角川『短歌年鑑』平静5年版 回顧と展望

短歌の流行と口語化の行方

 

ロシアのウクライナ侵攻

 二〇二二年の回顧と言えば、まず筆頭に挙げなくてはならないのは二月に世界を揺るがせたロシアによるウクライナ侵攻だろう。ドンバス地方のロシア系住民の保護を口実とする侵攻が、ヒトラーがチェコのズデーテン地方の割譲を求めた時のやり口と酷似していることに寒気を覚えた人も少なからずいただろう。核兵器の使用も辞さないことを匂わせたプーチン大統領の発言は世界を震撼させた。その衝撃は読売新聞歌壇に投稿された次の歌が雄弁に物語っている。「短歌研究」六月号の小池光「ウクライナの歌」で紹介された歌である。

突然にこの世の終りがあり得ると妻がつぶやき頷くあした 沖田 守 

 日本ペンクラブ、日本文藝家協会、日本推理作家協会は三月十日に侵攻に反対する共同声明を発表した。現代歌人協会は三月十七日に理事有志が侵攻を非難し平和を願うメッセージを発表している。

 近現代短歌には時事詠という性格があり、大きな事件や自然災害が起きると、新聞歌壇にはそれに反応した歌がたくさん投稿される。大きな出来事によって心を動かされ、それが短歌となって流れ出す。これは明治以来繰り返されてきたことであり、短歌の役割のひとつとも考えられる。東京電力福島第一原発の苛酷事故が起きた時には、「セシウム」「ベクレル」「シーベルト」など、ふだん馴染みのない言葉が新聞歌壇に溢れた。二〇二二年は「キーウ」「マリウポリ」「ハルキウ」といった地名が歌に多く詠まれた。

 短歌総合誌も続々と特集を組んだ。本誌は七月号で「戦火を目の前に」という緊急企画を掲載した。 

逃がれゆく童女のかざす朱の薔薇は悲し夕焼け雲より悲し    菊澤研一

マリウポリを木端微塵に壊す鬼クレムリンの研ぎし白き目光る  島田 暉 

 「短歌研究」は六月号で「正面からの『機会詠』論―戦争・コロナ禍・災害を詠むということ」という特集を組んだ。ウクライナ侵攻に限定せず、広く時事詠・機会詠を改めて考えるという趣旨のもので、高野公彦、三枝昻之、小池光らが寄稿している。広く機会詠とは言うものの、時節柄ウクライナ侵攻に触れた文章が多いのは当然だろう。中では荻原裕幸が紹介している次の歌が印象に残る。 

戦争を始めた人が飼っているおれの故郷のうつくしい犬     神丘 風 

 戦争を始めた人というのはプーチン大統領で、犬というのは東日本大震災への支援のお礼としてプーチン大統領に贈呈された秋田犬のゆめである。この歌は二月二十四日、つまり開戦の当日にツイッターに投稿され、瞬く間に拡散されて大量の「いいね」が付いたという。作者は一九九〇年秋田生まれの歌人で、主にツイッターに短歌を発表している。

 時事詠・機会詠は大きな出来事に接したその時に詠まれることが多い。即時性と速報性ではツイッターに代表されるSNSの優位は圧倒的である。そのことは今後、時事詠・機会詠の問題を考える上で重要な要素となるかもしれない。

 「現代短歌」は九月号で「ウクライナに寄せる」という特集を組んでいる。執筆者に送られた原稿依頼はいささか異例なものである。依頼文の概要は、本誌九月号で「戦争と言葉」あるいは「声明と作品」をテーマにタイトル未定の特集を組むことにした。文学者が声明という一種の政治的行動をとるのは、文学(作品)が戦争の前に無力だと考えるからだろうか、というものである。「声明」とは日本ペンクラブなどが発表したウクライナ侵攻に関する共同声明を指す。執筆者にはテーマに沿った十二首の短歌とコメントが求められた。これに応えて四十六名の歌人が作品とコメントを寄せている。なかには作品のみの人もいる。

