文字ひとつ手紙から落ちとめどなく
文字剥落し雪となり降る
西橋美保『漂砂鉱床』
文字剥落し雪となり降る
西橋美保『漂砂鉱床』
掲出歌は不思議な歌である。誰かから届いた手紙を拡げると、書かれた文字が手紙からはらはらと落ちて雪になるという。雪国に暮らす友人から届いた手紙だろうか。手紙に書かれた雪国の様子を読んでいると、手紙から雪が降るような感じがしたのか。あるいは手紙の主の筆跡が雪の降る様を連想させたのか。手紙と雪というふつうならば関係のない両者を美しく結合させた歌であり、一種の奇想の歌と言ってよい。
西橋美保は「短歌人」所属。『漂砂鉱床』は1999出版の第一歌集で、藤原龍一郎が解説を寄稿している。あとがきによれば表題の漂砂鉱床とは、川の底の砂利をすくってザルで振るい、中に含まれている砂金などを採るそのような鉱床のことを指す。あまたの砂利のなかからキラリと光る言葉の砂金をすくいたいとの思いからつけられた表題である。
あとがきで藤原龍一郎は、奇妙な後味の残る歌集であり、「パトリシア・ハイスミスかルース・レンデルの読後感と似ている」と評している。「作者の奇妙な感覚に引きずられて、ついには自分の常識的感覚を疑うようになる」とも述べている。ハイスミスは私の愛読するミステリー作家のひとりで、確かに奇妙な味わいの小説を書く。藤原の評になるほどと同感する点もなくはないが、ちょっとずれる気もする。
藤原が「奇妙な感覚」として引用するのは次のような歌である。
ストローで顔の映つた水を吸ひそのまま顔ごと吸ひ込んでしまふ
火星人が脱皮するならこんなものか夜ふかぶかとパンストを脱ぐ
組み敷かれしウルトラマンの苦悶する有り様みだら子らと見守る
確かにストローで顔ごと吸い込むというのは、変わった視点である。火星人の脱皮というのも発想としておもしろい。また子供のアイドルであるウルトラマンの戦闘シーンにみだらさを感じるいう感覚も意表をついている。ただしこれらは西橋の代表的な歌風というわけではなく、歌集のなかでは「おもしろい歌」の一群をなしているにすぎない。私がこれらよりもおもしろいと感じるのは次のような歌である。歌の落し方が思い切りがよくなかなか愉快なのだ。このような落し方に関西人の血を感じるのは私だけだろうか。
暴れる子らを逆落としにする「美しき水車小屋の娘」など歌ひつつ
「この下郎、お黙りや」などと叫びたいがPTAは歌会よりこはくて ―
夏レースの日傘すずしく扱つて蔭越しに見るあな憎(にく)の彼奴(きやつ)
奇妙な感覚といえば、次のような歌は奇想の歌と言えるだろう。
もしかして見られてゐるかもしれないと振り向けば行くエヒは尾を曳き
椿落ち夫うなさるる月の夜に何とはなしに赤子笑ひつ
恋死をせし山の猟師(さつを)の皮を剥ぎ鼓となせば善(よ)く鳴る春か
月の象(かたち)の鈎より鋭(と)きを呑み込めばある夜のわれはみづからを釣る
モナリザの目がイグアナの目になるを深くおそれつ殊に真昼は
振り向いたらエイが泳いでいるというのは現実にはありえないことなので、読者は下句で突然ポーンと別世界に投げ出される。二首目の赤ん坊の笑いは本来ならばあどけないものだが、椿が首を落し夫がうなされている世界では不気味さが際立つ。三首目の猟師の皮を剥いで鼓に張るという発想も変わっている。四首目はなかなか美しい歌で、三日月を呑み込むとそれが釣り針となって、自分が釣られるだろうという見立てはスケールが大きい。五首目のモナリザの目がイグアナの目になるという発想も空前絶後である。そう言われてよく見れば、モナリザの目はいやにまぶたが厚ぼったく、爬虫類の目に似ていなくもない。そう思えて来るところがおもしろい。
