蘭鋳のただれたる頭(ず)をつくりつつ
人智は暗くふかく熟れゆく
大辻隆弘『デプス』
人智は暗くふかく熟れゆく
大辻隆弘『デプス』
私はふだん歌集を読むときには、気に入った歌に付箋を貼りながら、メモ用紙にキーワードを箇条書きに書き付けていく。巻を置いて「さて批評を書こう」と机の前に座ったときには、メモ用紙にはかなりのキーワードが書かれている。それらを関係の縒り糸で綴り合わせ膨らませて展開すれば批評が出来上がる。歌集を読み終わってから「さて、何を書こうか」と腕組みして考えあぐねることはめったにない。しかし今回、大辻隆弘の第一歌集『水廊』、第二歌集『ルーノ』(抄)をセレクション歌人シリーズで読み終えたときには、途方に暮れてしまった。付箋はけっこう貼られているのだが、メモ用紙がほとんど白紙である。ところが第四歌集『デプス』を読み進めて行くうちに、眼前の靄が晴れて行くように、大辻のめざす短歌の世界が私の腑に落ちた。ということはいささか独断的に判断すると、歌集という全体から一首だけ取り出して大辻の短歌を論じるのはとても困難だということを意味する。これは一首の自立性が低いということではない。大辻の作る短歌が存在の真実へと静かに少しずつにじり寄って行く歌だからである。その歩みが蝸牛のごときミリメートル単位であるため、移動していることになかなか気づかない。ところが歌集を何冊か通読すると、出発点と現在地点とのあいだに、思いがけない距離が開いていることに驚くのである。
大辻隆弘は1960年(昭和35年)生まれで「未来」会員、「レ・パピエ・シアン」同人。第一歌集『水廊』(1989年)、第二歌集『ルーノ』(1993年)、第三歌集『抱擁韻』(1998年、現代歌人集会賞)、第四歌集『デプス』(2002年、寺山修司短歌賞)と、4・5年の間隔で着実に歌集を世に問うている実力派である。
先に大辻の短歌の特質を、「存在の真実へと少しずつにじり寄って行く歌」と表現した。大辻の属する「未来」は、近藤芳美らにより創刊された歌誌で、もともと「アララギ」系である。大辻は「未来」の本流に位置していると言ってよく、写生を基本とする近代短歌の作歌法に則りつつ、岡井隆の影響も色濃く受けている。それは例えば次のような歌の造りに見てとれる。
指からめあふとき風の谿(たに)は見ゆ ひざのちからを抜いてごらんよ 『水廊』
朝霧の縁(へり)ほどけゆく空は見ゆ冷えたる椅子を窓に移すとき 『抱擁韻』
大辻は『岡井隆集』(現代短歌文庫)収録の「アララギ的文体というボディー」という文章のなかで、「常磐線わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして」(『斉唱』)のように、三句目に「見ゆ」で句切れがある歌が岡井に多く見られることを指摘し、アララギ文体にすでに見られた語法を岡井が象徴的表現を支える枠組みとして発展させたものだとしている。上に引用した歌に見られるように、大辻はこのようなアララギから岡井への流れを咀嚼吸収し、その上に自分の短歌文体を築いていることがわかる。大辻の短歌文体の骨格がしっかりしているのはこのためである。ちなみにこの「見ゆ」については、内藤明が『雁』54号に「『見ゆ』考」を書いて子規から大辻へと至る主体意識の変容を指摘しているが、ここでは深入りは避けておこう。
第一歌集『水廊』からいくつか歌を引用してみよう。
癒えゆくにあらねど冬のひかり降る埠頭にこころあそばせてゐつ
みづぎはに立つみづどりの息の緒のかぼそくあはく日々を継ぎつつ
朝あさにわがくぐりゆく花かげの手足透きくるまでに青きを
朱夏、麦に揺るるひかりを「存在の肌理(きめ)」としメルロ・ポンティー言ひき
青銅のトルソのやうな君を置くうつつの右に夢のひだりに
鱗粉によごれたる掌(て)をかざすときわがものとして昏るる地平は
あけがたのみぎはの雨に濡れながら反る脊梁のごとき橋越ゆ
