093:2005年3月 第1週 自転車の歌

自転車になびく長髪熾天使ら
    ここ過ぎて煉獄の秋を指す

             塚本邦雄
 机上に針ヶ谷鐘吉『植物短歌辞典』(加島書店)という本がある。セピア色に変色したこの本は、昭和35年出版で、とある古書店で偶然手に入れた。表表紙の裏に「35.5.2 八木書店より購入」という鉛筆の書き入れがある。八木書店は神田の古書店なので、この本は出版されてからわずか3ヶ月で売り払われて、また誰かに買われたことになる。大島史洋の『言葉の散歩道』(ながらみ書房)でも紹介されているこの本は、万葉から出版当時までの短歌のなかで、植物を詠んだものを集めて分類した珍しい辞典である。桜・菊・桐などの伝統的植物から、フリージア・プリムラなどというハイカラな輸入植物まで網羅している。

 本をよむことなき吾や外つ国に在る君にたのむプリムラの種子(たね)  土屋文明

 伝統的和歌から近代短歌に至るまで、自然は短歌の主要な主題であり、なかでも日本人はことのほか植物に親愛の眼差しを注いできたのだから、植物を詠んだ短歌が多いのは当然だろう。

 それに較べれば人工物を詠んだ短歌は少ないだろうと予想がつく。小池光『現代歌まくら』に立項されている人工物は、椅子・鍵・かみそり・機関車・自転車・遮断機・扇風機・洗面器・地下鉄・噴水の10に留まる。道浦母都子・坪内稔典『女うた・男うた』I, II では、時計・花火・本・自転車・傘・壁・鏡・ヴァイオリン・電話・家具が取り上げられている。ただし、いずれも衣服・食物・場所 (動物園、駅など) は除外しての数である。両方に共通しているのが自転車であるところがちょっとおもしろい。

 小池は次の三首をあげている。

 かわいそうな赤き自転車縁ありて三年をわがいとしみ来しを  佐佐木幸綱

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車は細きつばさ濡れたり   高野公彦

 自転車 (チャリンコ) に父を追ひ越す夕ぐれの高脂血症の坂ゆく父を  岡井隆


『女うた・男うた』では短歌を一首と俳句を一句あげる趣向だが、短歌は上と同じ高野の歌、俳句はさきごろ物故した鈴木六林男の「乾草匂う夜目にも愛の自転車立て」があげられている。

 自転車は明治になって日本に輸入され使われるようになったものだから、当時はずいぶんハイカラなものだったにちがいない。最初に自転車を歌に詠んだ歌人は誰なのだろうか。自転車は徒歩より速い移動手段であるが、同時に荷物の輸送手段でもある。最近はあまり見かけなくなったが、無骨で頑丈な業務用自転車の荷台に氷を積んで通る氷屋が昔はいた。自転車というと子供や中学生の乗り物と思われがちだが、上の歌に見られるように意外に「父」のイメージと親和性が高くて驚く。

 佐佐木の歌はくたびれた自転車をいたわる歌だが、自転車の背後にはやはりくたびれた中年の自分のイメージが揺曳している。高野の歌は解説が必要ないほど有名な歌である。公園に倒れている自転車は今にも羽ばたいて夜空に飛び去るようにも、また二度と起きあがることはないようにも感じられる。詠まれているのが自転車であることはこの歌では動かせない。それは自転車が乗る人を連想させるためであり、修辞的には人の喚喩として働くからである。つまり、自転車を詠むことでそれにまたがるはずの非在の人を詠むことになる。これが人の乗っていない自転車が短歌で好んで詠まれる理由だろう。岡井の歌では父は歩いており、自転車に乗っているのは子である〈私〉なのだが、坂をとぼとぼ歩く高脂血症の父は、言うまでもなく未来の〈私〉の姿でもある。