このような歌を単に奇想と呼ぶのは当を得たこととは言えない。それは西橋の歌には何かの拍子に現実に裂け目が出来て、フッと異界にさまよい出るような感覚のものが散見されるからである。
綿帽子を吹きちらかして目をあげたその一瞬のうしろの正面
五月闇に取り囲まれて思ひ出す怪談上手の男の空咳
廃曲の読み解きがたき楽譜読む夏まぼろしの君の声にて
たましひを手繰るたのしさ 息を詰めヨーヨーせし幼(こ)がふと目をあげぬ
白手袋の指さすままにメビウスといふ名の地下街階(かい)を深めぬ
一首目は「ほんとうは怖いお伽話」風の怖さがある。目を上げたうしろの正面に何が立っているのかわからないという現実の暗黒である。二首目では、すでにこの世にいないと思われる男の空咳が、五月闇のなかから聞こえてきそうである。作者は琴をたしなむようで、三首目の廃曲は過去に廃れた琴の曲なのだが、まぼろしの君の声も異界から聞こえてきそうな雰囲気が感じられる。四首目はヨーヨーに興じる子供を詠ったもので、ここでもまた子供がふと目をあげたとき、作者の目に何が見えたかが隠されている分だけ不気味さが増す。五首目の「メビウス」はもちろん表がいつのまにか裏になるメビウスの帯で、その名自体が迷宮的であるが、案内人が「白手袋」と表現されていて顔がないところがやはり異界の案内人のように見える。
このような「現実の裂け目」に着目し、それを浮き上がらせるように歌を作っているところが、西橋の短歌に奥行きと陰翳を与えていることは言うまでもない。ではこの「現実の裂け目」の発見は、どのような資質に由来するのだろうか。そのひとつは「視点のユニークさ」だと思う。次の二首は見上げる歌と見下ろす歌で視線の向きは対照的だが、その質は同一である。
目薬の一滴の青ゆるやかにひろがる水をまうへに見上ぐ
井戸の底はるかはるかの青空を背にした私がこちらを見てゐる
一首目は点眼薬の一滴が次第に大きな水滴となって行くさまを下から見上げた見た歌である。短歌は言語表現によって、私たちがふつう持っている現実認識を更新する力がある。この歌は目薬の一滴という極小なものを詠って、その中に海の広がりを感じさせるところが秀逸と言えよう。これは私たちの物の見方が相対的であることを暗示している。たった一滴の目薬であっても、それが眼球の全体を覆いつくせば、海の大きさとなんら変わらないのである。
二首目は井戸を覗き込んでいる自分を詠ったものだが、私の背後に広がる青空も水面に映っている。〈見る私〉と〈水面に映った私〉のあいだで、〈見る・見られる〉の主体と客体の関係が逆転し、同時に井戸の底と青空とのあいだで空間的上下関係が逆転するという二重の逆転構造の相乗作用によって、私たちの安定した認識構造がぐらりと揺らぐ。この〈認識のゆらぎ〉がこれらの歌の生命であることは言うまでもない。
西橋に「現実の裂け目」を発見させているもうひとつの資質は、「異類への共感」である。「異類」とは〈人にあらざるもの〉を指す。
本当の狂女は出(で)など待たで候(そろ) 井戸の深きに花房落す
まばたかぬ少年人魚が雨の夜に奏でし秘曲「流泉」、「啄木」
月星とう靴を履きゐし少女期のわれは確かに人界にあらざり
流刑地としての地球よ輪郭が発光してゐる少女こそ変化(へんげ)
一首目に詠まれているのは能楽であるが、狂女は一種の異類といえる。二首目の「秘曲」は琵琶の曲だそうだ。少年人魚は明らかに異類である。三首目の「月星」は「月星シューズ」という靴メーカーの名前。月星という名の靴を履いていた少女期の私はすでに異界の住人だったのだ。四首目が示すように、作者は月世界に恋着があるようで、この歌集には月を詠んだものが多いのだが、これはかぐや姫を詠んだもの。月が本籍で地球は流刑地として捉えられている。