一読してわかるように、意味を優先して短歌文体を撓めることがなく、歌のしらべが明らかである。例えば最後の歌の「あけがたのみぎはの雨」の「ア」音の連続による柔らかな聴覚印象から一転して、下句「反る脊梁のごとき」の [s] の摩擦音と「ごとき」の破裂音 [g] [t] [k] の硬質な印象へと転じる渡り方が、上句の心情と下句の行為との対比に音的に呼応しているのが鮮やかである。
『デプス』に「さういへば光ばかりを歌つてゐたうそさむい三十代の日々(じつじつ)」という過去を回想する歌があるが、『水廊』には確かに水と光を詠った歌が多い。青春の日々の心の揺らぎを仮託する対象として、水と光の移ろいやすさと透明感は多くの歌人を惹きつけるのであり、大辻も例外ではない。そんななかで注目されるのは、上にあげた4首目の歌である。現象学の哲学者メルロ・ポンティーは『眼と精神』のなかで、芸術作品の分析を通して視覚と存在の関係を考察して美しい文章を書いた。「世界内存在」として世界に埋め込まれた主体にとって、自己の周囲に世界を立ち上げんとすれば身体特に視覚がいかに重要かをメルロ・ポンティーは説く。メルロ・ポンティーが使った「存在の肌理(きめ)」という言葉は、感覚で捉えられる微細な眼前の現実を経路として存在の真実に迫ろうとする大辻の短歌の方法と通底する。大辻は「レ・パピエ・シアン」60号に、「眼と精神」と題する連作を寄稿していることからもそれは知れる。
しかし『水廊』の読後印象は清新ながら淡い。歌に詠まれた景物は不安定に揺れ動く青春の心象の喩であり、そこから立ち上がる世界は〈私〉の心象を通して濾過されたものとなっている。印象としては「内向の世代」の肌触りに近いものがある。しかし第二歌集『ルーノ』、第三歌集『抱擁韻』と読み進むと、この印象は少しずつ変化する。
おびえつつ目をひらく時やはらかに立ちくるものを世界と呼べり 『ルーノ』
暁闇(あけやみ)に朴ひらく朝、立ちふるへつつ眼の奥の村ソンミ見ゆ
イ・リ・ア〈そこにあること〉つひに寂しきをこの熟れ梨は余る、わが掌に
神は細部に宿る たとへばこの朝の卓の襞にひそむ翳りは 『抱擁韻』
雪の香をかすかに帯びて闇ありぬ春の配電盤を開けば
七月のひかりに撓むわが視野を風に押されてゆく乳母車
大辻の歌における視覚の優位は疑うべくもないが、初期の歌に見られる〈私〉の心象を通して濾過された世界から、〈私〉を観測定点として実在世界へと眼差しを這わせるスタンスへと変化している。三首目のイ・リ・ア (il y a) は英語の there is (are) に相当するフランス語の存在述語であり、メルロ・ポンティーが身体を原点として歪む現象学的世界を構想したように、大辻は〈私〉を定点として存在の深みに測鉛を垂らそうとしているようだ。歌に詠まれた物象はもはや心象の喩ではなく、セザンヌの絵画に描かれた洋梨のように「そこにある」という実在性を色濃く帯びている。このような歌が私は特に好きだ。
そして第四歌集『デプス』である。
雨のあとの瀝青を踏む自転車のタイヤの音がかすか粘みて
鳩たちの影はこゑなくあそびをり雨水の朝の駅のはたてに
あかしあのむかうに見ゆる教室にひとつの椅子を置きかふる音
薄らなるハムひとひらを剥がしゐつ暗くつやめく肉の部位より
歌に詠まれているのは、雨後のタール舗装がかすかに粘る音、鳩が音も立てずに遊ぶ風景、遠くの教室で椅子を置き換える音、一枚剥がしたハムの色と、普段は気づかずに見過ごしてしまうような無意味な事象である。それを目撃した〈私〉の心情は書き込まれていない。だからこれは何の喩でもない。ではこのような歌が近代短歌のめざした「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斉藤茂吉)ことを信条とする写生歌かというと、そうではない。大辻も多くの若い歌人と同様に、近代短歌がめざした「自然・自己一元」という合一感をもはや信じてはいまい。上の歌に詠まれたどうでもいいような事象のザハリッヒな即物性は、まさに「存在の肌理」なのであり、大辻の垂らした測鉛に触れた世界の〈手触り〉以外の何ものでもない。このような歌が大辻の真骨頂ではないだろうか。
