ぬばたまの鴉は生と死のあはひにて声高く啼く──大塚寅彦の短歌世界

 大塚寅彦が1982年に「刺青天使」30首により短歌研究新人賞を受賞したのは、若干21歳の時である。繊細な感受性が震えるようなその端正な文語定型短歌は、とても20歳そこそこの青年の手になるものとは思えないほどの完成度を示している。それから20年余を経て、口語ライトヴァース全盛の現在となっては、もはや遠い奇跡のようにすら感じられる。穂村弘は、大塚の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」を引いて、「このような高度な文体を自由に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と述べた(『短歌ヴァーサス』2号)。ちなみにここに言う「彼ら」とは、大塚、中山明、紀野恵の三人をさす。大塚はこのように文芸において早熟の人なのである。そしてこのことは、大塚の短歌に深い刻印を残しているように思われる。

 1985年の第一歌集『刺青天使』を代表すると思われる二首がある。

 烏羽玉の音盤(ディスク)めぐれりひと無きのちわれも大鴉を飼へるひとりか 

 翼痕のいたみを忘るべく抱くと淡く刺青のごとき静脈 

「烏羽玉の」は「黒」にかかる枕詞だから、古風に音盤と書かれたレコードは、黒光りするLPレコードか、ひょっとするとSPレコードかもしれない。「大鴉」はもちろんエドガー・アラン・ポーの長詩 Ravenで、Nevermore と陰気にリフレインを響かせたあの鴉である。「われも大鴉を飼へるひとり」とは、自己の内部に鴉に象徴されるものを秘めているということだろう。それは自らの内に刻印された運命としての資質であり、大塚の詩想の源泉でもある。大塚には他にも鴉の歌があるが、『ガウディの月』所収の「選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て」にも明らかなように、自らを宿命によって選ばれた者であるとする密かな矜持がある。これは『刺青天使』において特に強く感じられるように思う。

 右にあげた二首目は、歌集の題名にもなった歌である。「翼痕」とあるのだから、何ゆえか天使が羽をもがれてこの地上に堕されている。浮き出す青い静脈が刺青のように見えるという歌だ。地上に堕された天使は、天上的特性と地上的特性を併せ持つ両義的存在である。天上と地上のあいだで引き裂かれている天使は、この世に生を受けて生きている不思議と不全感の喩として、歌集全体を紋章のように刻印している。それは集中の次のような歌に明らかである。

 いづくより得し夢想の血 をさなくてみどり漉す陽に瞑りてゐき

 わが鳥のふかき飛翔を容るるべく真冬真澄の空はあらむを

 せいねんの肉体を持つふしぎさに 夜半の鏡裡に到るときのま

 いつの頃からか宿った夢想の血、地上にあって青年の肉体を持つ違和感、自らを堕天使と思いなす感覚、これは文芸において早熟な若者が抱きがちな魂の影である。ランボーの塔の歌を、ラディゲのペリカンを、三島由紀夫の貴種流離幻想を思い出すがよい。客観的に見れば確かに青年のナルシシズムである。しかし、このような魂の影は文芸の胚珠であり、そこから次のような美しい歌が生まれる。

 みづからの棘に傷つきたるごとし真紅の芽吹きもつ夏薔薇は

 花の屍ににじむつきかげ いもうとの匂ひ百花香(ポプリ)のうちにまじりて

 ところが、自らを羽をもがれた天使に仮託した青年の矜持と幻想は、第二歌集『空とぶ女友達』、第三歌集『声』、第四歌集『ガウディの月』と読み進むにしたがって、だんだんと薄れて行くように感じられる。かわって目につくようになるのは、世界と自分とのかすかな違和感を詠んだ歌と、倦怠と孤独を感じさせる歌である。