この「異類への共感」は石川美南と共通するものがあるが微妙にちがう。石川にもまた「世界を異化するまなざし」が顕著に感じられる歌人である。異化の動機としては〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉のふたつが考えられる。私は石川について短歌評を書いたときには前者だろうとしたが、私信によればご本人はたぶん両方とも自分のなかにあるとのことである。西橋の場合には、石川のような遊戯性を帯びた「まなざしによる異化」ではなく、もっと「体感的な異化」のように感じられる。
いずれにせよこのような「世界の異化」に基づいた短歌表現は、近代のリアリズム短歌から忌避され排斥されてきたものであり、それが現代の女性歌人にひとつの作歌根拠を与えていることは興味深い。
西橋の短歌についてもうひとつ指摘しておかなくてはならないのは、言葉・文字の連想による歌である。
虹めきて彩(あや)に炎ゆると病名のうつろなまでに美しきはよし
匂ひとう文字(もんじ)の中に匕首は蔵(かく)されてゐる 魂を刺せ
あづさ弓春ハルシオン依存症指から花にかはつていくよ
花びらは萼(うてな)に溢れかのリンネてんせいすべし「魚類の薔薇」に
一首目は虹彩炎という病名を分解して詠んだもので、漢語熟語を構成する文字のひとつひとつに意味を認める言葉へのこだわりを示している。二首目は「匂」という感じのなかに匕という文字が部首として含まれている点に着目したもの。三首目の「あづさ弓」は「春」の枕詞で、「春」から睡眠誘導剤の「ハルシオン」へと連想が働き、最後に春の縁語の「花」が導かれる。私は以前から「ハルシオン」は「春」「紫苑」と分解でき、「シオン」はエルサレムの雅名だし、競馬馬の名前のような響きもあって、美しい名だと感じていた。この歌は言葉が言葉を導き出す連想関係から発想されたものだろう。四首目は博物学者のリンネと「輪廻転生」とを掛詞として用いたもの。漢字を部首に分解するのは永井陽子の得意技だったが、一見すると言葉遊びのようにも思えるこのような手法は、古典和歌の手法の復活でもある。西橋が短歌を作っている地点が近代のリアリズム短歌からいかに遠い場所かをよく示していると言ってよいだろう。
最後にもう少し毛色の変わった歌を見ておこう。
職業としての「女」と思ふとき滅私奉公たりしO嬢
多産系でも晶子にや負けるが水子だつて人数にすればふみ子に負けない
いかにも奥村晃作が喜びそうな歌だ。「O嬢の物語」はポーリーヌ・レアージュの筆名で発表されたフランスの文学的SMポルノ小説。Oと呼ばれて調教される女性は男への奉仕を求められるのだが、確かに女性であることを職業のひとつだと考えれば、O嬢は滅私奉公の鏡である。二首目の晶子は言うまでもなく与謝野晶子で11人の子供を産んでいる。ふみ子は中城ふみ子で4人の子をもうけている。作者の西橋には三人の子供があり、子供の数を競って水子を入れればふみ子の4人に負けないと自慢している。ギョッとするのはもちろん「水子だつて人数にすれば」の部分で、「とりどりにひいきの天使指さして散りし子のあと死にし子ら来る」のような哀切極まりない歌のあとに読めば、冗談めかした軽い口調の陰に隠れた作者の心情はおのずと感じられよう。
以下に個人的に好きな歌を引いておく。
帯留めの翡翠の扇がゆきすぎて風いきいきとよびもどされつ
光たばねしなだる藤のひとふさといづれか軽(かろ)きわがたましひと
廃番の香水倒せば人外の音階正しく響かう秋や
