Jeという主語ざわめきて紫の
燻るようなアテネ・フランセ
小川真理子
燻るようなアテネ・フランセ
小川真理子
作者は1970年生まれ,『母音梯形』(河出書房新社)が処女歌集である。集中にも収録された連作「逃げ水のこゑ」で第44回短歌研究新人賞を受賞している。短歌研究新人賞は1954年に始まった歴史ある短歌賞で、第1回は中城ふみ子、第2回は寺山修司が受賞している。その後も、井辻朱美、阿木津英、大塚寅彦、加藤治郎、萩原裕幸と、受賞者の顔ぶれはまぶしいほどだ。
『母音梯形』はふつうに読めば「ぼいんていけい」だが、「トラペーズ」とルビが振ってある。「梯形」は「台形」の旧称で、「母音梯形」はフランス語を教えるときに、母音の調音を示すために口の開きと舌の位置に応じて母音を配した図形をさす。フランス語で trapèze vocalique 「トラペーズ・ヴォカリック」という。母音の数と性質から、日本語では逆三角形になるが、フランス語には12の口腔母音があるため、逆立ちした台形になるのである。私も大学でフランス語を教えているので、4月の教室では必ずこの図を黒板に描く。フランス語教師でこの図が描けない人はいない。仏文系の歌人というと、水原紫苑と黒瀬珂瀾がすぐ頭に浮かぶが、小川真理子もフランス語の教師なのである。
掲出歌はフランス語の教室での一場面だ。生徒に「私」を意味する je の発音を教えている。日本語で「ジュ」は歯茎破擦音で、歯茎に押し当てた舌端をはじいて発音するが、フランス語の je は歯茎摩擦音で、舌端を歯茎に当てず隙間をあけて発音する。だからずっと柔らかく布が擦れるような音になる。生徒の je の発音が満ちる教室を、「紫の燻るような」と作者は表現しているのである。音から色を幻視する共感覚である。
『母音梯形』はほぼ編年体に編まれた歌集なので、作者の人生の道筋を辿るように歌が現われて来る。この点で『母音梯形』は、先週取り上げた本多稜『蒼の重力』とは、おもしろいほどに対照的である。勇壮な男歌とたおやかな女歌、体育会系と文科系でも軟弱の筆頭の仏文というのは、むしろ表面的な対比だろう。本多の短歌に「折々の歌」がなく、すべてが強いテーマ性に貫かれているのに対して、小川の短歌はすべてが「折々の歌」であり、まるで夜更けに机に向かってその日その日の出来事を鍵のかかる日記に書きつけるように、歌が作られている。本多の短歌のようにテーマ性の強い歌を編年体に編集することなど、思いもよらないだろう。それと同じように、小川のような短歌を本多のようにテーマ別に編集することは、小川の短歌が拠り所とする〈日々の息づかい〉を消してしまう。小川の歌にとっては、日々の体温が重要なのだ。これは若い頃から病弱な肉体を持つ作者にとって、いわば宿命的な短歌への接近法と言えるかもしれない。
小川の歌にはっきりと自己が現われるのは、フランスのリヨンに留学してからである。
雨の名の乏しきフランスの雨よ、降るならばわが巡りに降れよ
小道さへ名前をもてるこの国で昨日も今日も我は呼ばれず
窓といふ窓外したしまざまざと一人つきりの生を映せる
三十一文字積み重ね崩し積み重ねわがたましひの砦を築く
甘辛き味を知らざる口をもて oui か non かと問ひ詰めてくる
私も学生時代にフランスに留学しているので、このような歌を生みだした思いは痛いほどよくわかる。アジアの湿潤にたいして、ヨーロッパは乾燥する大陸で雨が少ない。湿潤に慣れたアジア人にとって、ヨーロッパの気候は湿り気と陰翳に乏しい。またイエス・ノーがはっきりしたフランス人の会話は、婉曲と曖昧を好む日本人には、とにかく攻撃的に感じられる。孤独をかこつ留学中の小川にとって、日本語で短歌を作ることは、文字通り「魂の砦を築く」作業だったにちがいない。
