本書は一九三九年に上梓され、ベストセラーとなった明石海人の歌集『白描』を論じた評論である。明石は当時癩病と呼ばれていたハンセン病に罹患し、その病気のありさまと患者の置かれていた苛酷な境遇をつぶさに歌に詠んだ。『白描』は発表当初から評判を呼び、岩波文庫や各種の文学全集にも収録され、明石の評伝も多く書かれている。本書の著者松岡秀明がめざしたのは、『白描』に収録された短歌をていねいに読み解く作業を通じて、なぜ『白描』がベストセラーになったのかを解明することだという。
『白描』は第一部「白描」と第二部「翳」の二部構成になっており、第一部が発病から死の直前までの明石の生涯を編年体で描いている。本書もその順序に従って歌を読みつつ、加療ため転々と居所を変え、国立療養所長島愛生園で最後を迎えた明石の歩みを辿っている。
本書のユニークな点は、明石の残した短歌を読み解く手法と視点にある。著者の松岡は医師であると同時に文化人類学者でもあるという他に類を見ない経歴の持ち主である。松岡が参照する社会学者アーサー・フランクは、著書『傷ついた物語の語り手』で、「病む人は病いを物語にすることによって、運命を経験に変える」と説く。フランクの考える病者の物語には三つの類型がある。「回復の語り」は病気に罹った人が健康を回復することを願う。第二の「混沌の語り」は、慢性病や治癒の見込みのない病に罹患した人が混乱して苦しみを語る。最後の「探究の語り」では。病者は病を受け入れて、それを探究につながる旅の契機とする。松岡は、明石もまたこの「探究の語り」に辿り着いたのであり、自分の言葉で語ることによって生を立て直したのだとする。この見方は、病者に限らずなぜ人は物語を必要とするのかという問への答のひとつとなりうる。「探究の語り」を補助線として明石の短歌を読み解く本書は、今までに多く語られてきた『白描』へのユニークなアプローチだと言えよう。
ただし、『白描』の第二部「翳」は、本書の第七章でわずかに触れられているのみなのが残念である。前川佐美雄の「日本歌人」に所属していた明石は、新しいポエジイ短歌をめざしていた。塚本邦雄が『殘花遺珠』で『白描』のピークと断じたのは次のような歌であった。
わが指の頂にきて金花蟲(たまむし)のけはひはやがて羽ひらきたり
心音のしましおこたる日のまひるうつつに花の散りまがひつつ
塚本は「だがかつて、ほとんど、これが正當に評價された例を知らぬ」と記している。第二部「翳」を短歌史の中に位置づけて読み直す作業が待たれる。
『短歌研究』2023年7月号に掲載