前(さき)の世のわれが花束抱きて臥す石棺の蓋も凍るたそがれ
青海波の衣するりと肩脱ぎに脱ぐ影を灼く夏の月光
薬包紙の折鶴の腹の小穴より見えざるほどに落ちつぐものあり
海遠くスペアのインクの青色の波ゆらゆらと閉ぢこもる夏
西橋美保のホームページ「幻色短歌工房」
西橋美保は「短歌人」所属。『漂砂鉱床』は1999出版の第一歌集で、藤原龍一郎が解説を寄稿している。あとがきによれば表題の漂砂鉱床とは、川の底の砂利をすくってザルで振るい、中に含まれている砂金などを採るそのような鉱床のことを指す。あまたの砂利のなかからキラリと光る言葉の砂金をすくいたいとの思いからつけられた表題である。
あとがきで藤原龍一郎は、奇妙な後味の残る歌集であり、「パトリシア・ハイスミスかルース・レンデルの読後感と似ている」と評している。「作者の奇妙な感覚に引きずられて、ついには自分の常識的感覚を疑うようになる」とも述べている。ハイスミスは私の愛読するミステリー作家のひとりで、確かに奇妙な味わいの小説を書く。藤原の評になるほどと同感する点もなくはないが、ちょっとずれる気もする。
藤原が「奇妙な感覚」として引用するのは次のような歌である。
ストローで顔の映つた水を吸ひそのまま顔ごと吸ひ込んでしまふ
火星人が脱皮するならこんなものか夜ふかぶかとパンストを脱ぐ
組み敷かれしウルトラマンの苦悶する有り様みだら子らと見守る
確かにストローで顔ごと吸い込むというのは、変わった視点である。火星人の脱皮というのも発想としておもしろい。また子供のアイドルであるウルトラマンの戦闘シーンにみだらさを感じるいう感覚も意表をついている。ただしこれらは西橋の代表的な歌風というわけではなく、歌集のなかでは「おもしろい歌」の一群をなしているにすぎない。私がこれらよりもおもしろいと感じるのは次のような歌である。歌の落し方が思い切りがよくなかなか愉快なのだ。このような落し方に関西人の血を感じるのは私だけだろうか。
暴れる子らを逆落としにする「美しき水車小屋の娘」など歌ひつつ
「この下郎、お黙りや」などと叫びたいがPTAは歌会よりこはくて ―
夏レースの日傘すずしく扱つて蔭越しに見るあな憎(にく)の彼奴(きやつ)
奇妙な感覚といえば、次のような歌は奇想の歌と言えるだろう。
もしかして見られてゐるかもしれないと振り向けば行くエヒは尾を曳き
椿落ち夫うなさるる月の夜に何とはなしに赤子笑ひつ
恋死をせし山の猟師(さつを)の皮を剥ぎ鼓となせば善(よ)く鳴る春か
月の象(かたち)の鈎より鋭(と)きを呑み込めばある夜のわれはみづからを釣る
モナリザの目がイグアナの目になるを深くおそれつ殊に真昼は
振り向いたらエイが泳いでいるというのは現実にはありえないことなので、読者は下句で突然ポーンと別世界に投げ出される。二首目の赤ん坊の笑いは本来ならばあどけないものだが、椿が首を落し夫がうなされている世界では不気味さが際立つ。三首目の猟師の皮を剥いで鼓に張るという発想も変わっている。四首目はなかなか美しい歌で、三日月を呑み込むとそれが釣り針となって、自分が釣られるだろうという見立てはスケールが大きい。五首目のモナリザの目がイグアナの目になるという発想も空前絶後である。そう言われてよく見れば、モナリザの目はいやにまぶたが厚ぼったく、爬虫類の目に似ていなくもない。そう思えて来るところがおもしろい。
このような歌を単に奇想と呼ぶのは当を得たこととは言えない。それは西橋の歌には何かの拍子に現実に裂け目が出来て、フッと異界にさまよい出るような感覚のものが散見されるからである。
綿帽子を吹きちらかして目をあげたその一瞬のうしろの正面
