072:2004年10月 第1週 田中富夫
または、前衛派のコトバは人生のどこに着地するか

昼つ方先祖の墓の苔むして
    瓶のなか万緑のみづ燃ゆ

       田中富夫『曠野の柘榴』(青磁社)
 歌人のなかには、紀野恵のように弱冠17歳で角川短歌賞次席の栄誉を浴びて、19歳で第一歌集を上梓するという早熟の出発をする人もいれば、歌歴は長くとも歌集を持たない人もいる。今回取り上げた田中富夫もまた歌歴40年近い歌人でありながら、今年(2004年)7月に出版された『曠野の柘榴』が初めての歌集であるという。京都にある青磁社という小さな出版社から出た。帯文には河野裕子、栞文には永田和宏が寄稿している。今を去ること37年前の1967年(昭和42年)に、当時の立命短歌会と京大短歌会のメンバーを中心として、『幻想派』という同人誌が発刊された。田中富夫も河野裕子も永田和宏もこの『幻想派』に参加しており、そのため帯文も栞文も同志的友情溢れる文章となっている。あたかも同窓会の雰囲気である。

 1967年(昭和42年)とはどういう時代だったのだろうか。政治的には1965年に米軍によるベトナム北爆が開始され、小田実・飯沼二郎らによるベ平連(ベトナムに平和を市民連合)のデモが盛んになる。1966年には早稲田大学学費値上げ反対闘争が起こり(福島泰樹がこれに参加)、学生運動が全国に巻き起こる。政治的に熱い季節が到来したのである。短歌史を繙くと、1964年に深作光貞の肝煎りで中井英夫編集による『ジュルナール律』が発刊され、村木道彦が「緋色の椅子」で華々しくデビューした。新幹線開通の年である。66年には佐藤通雅の『路上』、69年には福島泰樹・三枝昂之の『反措定』が創刊されているから、歌誌的に見る限りあちこちから新たな声があがるという短歌的昂揚を示した時代だと言える。その一方で、既に確実な地歩を築いていた塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌に対して、64年頃から批判の声が巻き起こる。だから短歌的に言うと、政治へと傾斜する若者の心情をエネルギーとして短歌が吸収し、返す刀で旧守派から浴びせられた批判に抗して前衛短歌を擁護するという構図になるだろうか。まるで見てきたような書き方をしているが、この当時私は短歌にはまったく興味がなかったので、リアルタイムで見聞したことではもちろんない。短歌辞典年表などを参考にして再構成したものにすぎない。

 栞文から読みとれる断片的情報を総合すると、田中富夫は当時前衛短歌に激しく傾倒しており、『幻想派』で最も難解な短歌を作る歌人であったという。栞文に引用されている当時の歌を見ると、その歌風の一端を垣間見ることができる。

 トマト熟るるおとふくらむ乳腺のりこえて夜を買いとる業者

 からからと水上ながるる酸漿の清き秩序の家系図みつめり

 世界は宥されてあらむに炎天の舌に巻かれて死にたる蝶々

句割れ・句跨りによる伝統的短歌のリズムの脱臼、また「炎天の舌」「酸漿」などの語彙の選択に、塚本の影響が色濃いことが知れる。今回の歌集『曠野の柘榴』では、第二部「初期歌篇」に1970年以前の歌が収録されている。

 炎天のかくれんぼの影踏みつつもつとも近き処女の陰

 夕映えはさやかにわれの愛としり向日葵の大きさにひと日たまはる

 洋傘ひらき世界暮れゆけば悪とする林檎のうちをめぐる火事

現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てるという意図が明白である。しかし、塚本の語法の影響があまりに深く影を落していて、田中は塚本の前衛短歌に傾倒しながらその影から出ることができなかったようだ。「水煙に馬は洗はれ微熱もつ弟の今宵たましひ冴ゆる」という歌などを見ればそれは歴然としている。田中もそのことを意識してか、初期歌篇の収録数は少ない。しかし、興味を引かれるのは、「コトバによって美の世界を組み立てる」という出発点を持った歌人が、その後どのような自己展開を遂げたかという点である。