大辻の視線は画家が凝視する即物的世界を時に通過して、歴史という名の時間が流れ、国家という名の線引きがなされた人文的世界にも注がれる。物としての事象の上空を通過するこの抛物的視線は、『デプス』以前にはあまり見られなかったものである。そのとき大辻の歌には即物的世界を詠むときにはなかった〈苦さ〉が色濃く滲み出ていることに注意しよう。
包帯を巻きゐしか否かおぼろにて川上慶子の垂らしし右手
などかくは言葉は熟れて美しく くりすたるなはと、くめーるるーじゅ
韻を踏む言葉はつねに国家とふ緋のあやかしを鼓舞しつつ朽つ
箸先に卵の黄身がからむ朝またソマリアが選び出されて
川上慶子は1985年8月に御巣鷹山に墜落した日航機事故の奇跡的生存者である。このような大事件にも神の宿る細部はあると大辻は言いたいのだろう。ちなみにヘリコプターでの救出時に、川上慶子の垂らした右手には確かに包帯が巻かれていた。「くりすたるなはと」(水晶の夜)は1938年11月9日に起きたナチスによるユダヤ人迫害事件。「くめーるるーじゅ」(赤いクメール)はカンボジア左翼勢力の総称で、民族虐殺を行なったポルポト派はその一派。民族の悲惨に関わる単語の響きがかくも美しいことに、大辻は戦いているのだ。それは言葉の底に蟠居する原罪のように重く響く。「韻を踏む言葉」はもちろん和歌・短歌のことで、短歌と国家(天皇制)のあいだの屈折した関係を歌人は避けて通れない。このような世界詠の延長上に「紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき」という話題になった一首があるが、ここではこの歌について論じるつもりはない。
最後に次の歌をあげておこう。
「つまり主体の存在が……」だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ
これは大辻が短歌形式で表現した歌論だと言ってよい。大辻は主体である〈私〉が短歌を表現形式として自己を表現するという短歌観を否定する。歌うのは短歌定型という形式であり、〈私〉は逆に定型が歌う場に過ぎない。これは「どんな小さなことでもいい、なにかしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種となって歌は生まれてくる」(俵万智『短歌をよむ』)という素朴な実感主義が無邪気に前提としている〈私〉の位相とはずいぶん異なる。短歌を自己表現の手段と見なす若い歌人が多い現代では、大辻の主張は時代の流れに逆行する保守的なものと映るかもしれない。しかし大辻は短歌の歴史性を踏まえて定型の持つ意味について真摯に自らに問うている数少ない歌人の一人である。その言は重く受け止めるべきだろう。
大辻隆弘は1960年(昭和35年)生まれで「未来」会員、「レ・パピエ・シアン」同人。第一歌集『水廊』(1989年)、第二歌集『ルーノ』(1993年)、第三歌集『抱擁韻』(1998年、現代歌人集会賞)、第四歌集『デプス』(2002年、寺山修司短歌賞)と、4・5年の間隔で着実に歌集を世に問うている実力派である。
先に大辻の短歌の特質を、「存在の真実へと少しずつにじり寄って行く歌」と表現した。大辻の属する「未来」は、近藤芳美らにより創刊された歌誌で、もともと「アララギ」系である。大辻は「未来」の本流に位置していると言ってよく、写生を基本とする近代短歌の作歌法に則りつつ、岡井隆の影響も色濃く受けている。それは例えば次のような歌の造りに見てとれる。
指からめあふとき風の谿(たに)は見ゆ ひざのちからを抜いてごらんよ 『水廊』
朝霧の縁(へり)ほどけゆく空は見ゆ冷えたる椅子を窓に移すとき 『抱擁韻』