 歌人たちのコメントは、おおむねウクライナ侵攻を非難する姿勢を表しつつも、文学者が声明という政治的行動を取ることに対するためらいや懐疑を表明するものが多かった。これは健全な反応と言えるだろう。 

ぼくたちのいますむ破船に慣れてしまふ しづかでゆるい雨の毒性 佐原キオ

ゼレンスキーなぜに緑のTシャツか吾が手のスマホすなはち兵器 黒瀬珂瀾 

短歌が流行っている?

 短歌シーンの二〇二二年いちばんの話題は「短歌の流行」だろう。「文學界」五月号の特集「幻想の短歌」は、「最近、『短歌が流行っている』と耳にするようになった」という一文から始まっている。「短歌研究」八月号はずばり「短歌ブーム」と題する特集を組んだ。にわかに信じがたいことなのだが、どうやら短歌が流行っているようなのだ。

 半信半疑のまま「短歌研究」特集の書店員へのアンケートを読むと、「短歌(短詩形文学)が、読者の手に届いている実感、あるいは予感はありますか」という質問にたいして、ほぼすべての書店員が「ある」と答えている。なかには歌集関係の売上が昨年の四倍に達すると答えた書店まである。売れ筋は、左右社、書肆侃侃房、ナナロク社の歌集が多いという。特に木下龍也『あなたのための短歌集』、岡本真帆『水上バス浅草行き』、岡野大嗣『音楽』などを挙げた人が多かった。 

だいどこ、と呼ぶ祖母が立つときにだけシンクにとどく夕焼けがある 『音楽』 

 短歌フェアをよく開催する紀伊國屋書店新宿本店の詩歌コーナー担当の梅﨑実奈さんが寄せた短歌ブームの背景分析がとても的確なので、一部要約して紹介させていただく。

・書肆侃侃房、港の人、現代短歌社、左右社、ナナロク社のように歌集を刊行する出版社が増えた。

・歌集の刊行数が格段に増えた。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズが大きい。

・雑誌「ダ・ヴィンチ」の投稿欄、学生短歌会、同人誌、ウェブ媒体の同人、ネットプリントなどによって、結社誌や総合誌以外の発表の場が増えた。

・SNSの広がりと定着によって、「通りすがり」の人の目にも短歌が入るようになった。

・短歌の文体が変化し、わかりやすくエモーショナルな短歌が増えた。

・口語短歌が七割を占めるようになった。

・歌集を積極的に推す書店が増えた。

 また、書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズとして二月に刊行された、上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』、toron*『イマジナシオン』、水野葵以『ショート・ショート・ヘアー』が発売日を待たずに重版が決まったという。この出来事に触れた本誌四月号の田中翠香の歌壇時評の言葉を借りれば、これは「衝撃的な出来事」と言ってよい。この数字は従来から短歌に親しんできたコアな読者以外の、より広汎な人たちに短歌が届いたということを意味する。

 また学生短歌会の興隆も見逃せない。本誌四月号の特別企画「よし、春から歌人になろう」では、全国の三十の大学短歌会がマップに示されていて、そのうち十九の短歌会が近詠五首を添えて紹介されている。二〇一七年の「学生短歌年鑑」には二十一の大学短歌会がリストアップされていたというから、大幅に数が増えている。活発に活動しているのが早稲田短歌会と京大短歌会ぐらいしかなかった二十年前と較べると隔世の感がある。本誌四月号で臨時開催が発表されたU25短歌選手権には、締切までひと月しかなかったにもかかわらず九十八編の応募があったという。予選を通過した二十四名のうち九名が大学短歌会に所属している。所属なしとなっている人でも、たとえば神野優菜のように九大短歌会出身の人もいて、学生短歌会関係者はもっと多いと想像される。