 天使想ふことなく久してのひらに雲のきれはしなす羽毛享く

 倦怠を肝(かん)のせゐとし臥しをればジョニ赤の男(ひと)卓を歩めり

 炙かれゐたる魚の白眼うるみつつ哀れむごとしわが独りの餉

 地上に長く暮していると、天使を思うことも少なくなる。天上的特性が薄れて、地上的特性が優位を占めるようになる。天使といえどもこの汚濁の世に生きれば、否応なく日々の塵埃にまみれるのである。かわって表に顔を出すのは、早熟の代償としての老成である。次のような歌に注目しよう。

 モニターにきみは映れり 微笑をみえない走査線に割かれて

 秋のあめふいにやさしも街なかをレプリカントのごとく歩めば

 育ちたるクローンに脳を移植して二十一世紀の終り見たし

 モデルハウス群しんかんと人間の滅びしのちの清らかさ見す

 SF界の鬼才フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を映画化した『ブレード・ランナー』に登場する人造人間レプリカントのように街を歩く私。ハウジングセンターに人間が滅亡した未来を幻視し、恋人はもはやモニターに映し出されるヴァーチャルな存在にすぎない。『現代短歌最前線』(北溟社)上巻の自選100首に添えられた文章は「2033年トラヒコ72歳」と題されている。AIに生活全般を世話されている72歳の老人になったトラヒコの物語である。この設定は意味深長と言わねばならない。

 この短文を読んで、小松左京の『オルガ』というSF短編を思い出した。舞台は人間がサイボーグ化により200歳もの長命を獲得した未来社会である。しかし人間はその代償として生殖能力を喪失している。主人公の老人は公園で思い切って見知らぬ婦人にいっしょにオルガを飲まないかと誘う。婦人は顔を赤らめるが承知し、ふたりは喫茶店でオルガを飲む。オルガとは長命の代償として失った性的快感の代替品なのである。喫茶店の外を見ると、そこにはヒトという種が迎えた晩秋の荒涼とした風景が広がっているという、なぜか心に残る物語である。

 文芸の世界で早熟は栄光であると同時に災厄でもある。穂村弘が「高度な文体を使いこなす若者たち」の一人として名をあげた中山明は、第二歌集『愛の挨拶』以後短歌の世界から距離を置き沈黙して久しい。最後の歌集『ラスト・トレイン』は中山のホームページ翡翠通信で読めるのみであり、そこに収められた歌には透明な惜別感が充満していて、胸が痛いほどである。これにたいして大塚は、第一歌集を見事に刻印した早熟の代償として、早すぎる老成を自ら選択したように思えるのである。

 第四歌集『ガウディの月』には、それまでの歌集にはあまり見られなかった作者の日常の出来事に題材をとった日常詠・機会詠が多く収められている。

 独りの荷解く夜の部屋の新畳にほへば旅のやうな静けさ

 職場出て芝に憩へばくちなはの陽の沁みとほる蛻のわれは

 うすべににこころ疾む日やひいやりと弥生の医師の触診を受く

 親の死、姉の入院と手術、また自分自身の手術、先輩歌人永井陽子の死、転居と、人生の節目となるような出来事が続いて起きたことがここに作用しているのは明らかである。しかし、それだけがこのような歌風の変化の原因とは思えないような気がするのである。私はここで「方法として選択された老成」という言葉を使ってみたくなる。その意味するところは、より日常の些事に拘泥することで、地上的特性が優位を占めこの世に生きる自分の身辺のなかに静かに抒情を歌うというほどのことである。『ガウディの月』に収められた歌の中にしばしば顔を出す諦観と疲労感は、このような短歌に対する態度と無縁ではないだろう。もちろんこのような態度からも美しい歌は生まれる。それは次のような歌であり、これらを読むとき私たちのなかには、静かだが深く心に刺さるものが残されるのである。

 蜻蛉は透き羽にひかりためながらわがめぐりを舞ふ死者の軽さに

 わがめぐりのみにゆらめき世界より隔つる冬の陽炎のあり

 湖にみづ倦みをらむ明るさをめぐりてあればいのち淡かり



『短歌』(中部短歌会)2004年7月号掲載