大辻は『岡井隆集』(現代短歌文庫)収録の「アララギ的文体というボディー」という文章のなかで、「常磐線わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして」(『斉唱』)のように、三句目に「見ゆ」で句切れがある歌が岡井に多く見られることを指摘し、アララギ文体にすでに見られた語法を岡井が象徴的表現を支える枠組みとして発展させたものだとしている。上に引用した歌に見られるように、大辻はこのようなアララギから岡井への流れを咀嚼吸収し、その上に自分の短歌文体を築いていることがわかる。大辻の短歌文体の骨格がしっかりしているのはこのためである。ちなみにこの「見ゆ」については、内藤明が『雁』54号に「『見ゆ』考」を書いて子規から大辻へと至る主体意識の変容を指摘しているが、ここでは深入りは避けておこう。
第一歌集『水廊』からいくつか歌を引用してみよう。
癒えゆくにあらねど冬のひかり降る埠頭にこころあそばせてゐつ
みづぎはに立つみづどりの息の緒のかぼそくあはく日々を継ぎつつ
朝あさにわがくぐりゆく花かげの手足透きくるまでに青きを
朱夏、麦に揺るるひかりを「存在の肌理(きめ)」としメルロ・ポンティー言ひき
青銅のトルソのやうな君を置くうつつの右に夢のひだりに
鱗粉によごれたる掌(て)をかざすときわがものとして昏るる地平は
あけがたのみぎはの雨に濡れながら反る脊梁のごとき橋越ゆ
一読してわかるように、意味を優先して短歌文体を撓めることがなく、歌のしらべが明らかである。例えば最後の歌の「あけがたのみぎはの雨」の「ア」音の連続による柔らかな聴覚印象から一転して、下句「反る脊梁のごとき」の [s] の摩擦音と「ごとき」の破裂音 [g] [t] [k] の硬質な印象へと転じる渡り方が、上句の心情と下句の行為との対比に音的に呼応しているのが鮮やかである。
『デプス』に「さういへば光ばかりを歌つてゐたうそさむい三十代の日々(じつじつ)」という過去を回想する歌があるが、『水廊』には確かに水と光を詠った歌が多い。青春の日々の心の揺らぎを仮託する対象として、水と光の移ろいやすさと透明感は多くの歌人を惹きつけるのであり、大辻も例外ではない。そんななかで注目されるのは、上にあげた4首目の歌である。現象学の哲学者メルロ・ポンティーは『眼と精神』のなかで、芸術作品の分析を通して視覚と存在の関係を考察して美しい文章を書いた。「世界内存在」として世界に埋め込まれた主体にとって、自己の周囲に世界を立ち上げんとすれば身体特に視覚がいかに重要かをメルロ・ポンティーは説く。メルロ・ポンティーが使った「存在の肌理(きめ)」という言葉は、感覚で捉えられる微細な眼前の現実を経路として存在の真実に迫ろうとする大辻の短歌の方法と通底する。大辻は「レ・パピエ・シアン」60号に、「眼と精神」と題する連作を寄稿していることからもそれは知れる。
しかし『水廊』の読後印象は清新ながら淡い。歌に詠まれた景物は不安定に揺れ動く青春の心象の喩であり、そこから立ち上がる世界は〈私〉の心象を通して濾過されたものとなっている。印象としては「内向の世代」の肌触りに近いものがある。しかし第二歌集『ルーノ』、第三歌集『抱擁韻』と読み進むと、この印象は少しずつ変化する。
おびえつつ目をひらく時やはらかに立ちくるものを世界と呼べり 『ルーノ』
暁闇(あけやみ)に朴ひらく朝、立ちふるへつつ眼の奥の村ソンミ見ゆ
イ・リ・ア〈そこにあること〉つひに寂しきをこの熟れ梨は余る、わが掌に
神は細部に宿る たとへばこの朝の卓の襞にひそむ翳りは 『抱擁韻』
雪の香をかすかに帯びて闇ありぬ春の配電盤を開けば
七月のひかりに撓むわが視野を風に押されてゆく乳母車
大辻の歌における視覚の優位は疑うべくもないが、初期の歌に見られる〈私〉の心象を通して濾過された世界から、〈私〉を観測定点として実在世界へと眼差しを這わせるスタンスへと変化している。三首目のイ・リ・ア (il y a) は英語の there is (are) に相当するフランス語の存在述語であり、メルロ・ポンティーが身体を原点として歪む現象学的世界を構想したように、大辻は〈私〉を定点として存在の深みに測鉛を垂らそうとしているようだ。歌に詠まれた物象はもはや心象の喩ではなく、セザンヌの絵画に描かれた洋梨のように「そこにある」という実在性を色濃く帯びている。このような歌が私は特に好きだ。
