037:2004年2月 第1週 本多 稜
または、折々の歌を否定する行動派の抒情

蒼穹に重力あるを登攀の
  まつ逆さまに落ちゆくこころ

            本多稜『蒼の重力』
 作者は1967年生まれ。処女歌集『蒼の重力』(本阿弥書店)で1998年に第9回歌壇賞を受賞している気鋭の新人である。私は作者について何の予備知識もなく、歌壇に疎いので失礼ながらそのお名前も受賞歴も知らなかった。ある日、郵便で作者から歌集が送られて来た。歌人から直接歌集の贈呈を受けるのは初めてだったので、ちょっとわくわくしてしまった。栞文には、佐佐木幸綱、栗木京子、小池光が寄稿するという強力布陣である。

 ふつう私はどこかで目にした短歌が気に入り、その人の歌集を買う。だから私が買う歌集は、基本的には好きな歌人のものばかりだ。自分で買ったのではない歌集を読むというのは、考えてみれば初めてのことである。行き先のわからない列車に乗せられたようなもので、期待もあるが不安も大きい。しかし、一読して期待は裏切られなかった。

 作者はどうやら外資系の証券会社か商社に勤めていて、海外勤務も長いらしい。「フランクフルトからロンドンに異動させ即座に解雇せし米系は」「先物に振り回さるる現物の価値の霞にまぎれてゆくも」といった職場詠を見ると、グローバル化した資本主義の最先端で、生き馬の目を抜くような為替取引か先物取引の仕事をしているようだ。こういう現実まみれのタフな職業と、伝統的な詩形である短歌の取り合わせが、まず珍しいことだ。

 次にこの歌集には海外詠が多いのだが、それがパックツアーによる物見遊山の旅行ではなく、本格的なアルプスやヒマラヤ登山、沖縄でのスキューバダイビング、ブータン旅行、聖地アトス山と、秘境に分け入って行く体育会系肉体派の旅行なのである。ラグビー選手だった佐佐木幸綱のような例はあるが、だいたい文学をやる人は軟弱派が多いので、これまた珍しい取り合わせである。

 このように本多の短歌は〈行動派〉の文学である。その結果、生み出された歌は、自己の内面を観照する内省的なものではなく、自然と肉体とが格闘する外向的なものになる。

 真向かへば斬りかかりくる雪稜の空の領地を奪い取るなり

 我が足よ雪の峰々つらなりて天の果(はたて)に怒濤をなせり

 くれなゐを闇にしづむる雪嶺よ眼を灼く山の一切放下(ほうげ)

 いずれも勇壮な歌で、肉体と骨のきしみが聞こえて来るようだ。形式はおおむね文語定型を遵守し、前衛短歌が駆使した破調の句割れや句跨りはほとんど使われていない。このような文体的選択も、端正な男歌という印象を強めている。

 単に雪山を詠めばそれは叙景歌になる。「風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬわが思哉」という西行の歌は、「叙景を通して抒情に到る」という古典和歌の中心的美学の実現である。ここでは力点は山ではなく私の心のゆくへの方にある。雪山を見ている人は、こちら側にいて対象と向き合っているのだが、思いはいつのまにか内面へと移動している。この視線のなめらかな推移が31文字の短歌のリズムに乗ったとき、古典和歌はフルパワーを発揮する。

 ところが本多の歌では、作者は山を見ているのではなく、山に分け入っていて、対象と斬り結ぶという関係になる。だから掲出歌のように、天地が逆転して頭の上の青空が重力を帯びて、自分の体を引きつけるというような特異な肉体感覚が生まれるのである。作者と対象のこのような関係の類例を過去に探すと、写実を重んじたアララギと実感尊重を唱えた自然主義文学の影響から生まれたとされる次のような歌に近いと言えるかもしれない。

 槍が岳そのいただきの岩にすがり天(あめ)の真中に立ちたり我は

                         窪田空穂

山の次は海である。

 おもむろにイトマキエイの糸巻を垂らして海を覆ひたりけり

 わたつみのはらわた見するやさしさや身の丈ほどの海鼠に遇へり

 わが吐きし息のふるへる銀粒を目に追ひながら海面へ向かふ

 スキューバダイビングから生まれたこれらの歌にもまた同じ構造がある。ここには情景を観照する静止した自己がない。自分もまた自然に動的に参入することにより、自意識の核としてのエゴが水中に溶解している。このことを端的に示しているのが次の歌だろう。

 チョモラリの峰頂ふふむ天心を見霽(みはる)かすなり 我在りて無し

 しかし集中の歌のすべてが、このような行動派の勇壮な歌ばかりというわけではない。そのことがこの歌集の印象の厚みとして表れている。

 古生代シルル紀末の海水に妻はわが子を泳がすらしも

 響き合ふいのち水輪うつしよに吾子のみなわのひろがりはじむ

 若き木を額(ぬか)に育つる観音の微笑みながら潰えてゆくも

 たまゆらに夜空一点輝きぬ我を狙へる星あるあはれ

 最初の二首ははじめて子供が産まれたときの歌である。古代から綿々と続く命の連鎖に思いを馳せつつも、ここにも外へと自己を開く視線が強く感じられる。次の二首はアンコールワットとバリ島を訪れたときの旅行詠だが、木々に浸食され崩壊していく観音像を見ても、滅びの感傷に流れないところに作者の位置取りが明確に表れていよう。

 金色の海の底より細雪ル・シャンパーニュ空へ降り積む

 ローマ風オッソブッコの骨髄のとろみのやうな奴であるべく

 熟したるロックフォールの緑青の黴ピリピリと進む月蝕

 読んでいて楽しいのは、上のような飲食の歌だ。立ち上る泡を降り積もる雪に見立てて天地を逆転したり、ブルーチーズの青黴を月蝕に見立てるなど、作者も楽しんで歌を作っていることは明らかだろう。

 栞文で小池光が指摘しているように、この歌集には「折々の歌」がない。日々の生活のなかでふと感じた些細なことを歌にしたというものがないのである。すべては主題詠であり、何かを明確な主題として作られている。これが本多の短歌意識の根源であり、対象から主題を掴み出さずにはおかない強靱な意志が、本多の短歌の骨格を作っていると言えるだろう。


 付 記

『蒼の重力』は2004年度の第48回現代歌人協会賞を受賞しました。おめでとうございます。(2004年4月30日記)