環境に置かれた作者の感性の変化が、自己認識の方向へと歌を押し上げている様が手に取るように感じられる。歌集の白眉は隣り合う次の歌だろう。

 深く息をすい込むときに少しだけさざめく森のありなむ我に

 立ちおれば藻におおわれし沼なりきわたしのなかに沈みおる靴

 ある夜は羽蟻おびただしき卓の上わたしひとりのものを咬む音

 一首目は自分の体の中に森の存在を感じているのだが、その想像上の森は周囲に拡がる現実の森と秘やかに呼応している。二首目も外と内の呼応であり、身体の中に沼を感じているのだろう。三首目ではふだん意識しない咀嚼の音を、絶対的静寂のなかで見いだしている。歌集前半に見られた淡い喪失感や疎外感覚は、歌集後半では影を潜めてしまう。それらは厳しい山国の風土の中に静かに溶解し、生と死が露わに見える新しい環境が作者の新たな〈私〉を浮上させているのである。歌は風土と切り離すことができないという事実を今更ながらに思い出させてくれる歌集である。