そして第四歌集『デプス』である。
雨のあとの瀝青を踏む自転車のタイヤの音がかすか粘みて
鳩たちの影はこゑなくあそびをり雨水の朝の駅のはたてに
あかしあのむかうに見ゆる教室にひとつの椅子を置きかふる音
薄らなるハムひとひらを剥がしゐつ暗くつやめく肉の部位より
歌に詠まれているのは、雨後のタール舗装がかすかに粘る音、鳩が音も立てずに遊ぶ風景、遠くの教室で椅子を置き換える音、一枚剥がしたハムの色と、普段は気づかずに見過ごしてしまうような無意味な事象である。それを目撃した〈私〉の心情は書き込まれていない。だからこれは何の喩でもない。ではこのような歌が近代短歌のめざした「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斉藤茂吉)ことを信条とする写生歌かというと、そうではない。大辻も多くの若い歌人と同様に、近代短歌がめざした「自然・自己一元」という合一感をもはや信じてはいまい。上の歌に詠まれたどうでもいいような事象のザハリッヒな即物性は、まさに「存在の肌理」なのであり、大辻の垂らした測鉛に触れた世界の〈手触り〉以外の何ものでもない。このような歌が大辻の真骨頂ではないだろうか。
大辻の視線は画家が凝視する即物的世界を時に通過して、歴史という名の時間が流れ、国家という名の線引きがなされた人文的世界にも注がれる。物としての事象の上空を通過するこの抛物的視線は、『デプス』以前にはあまり見られなかったものである。そのとき大辻の歌には即物的世界を詠むときにはなかった〈苦さ〉が色濃く滲み出ていることに注意しよう。
包帯を巻きゐしか否かおぼろにて川上慶子の垂らしし右手
などかくは言葉は熟れて美しく くりすたるなはと、くめーるるーじゅ
韻を踏む言葉はつねに国家とふ緋のあやかしを鼓舞しつつ朽つ
箸先に卵の黄身がからむ朝またソマリアが選び出されて
川上慶子は1985年8月に御巣鷹山に墜落した日航機事故の奇跡的生存者である。このような大事件にも神の宿る細部はあると大辻は言いたいのだろう。ちなみにヘリコプターでの救出時に、川上慶子の垂らした右手には確かに包帯が巻かれていた。「くりすたるなはと」(水晶の夜)は1938年11月9日に起きたナチスによるユダヤ人迫害事件。「くめーるるーじゅ」(赤いクメール)はカンボジア左翼勢力の総称で、民族虐殺を行なったポルポト派はその一派。民族の悲惨に関わる単語の響きがかくも美しいことに、大辻は戦いているのだ。それは言葉の底に蟠居する原罪のように重く響く。「韻を踏む言葉」はもちろん和歌・短歌のことで、短歌と国家(天皇制)のあいだの屈折した関係を歌人は避けて通れない。このような世界詠の延長上に「紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき」という話題になった一首があるが、ここではこの歌について論じるつもりはない。
最後に次の歌をあげておこう。
「つまり主体の存在が……」だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ
これは大辻が短歌形式で表現した歌論だと言ってよい。大辻は主体である〈私〉が短歌を表現形式として自己を表現するという短歌観を否定する。歌うのは短歌定型という形式であり、〈私〉は逆に定型が歌う場に過ぎない。これは「どんな小さなことでもいい、なにかしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種となって歌は生まれてくる」(俵万智『短歌をよむ』)という素朴な実感主義が無邪気に前提としている〈私〉の位相とはずいぶん異なる。短歌を自己表現の手段と見なす若い歌人が多い現代では、大辻の主張は時代の流れに逆行する保守的なものと映るかもしれない。しかし大辻は短歌の歴史性を踏まえて定型の持つ意味について真摯に自らに問うている数少ない歌人の一人である。その言は重く受け止めるべきだろう。