帰国した小川はフランス語教師となる。外国語を教える職業だから、言葉に関する歌が多いのがこの歌集の特徴である。
コーヒーにクリームの溶くる匂ひなり狭窄子音につづく鼻母音
あやまたず enchaînement (アンシェヌマン)を成すこゑは新体操のリボンのうねり
心ゆくまで蜜を吸ふ蝶となり流音(リキッド)に酔ふふたひらの耳
新しき黒板に映え如月の星座のような母音梯形
短歌の重要な要素として〈喩〉があるが、この点から見てもこれらの歌はおもしろいところがある。すでに掲出歌にはjeの発音から紫を連想する共感覚があることを見たが、上の一首目には音から匂いへの共感覚がある。二首目はフランス語の滑らかな音を生み出すアンシェヌマンから新体操の波打つリボンへの連想が、三首目にはl, r の流音から蜜を吸う蝶への連想がある。
作者の日常は淡々と過ぎて行くのだが、歌集後半になって結婚し、結婚相手が戦火のパキスタン、アフガニスタンに取材に行くというあたりから、にわかに慌ただしくなって来る。
地雷埋められたる土地へなぜ君が行かねばならぬ死ぬかもしれぬ
夏帽子被りて報道する夫は戦時生命保険を掛けつ
緑色わづかなる迷彩服よ人間だけが戦ぐ地なのか
しかし、作者の体温はどうやらこのような劇的展開には向いておらず、もっと日常のささいな感覚を詠むことの方に適しているようだ。小川の短歌は、総じて体温の低い歌なのである。
小豆煮る鍋に砂糖をなじませて死者たちの闇照らしてゆけり
まづ我がはじかれそうで生徒らが円形に座ることを拒みつ
林檎にも試さるる夜 半分に割れば蜜濃きロールシャッハが
傘干せば甘ゆるやうにかたむきてその内側のさみしさを見す
わが部屋へ君が来る夏 木々の名を記しただけの地図を渡さう
最後に特にいいなと思った歌をあげておこう。
魚座なす星を結べば群肝(むらぎも)の心ならむかその闇の嵩
鳥小屋で身じろがぬ冠鷺の目交ひの鬱金したたるばかり
次の世も野鳥なるべし路上にて翼を仕舞ひこまずに死せり
『母音梯形』はふつうに読めば「ぼいんていけい」だが、「トラペーズ」とルビが振ってある。「梯形」は「台形」の旧称で、「母音梯形」はフランス語を教えるときに、母音の調音を示すために口の開きと舌の位置に応じて母音を配した図形をさす。フランス語で trapèze vocalique 「トラペーズ・ヴォカリック」という。母音の数と性質から、日本語では逆三角形になるが、フランス語には12の口腔母音があるため、逆立ちした台形になるのである。私も大学でフランス語を教えているので、4月の教室では必ずこの図を黒板に描く。フランス語教師でこの図が描けない人はいない。仏文系の歌人というと、水原紫苑と黒瀬珂瀾がすぐ頭に浮かぶが、小川真理子もフランス語の教師なのである。
掲出歌はフランス語の教室での一場面だ。生徒に「私」を意味する je の発音を教えている。日本語で「ジュ」は歯茎破擦音で、歯茎に押し当てた舌端をはじいて発音するが、フランス語の je は歯茎摩擦音で、舌端を歯茎に当てず隙間をあけて発音する。だからずっと柔らかく布が擦れるような音になる。生徒の je の発音が満ちる教室を、「紫の燻るような」と作者は表現しているのである。音から色を幻視する共感覚である。