 華やかなドレスにつつまれうたかたの鶴と見粉ふ花嫁千鶴よ

 まるで蚯蚓のやうな字体にも孫が見え隠れして揺るるこころよ

 闇を抱き世界に抱かれ父は逝く天の咽喉に雨降り止まず

 痩身のわが身に睡る母こそは永遠(とは)の支へよカンナ燃え立つ

 水背負ふ みづのいのちを辿りきてさりげなく山茶花の花

 一首目は長男の結婚を詠んだ歌で、二首目は孫の誕生である。三首目は父の、四首目は母の死を悼む挽歌で、五首目はいちばん新しく最近の心境を詠んだものだろう。いずれも歌の主題は作者の人生の節目であり、これらは境涯歌以外の何ものでもない。短歌的には優れた歌もあり、挽歌の慟哭には心を打つものがあるが、ここではそういうことにはあえて目を瞑り問題としない。問いかけたいのは、「現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てる」という地点から出発したはずの歌人が、どのような経路を辿って現実にしっかりと投錨されたコトバを用いて短歌を作るようになるか、という点である。端的に言えば「コトバ派」から「人生派」への宗旨替えということだ。世間的には、「若気の至り」に対する「人生経験の深まり」という安易な用語で済まされてしまうのかもしれないが、これは短歌におけるコトバの位相を考える上で看過できない問題ではないだろうか。同時に私は「歌人はどのようにうまく歳を取るか」というジジムサイ問題に興味を持っているので、ますます見過ごす訳にはいかない。このような問いかけは、小笠原賢二が『終焉からの問い』収録の「前衛歌人の老い」のなかで、『詩歌変』以後の塚本邦雄にはそれまで排除してきたはずの作者の現実の人生が顔を出すようになると指摘し、前衛歌人の変貌をかなり手厳しく批判した問題意識とも重なるだろう。コトバは必ず人生に着地するのか。自分で歌を作らない私には、当面この問いに対して用意できる答はない。それに私が答えるのもおこがましい話であろう。

 田中の歌集の構成は、第一部が最近の歌、第二部が初期歌篇、第三部が中期の歌となっているが、細かく制作年代を辿れるようには配列されていないので、田中の作歌姿勢の変化を跡づけることは残念ながらできない。しかし、第三部のなかには次のように鏡の比喩による自己省察の歌があり、コトバによる美の世界から、コトバは光のごとく反射して自己へと還るという経路がほの見える。

 朝焼けの鏡にむかひ吾と対きあふ魂(たま)もうつりてをるや

 真夜の鏡にするどく光る刃物見ゆわが思惟の貧しきを問ふな

 若い頃の短歌から還暦に近い現在の短歌までを、一冊の歌集に収録するというのがままあることなのかどうか、歌壇に暗い私にはわからないのだが、このような構成を取ることで短歌観の変貌の過程が比較的よく見通せることが、このような問題提起をいやでも誘発してしまうのである。

 角川『短歌』は2004年7月号と8月号で、「101歌人が厳選する現代秀歌101首」という特集を組んでいる。8月号にはその結果を論じる岡井隆・三枝昂之・小島ゆかりの鼎談が掲載されているのだが、そのなかで三枝は、「こういう特集では壮年の歌があがりにくい」というおもしろい指摘をしている。三枝の発言を受けて小島は、「壮年は人生の停滞期であり、朗々と歌い上げることが出来にくい時期だ」と自分なりの説明をしている。確かに青春も迷いの多い時期だが、青春の彷徨はそのなかに自己陶酔を含んでいて、葛藤をストレートに短歌に昇華しやすい。それに何にも増して若者はイノセントであるという強みがある。イノセントとは「自分はまだ手を汚していない」と信じているということである。しかし、若者にもやがて自分の手で鶏を縊る日が来ることは言うまでもない。それに較べると、中年にさしかかったときに覚える人生に対する迷いは、ずっと屈折していて歌にしにくいのだろう。「中年の歌」というとすぐに頭に浮かぶのは、次のような歌である。確かに苦みを含んでいて、どこか深夜にひとり自分につぶやくような調子がある。

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき   小高 賢

 ポール・ニザンなんていうから笑われる娘のペディキュアはしろがねの星   同

 田中はどうなのだろうか。中年期に相当すると思われる第二部には、次のような歌がある。

 海を背にピアノの鍵盤(キー)を叩きをりかなしみの階段(きだ)のぼるといふや

 水道の蛇口捻れば執拗に貫かるる みづもろともの意志

 夏の雨に濡るる燠も壮年もびしよぬれの戸口に佇ちてをり

 あるときは中年といふ言葉のおもき量感に怯えていたり

 川底に紅葉なだれて鍋底のわが秋の血の煮らるるおもひ

 匙のなかへなだれこむ死こそは掬ふことすらできぬ塩の光れど

 未だ青年の清新さを感じさせる一首目や、強い意志の表明を含む二首目に比べると、三首目からは明らかに中年期の歌である。しかし、イノセントさを喪失した中年期の鬱屈や迷いが窺える歌はあまりない。「佇ちつくす」といい「怯える」といってはいるが、鬱屈した迷いとはどこかちがう。田中は歌人の中年期をうまくやり過ごしたのだろうか。一時は作歌を中断していたようだから、中年期はその間に過ぎ去ったのだろうか。巻末に配された歌友安森敏隆の解説によれば、短歌制作からしばらく離れていたのち、母親が亡くなる前後から毎晩何十首となく歌が湧いて来たという。これがコトバが人生に着地した瞬間なのだろうか。ならばそれまでのコトバはどこへ行くのか。等々ということを、考えさせられてしまう歌集なのである。