五月闇に取り囲まれて思ひ出す怪談上手の男の空咳
廃曲の読み解きがたき楽譜読む夏まぼろしの君の声にて
たましひを手繰るたのしさ 息を詰めヨーヨーせし幼(こ)がふと目をあげぬ
白手袋の指さすままにメビウスといふ名の地下街階(かい)を深めぬ
一首目は「ほんとうは怖いお伽話」風の怖さがある。目を上げたうしろの正面に何が立っているのかわからないという現実の暗黒である。二首目では、すでにこの世にいないと思われる男の空咳が、五月闇のなかから聞こえてきそうである。作者は琴をたしなむようで、三首目の廃曲は過去に廃れた琴の曲なのだが、まぼろしの君の声も異界から聞こえてきそうな雰囲気が感じられる。四首目はヨーヨーに興じる子供を詠ったもので、ここでもまた子供がふと目をあげたとき、作者の目に何が見えたかが隠されている分だけ不気味さが増す。五首目の「メビウス」はもちろん表がいつのまにか裏になるメビウスの帯で、その名自体が迷宮的であるが、案内人が「白手袋」と表現されていて顔がないところがやはり異界の案内人のように見える。
このような「現実の裂け目」に着目し、それを浮き上がらせるように歌を作っているところが、西橋の短歌に奥行きと陰翳を与えていることは言うまでもない。ではこの「現実の裂け目」の発見は、どのような資質に由来するのだろうか。そのひとつは「視点のユニークさ」だと思う。次の二首は見上げる歌と見下ろす歌で視線の向きは対照的だが、その質は同一である。
目薬の一滴の青ゆるやかにひろがる水をまうへに見上ぐ
井戸の底はるかはるかの青空を背にした私がこちらを見てゐる
一首目は点眼薬の一滴が次第に大きな水滴となって行くさまを下から見上げた見た歌である。短歌は言語表現によって、私たちがふつう持っている現実認識を更新する力がある。この歌は目薬の一滴という極小なものを詠って、その中に海の広がりを感じさせるところが秀逸と言えよう。これは私たちの物の見方が相対的であることを暗示している。たった一滴の目薬であっても、それが眼球の全体を覆いつくせば、海の大きさとなんら変わらないのである。
二首目は井戸を覗き込んでいる自分を詠ったものだが、私の背後に広がる青空も水面に映っている。〈見る私〉と〈水面に映った私〉のあいだで、〈見る・見られる〉の主体と客体の関係が逆転し、同時に井戸の底と青空とのあいだで空間的上下関係が逆転するという二重の逆転構造の相乗作用によって、私たちの安定した認識構造がぐらりと揺らぐ。この〈認識のゆらぎ〉がこれらの歌の生命であることは言うまでもない。
西橋に「現実の裂け目」を発見させているもうひとつの資質は、「異類への共感」である。「異類」とは〈人にあらざるもの〉を指す。
本当の狂女は出(で)など待たで候(そろ) 井戸の深きに花房落す
まばたかぬ少年人魚が雨の夜に奏でし秘曲「流泉」、「啄木」
月星とう靴を履きゐし少女期のわれは確かに人界にあらざり
流刑地としての地球よ輪郭が発光してゐる少女こそ変化(へんげ)
一首目に詠まれているのは能楽であるが、狂女は一種の異類といえる。二首目の「秘曲」は琵琶の曲だそうだ。少年人魚は明らかに異類である。三首目の「月星」は「月星シューズ」という靴メーカーの名前。月星という名の靴を履いていた少女期の私はすでに異界の住人だったのだ。四首目が示すように、作者は月世界に恋着があるようで、この歌集には月を詠んだものが多いのだが、これはかぐや姫を詠んだもの。月が本籍で地球は流刑地として捉えられている。