『母音梯形』はほぼ編年体に編まれた歌集なので、作者の人生の道筋を辿るように歌が現われて来る。この点で『母音梯形』は、先週取り上げた本多稜『蒼の重力』とは、おもしろいほどに対照的である。勇壮な男歌とたおやかな女歌、体育会系と文科系でも軟弱の筆頭の仏文というのは、むしろ表面的な対比だろう。本多の短歌に「折々の歌」がなく、すべてが強いテーマ性に貫かれているのに対して、小川の短歌はすべてが「折々の歌」であり、まるで夜更けに机に向かってその日その日の出来事を鍵のかかる日記に書きつけるように、歌が作られている。本多の短歌のようにテーマ性の強い歌を編年体に編集することなど、思いもよらないだろう。それと同じように、小川のような短歌を本多のようにテーマ別に編集することは、小川の短歌が拠り所とする〈日々の息づかい〉を消してしまう。小川の歌にとっては、日々の体温が重要なのだ。これは若い頃から病弱な肉体を持つ作者にとって、いわば宿命的な短歌への接近法と言えるかもしれない。
小川の歌にはっきりと自己が現われるのは、フランスのリヨンに留学してからである。
雨の名の乏しきフランスの雨よ、降るならばわが巡りに降れよ
小道さへ名前をもてるこの国で昨日も今日も我は呼ばれず
窓といふ窓外したしまざまざと一人つきりの生を映せる
三十一文字積み重ね崩し積み重ねわがたましひの砦を築く
甘辛き味を知らざる口をもて oui か non かと問ひ詰めてくる
私も学生時代にフランスに留学しているので、このような歌を生みだした思いは痛いほどよくわかる。アジアの湿潤にたいして、ヨーロッパは乾燥する大陸で雨が少ない。湿潤に慣れたアジア人にとって、ヨーロッパの気候は湿り気と陰翳に乏しい。またイエス・ノーがはっきりしたフランス人の会話は、婉曲と曖昧を好む日本人には、とにかく攻撃的に感じられる。孤独をかこつ留学中の小川にとって、日本語で短歌を作ることは、文字通り「魂の砦を築く」作業だったにちがいない。
帰国した小川はフランス語教師となる。外国語を教える職業だから、言葉に関する歌が多いのがこの歌集の特徴である。
コーヒーにクリームの溶くる匂ひなり狭窄子音につづく鼻母音
あやまたず enchaînement (アンシェヌマン)を成すこゑは新体操のリボンのうねり
心ゆくまで蜜を吸ふ蝶となり流音(リキッド)に酔ふふたひらの耳
新しき黒板に映え如月の星座のような母音梯形
短歌の重要な要素として〈喩〉があるが、この点から見てもこれらの歌はおもしろいところがある。すでに掲出歌にはjeの発音から紫を連想する共感覚があることを見たが、上の一首目には音から匂いへの共感覚がある。二首目はフランス語の滑らかな音を生み出すアンシェヌマンから新体操の波打つリボンへの連想が、三首目にはl, r の流音から蜜を吸う蝶への連想がある。
作者の日常は淡々と過ぎて行くのだが、歌集後半になって結婚し、結婚相手が戦火のパキスタン、アフガニスタンに取材に行くというあたりから、にわかに慌ただしくなって来る。
地雷埋められたる土地へなぜ君が行かねばならぬ死ぬかもしれぬ
夏帽子被りて報道する夫は戦時生命保険を掛けつ
緑色わづかなる迷彩服よ人間だけが戦ぐ地なのか
しかし、作者の体温はどうやらこのような劇的展開には向いておらず、もっと日常のささいな感覚を詠むことの方に適しているようだ。小川の短歌は、総じて体温の低い歌なのである。
小豆煮る鍋に砂糖をなじませて死者たちの闇照らしてゆけり
まづ我がはじかれそうで生徒らが円形に座ることを拒みつ
林檎にも試さるる夜 半分に割れば蜜濃きロールシャッハが
傘干せば甘ゆるやうにかたむきてその内側のさみしさを見す
わが部屋へ君が来る夏 木々の名を記しただけの地図を渡さう
最後に特にいいなと思った歌をあげておこう。
魚座なす星を結べば群肝(むらぎも)の心ならむかその闇の嵩
鳥小屋で身じろがぬ冠鷺の目交ひの鬱金したたるばかり
次の世も野鳥なるべし路上にて翼を仕舞ひこまずに死せり