なみの亜子は「塔」所属の歌人で編集委員。数々の受賞歴があり、本歌集は『鳴』(2006年)、『ばんどり』(2009年)、『バード・バード』(2013年)に続く第4歌集である。2017年に上梓された。歌集題名は最初は何のことかよくわからないが、読み進むにうちにやがてその意味が明かされる。
作者は10数年前に都会生活を捨てて西吉野の山中に移り住んでいる。作者の歌の最大の魅力は山深い自然の息吹が肌に感じられる点だろう。
朝靄を手にわけてゆく山みちに猪の掻き跡ぬれぬれとして
朽ちすすむ小屋にも秋の陽のあたる山のほぐれていたるひととき
背のたかき檜の縦に裂くるがはながくながくわが耳にさけぶ
電源の遮断されたる集落は降り積もりゆく雪にともさる
生きながら死んでゆく樹よ山がわの樹皮より獣の唾液に病みて
一首目、山の朝は靄が深い。山道に残るイノシシの掻き跡がまだ乾いておらず生々しく濡れている。イノシシは泥に体を擦りつけて体表に付く寄生虫を取るという。そんな風景だろうか。二首目、山村は過疎化と高齢化が進んでいる。無人のまま朽ちる家屋も多くある。そんな小屋に穏やかな陽が射す時間は、厳しい顔を見せる山の自然がゆったりとくつろいでいる時間なのだ。三首目、枝に積もった雪の重みに耐えかねて樹木が裂ける。雪の多い冬は倒木被害が甚大である。下句の「ながくながくわが耳にさけぶ」の14音の破調は、木の叫びが耳から離れない様を表すものだろう。四首目、倒木によって電線が破断して村は停電になる。一帯は闇に包まれるが、灯りがなくなると、積もった雪が白く見える、いわゆる雪明かりによって村がぼうっと明るく見える。五首目、鹿は樹皮を剥がして食べるので、木が枯れてしまう食害が大きい。鹿除けにネットを張っても器用に飛び越してしまうので、手の打ちようがないのだそうだ。鹿は斜面に生えた木の山側から樹皮を囓るというのは、実際に見た人でないとできない表現だろう。
都会生活をしている人間には想像もできない山深い自然の厳しさと豊かさである。その自然は聴覚、触覚、味覚、嗅覚などすべての感官を打つのだが、なかでも音についての歌が印象に残る。
このごろは近くまで来る夜の鹿の小枝折るおと目つむりて聞く
ひとつぶひとつぶ水死なせゆく音として聴けるつめたきわが夜の耳
軍団となりて烏はとりかこむとんび一羽の羽ひらくおと
一首目、夜更けか明け方に鹿が小枝を踏む音が寝室の間近に聞こえる。二首目の前には「垂直に夜をしたたり落ちながら水はまもれり管の凍るを」という歌があるので、冬の夜に水道管が凍結するのを防ぐために、蛇口を少し緩めて水を出している様子だと知れる。ぼたりぼたりと水が滴る音を「水死なせゆく音」と聴いているのである。初句の「ひとつぶひとつぶ」という字余りのリフレインが水の滴りを表現している。美しい歌である。三首目、都会でも見かける光景だが、烏と鳶は生活圏が重なっているため、よく喧嘩する。一羽の鳶を烏の群れが取り囲み、鳶はさて逃げるかと羽を開くのだ。
そんな山暮らしの作者に事件が起きる。いっしょに暮らしているパートナーがあろうことか脊椎を損傷して障碍者となるのである。
尿袋ぶらさげにつつ窓際のベッド電動にひとを起こしぬ
車椅子で自宅でできる仕事ですか、と尋ねられしをひとには言わず
座位とれるまでの五十日水っ気のおおき流木たりしあなたは
車椅子でどこにも行きたくないひとの車椅子押す自販機までを
五足目の靴買いゆけど気にいらぬまず靴を履くというができぬも
脊椎を損傷して下半身麻痺の状態が続く。ようやく座位がとれるようになり、車椅子に乗るようになっても、障碍者になったショックの大きさは想像に難くない。やがてパートナーはリハビリに励んでようやく杖で歩行できるようになる。
障害に等級ありぬわが夫は二番目の重さと申請さるる
杖の名はロフストランドクラッチという「ロフ」と言うとき息多く出る
両杖のグリップ以外のもの持てず座ればものを取りには行けず
あたらしき歩行にひとの動くとき犬の二頭は杖に即きゆく
何もかもどいつもこいつも腹立って腹立って投げくるたとえば尿瓶
二首目で歌集題名の謎が明らかになる。「ロフストランドクラッチ」とは、脇で体重を支える通常の松葉杖とは異なり、手首から肘までをカバーする支えが付いている金属製の杖のことである。その名を略して「ロフ」と呼んでいるのだ。しかし歩行のために両手を使うので、三首目にあるように物を持つことができない。「なんでこんなことになったのか」というやり場のない怒りが高じて、五首目のように物を投げたくなるのも当然である。
スティール社のわが草刈り機十年を越えてまだ刈る刈れるが嬉し
現実として貧困をきわめつつもらった胡瓜日に三度食う
道造り今年はかあちゃんわれが出る座って草でも引けよと言わる
伐りたての生木のごとき重たさに横たわりいて起きがたき身は
山では体を使わないと暮らして行けない。放置しておくと庭は草で覆われてしまう。雨で流された道の修復は集落の共同作業である。以前はパートナーがしていた仕事も作者がするしかない。歌集後半は生活のための苦闘の連続であり、読んでいて心が苦しくなる。
そんな暮らしのなかでも作者は微細な自然の息吹に目を注いでいる。
かすか水仙の香りのしたり雪のしむ浸潤ふかき土踏みゆけば
誰かひとつ置き忘れたる手袋のごとき朴の葉秋の深みに
陽のあたる川面にひかり立つ朝をひかり分けゆく犬をしたがえ
高き陽の下ゆく人の誰も誰もまるくさびしい影をはなさず
盛りたつ草のふかみにつゆくさの花のひかりて青を放ちぬ
パートナーが脊椎損傷によって障碍を負うという大きな事件が本歌集の山場なので、どうしてもその顛末に目が行くが、作者の資質は上に引いたような身の回りの自然に細やかな目を注ぐ歌によく表れているように感じられる。
あとがきによれば作者とパートナーは山を降りて都会に引っ越したようだ。もう山の自然を詠んだ歌を読むことができないのかと思うと残念な気持ちにもなるが、日々の暮らしが安らかになることを願うばかりである。