この「異類への共感」は石川美南と共通するものがあるが微妙にちがう。石川にもまた「世界を異化するまなざし」が顕著に感じられる歌人である。異化の動機としては〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉のふたつが考えられる。私は石川について短歌評を書いたときには前者だろうとしたが、私信によればご本人はたぶん両方とも自分のなかにあるとのことである。西橋の場合には、石川のような遊戯性を帯びた「まなざしによる異化」ではなく、もっと「体感的な異化」のように感じられる。
いずれにせよこのような「世界の異化」に基づいた短歌表現は、近代のリアリズム短歌から忌避され排斥されてきたものであり、それが現代の女性歌人にひとつの作歌根拠を与えていることは興味深い。
西橋の短歌についてもうひとつ指摘しておかなくてはならないのは、言葉・文字の連想による歌である。
虹めきて彩(あや)に炎ゆると病名のうつろなまでに美しきはよし
匂ひとう文字(もんじ)の中に匕首は蔵(かく)されてゐる 魂を刺せ
あづさ弓春ハルシオン依存症指から花にかはつていくよ
花びらは萼(うてな)に溢れかのリンネてんせいすべし「魚類の薔薇」に
一首目は虹彩炎という病名を分解して詠んだもので、漢語熟語を構成する文字のひとつひとつに意味を認める言葉へのこだわりを示している。二首目は「匂」という感じのなかに匕という文字が部首として含まれている点に着目したもの。三首目の「あづさ弓」は「春」の枕詞で、「春」から睡眠誘導剤の「ハルシオン」へと連想が働き、最後に春の縁語の「花」が導かれる。私は以前から「ハルシオン」は「春」「紫苑」と分解でき、「シオン」はエルサレムの雅名だし、競馬馬の名前のような響きもあって、美しい名だと感じていた。この歌は言葉が言葉を導き出す連想関係から発想されたものだろう。四首目は博物学者のリンネと「輪廻転生」とを掛詞として用いたもの。漢字を部首に分解するのは永井陽子の得意技だったが、一見すると言葉遊びのようにも思えるこのような手法は、古典和歌の手法の復活でもある。西橋が短歌を作っている地点が近代のリアリズム短歌からいかに遠い場所かをよく示していると言ってよいだろう。
最後にもう少し毛色の変わった歌を見ておこう。
職業としての「女」と思ふとき滅私奉公たりしO嬢
多産系でも晶子にや負けるが水子だつて人数にすればふみ子に負けない
いかにも奥村晃作が喜びそうな歌だ。「O嬢の物語」はポーリーヌ・レアージュの筆名で発表されたフランスの文学的SMポルノ小説。Oと呼ばれて調教される女性は男への奉仕を求められるのだが、確かに女性であることを職業のひとつだと考えれば、O嬢は滅私奉公の鏡である。二首目の晶子は言うまでもなく与謝野晶子で11人の子供を産んでいる。ふみ子は中城ふみ子で4人の子をもうけている。作者の西橋には三人の子供があり、子供の数を競って水子を入れればふみ子の4人に負けないと自慢している。ギョッとするのはもちろん「水子だつて人数にすれば」の部分で、「とりどりにひいきの天使指さして散りし子のあと死にし子ら来る」のような哀切極まりない歌のあとに読めば、冗談めかした軽い口調の陰に隠れた作者の心情はおのずと感じられよう。
以下に個人的に好きな歌を引いておく。
帯留めの翡翠の扇がゆきすぎて風いきいきとよびもどされつ
光たばねしなだる藤のひとふさといづれか軽(かろ)きわがたましひと
廃番の香水倒せば人外の音階正しく響かう秋や
前(さき)の世のわれが花束抱きて臥す石棺の蓋も凍るたそがれ
青海波の衣するりと肩脱ぎに脱ぐ影を灼く夏の月光
薬包紙の折鶴の腹の小穴より見えざるほどに落ちつぐものあり
海遠くスペアのインクの青色の波ゆらゆらと閉ぢこもる夏
西橋美保のホームページ「幻色短歌工房」