 他の自転車の歌をいくつか引いてみよう。

 鶫(つぐん)のごとき自傷の少女ぼろぼろの古自転車のわれ 共に見る海  伊藤一彦

 のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ 「まっすぐ?」そうだ、どんどんのぼれ  佐佐木幸綱

 校庭に倒れたままの自転車をはつかに濡らす夜のあは雪  大辻隆弘

 自転車を盗みし父のあとを追ふ かのかなしみは我(あ)に帰り来ず 同

 倉庫より無骨な自転車引き出して世紀をまたぐ闇を暴けり  桝屋善成

 土手脇に首のねぢれた自転車がこゑを失ひ捨てられてあり 同

 カウンセラーをしている伊藤の歌では、リスカ少女と海を見ている〈私〉が直喩的に古ぼけた自転車と結びつけられており、ここでも自転車の無骨さとくたびれ加減が「男性性」の属性として用いられている。佐佐木の歌では珍しく子供が自転車に乗っており、どんどん坂を登る子供は未来へ向かっている。自転車は若さの希望の象徴である。しかし佐佐木の歌は例外的だ。大辻の「倒れたままの自転車」は無力感を連想させるし、次の歌ではやはり自転車と父の連想関係が色濃い。桝屋の二首でも自転車の帯びる象徴性は濃厚であり、無骨さと無惨さは中年を迎えた〈私〉の暗喩的表現と取ってよいだろう。このように短歌のなかでは自転車は古ぼけて無骨な姿をさらしており、そこには中年男性の属性が色濃く投影されている。『岩波現代短歌辞典』の「自転車」の項を担当した高野裕子は、「自転車は近代の象徴」であり、「同時に近代化を推し進めた男性原理の象徴」だと断じている。もしそうだとするならば、上に引いた歌に見られる「無骨な父」「くたびれた中年」のイメージは、近代男性原理の疲弊を象徴しているのかもしれない。

 自転車にまたがることがはしたない行為であった時代ははるか昔のこと。今では女性も自転車に乗るし、もしかしたら男性よりも乗る機会が多いかもしれない。しかし女性歌人の歌に登場する自転車は、男性歌人の場合とはずいぶん趣が異なる。

 自転車のかげ長く西陽に曳きゆきてこの人もあまり倖せならず  中城ふみ子

 飛行機は夏空へ気化を終へむとし吾は歩むなり自転車を押して  川野里子

 遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた  東直子

 自転車に鍵かけて入(い)る図書館の扉のかるさに少し驚く  江戸雪

 下駄履きの自転車の男が追い越せりあれはまるで私の父だ  中川佐和子

 自転車で〈不幸〉を探しにゆく少年日は暮れてどの道もどの道もわが家へ  高柳蕗子

 中城の歌では自転車は確かに不吉な象徴なのだが、それは他人の乗る自転車であり、「この人も」の「も」に自己省察はあるものの、自転車そのものの属性への自己投影はない。川野の歌は爽やかで、ここにも自転車に〈私〉を重ねる視線はない。東の歌で自転車はほのかな憧れを運んで来るほどで、負の属性は感じられない。江戸の歌では自転車は単なる移動手段で脇役にすぎない。おもしろいのは中川の歌だが、ここでも自転車は父の属性として描かれている。高柳の歌では自転車に乗るのは少年である。

 このように見てくると確かに自転車は「近代の男性原理」の象徴であるように思われてくる。女性歌人たちは自転車に自己投影することが少ないようだ。

 ただ男性でも若い歌人になると事情がいささか異なる。

 信じないことを学んだうすのろが自転車洗う夜の噴水  穂村弘

 板塀に夕暮れ妻が立てかけし自転車のかご雪を溜めつつ  吉川宏志

 身籠もりし妻の自転車一冬の埃をつけて枇杷の木の下  同

 穂村の歌では「信じないことを学んだ」心の影と自転車が結びついているが、自転車の属性自体への負の自己投影は感じられない。また吉川の二首では自転車は妻の所有物となっており、近代の男性原理を離れて女性性のもとに詠われている。このあたりが若い男性歌人の感性をよく表わしているのかもしれない。