 このようにさまざまな証言を総合すると、どうやら「短歌が流行っている」というのは事実のようなのだ。問題はこれが表層的な一過性のブームに終わるのか、それとも従来の短歌地図を塗り替えるような地殻変動につながるものなのかということである。それは次に取り上げるテーマと深く関わっているだろう。

 

世代間の断絶(?)と短歌の口語化

 総合誌の年末年始の特集でよく取り上げられるのが「世代間の断絶」である。令和四年版の本誌「短歌年鑑」では、「価値観の変化をどう捉えるか」というテーマで座談会が開かれている。そこで主に話題になっているのは、旧世代とは異なる価値観を持つ若い世代の考え方である。さらに本誌一月号では「短歌の継承と変化 ― 時間とともに見えてくるもの」と題された新春特別座談会が組まれている。編集部から提示された最初のテーマは「世代は本当に分断しているのか」である。また「短歌研究」の昨年の短歌研究年鑑では、「短歌、再始動に向けて。」と題した座談会が開かれている。そのなかで現代歌人協会賞を受賞した川野芽生『Lilith』と北山あさひ『崖にて』を評して三枝昂之が、「川野さんらの世代の歌を読みながら迷うのは、彼女たちあるいは彼たちが踏まえている文化的なものがうまく見えてこない、共有できない、ということがある。(…)今の文化はひじょうに多様化していて、彼や彼女たちが栄養にしているものはなにか、それなしのオリジナルか、どういう読み方をすればいいのか、とまどったりしますね」と発言している。これもまた世代間の断絶を言い表したものと取ってよい。

 これにたいして川野芽生は、「現代短歌」連載の「幻象録」第十五回(七月号)と第十六回(十一月号)で、このような言説に激しい言葉を用いて反論している。「世代の分断」は総合誌の編集部が作り出したもので、年長世代は若い世代が書くものをきちんと読んでいないのではないかと川野は主張している。

 さて「世代間の断絶」はあるのだろうか。それはあるだろう。紀元前三千年のヒッタイト語が刻まれた粘土板の楔形文字を解読したら、「近頃の若い者は…」と書かれていたそうだから、最近の若い者のすること・言うことが年長者に理解できないのは今に始まったことではない。問題は世代間の変化がどのような位相において起きているかである。

 本誌四月号の歌壇時評で前田宏は、「今日の分断線は結社と非結社の間にある」と述べている。確かにそういう面はあるだろう。試しに若い人の応募が多い短歌研究新人賞の受賞者・次席・候補作・最終選考通過作を見てみると、二〇〇四年の第四十七回は二十四人中所属なしが五人だが、二〇二二年の第六十五回は十四人いる(不明が一人)。受賞者のショージサキを始め、候補作の五名中三名が所属なしである。結社に入らない独立系歌人が増えているのはまちがいない。

 とはいうものの、若い世代の短歌に見られる最も大きな変化は口語化ではなかろうか。文語に豊富にあった助動詞のほとんどが現代口語で失われた結果として、時間表現が平板になり「今」に焦点が当たりやすくなった。また本誌一月号の座談会での穂村弘の発言も注目される。穂村は、口語短歌はリアリズムを超えたところに羽ばたいてゆくのだろうと思っていたという。穂村の念頭にあるのは雪舟えまや笹井宏之の作風である。しかしその期待は見事に裏切られ、宇都宮敦や永井祐らの口語によるリアリズム文体が現代短歌の主流になりつつあるという。

公園のトイレに夜の皺が寄る わたしが着てる薄過ぎるシャツ

                  永井祐『広い世界と2や8や7』

ぬぎたてのニットキャップに文庫本いれ改札を彼はぬけてく

                      宇都宮敦『ピクニック』

 「短歌研究」十月号で発表された現代短歌評論賞の受賞作二点と次席一点がすべて、「口語短歌の歴史的考察」というテーマを選んで論じていることも、短歌の口語化が注目されている証と言えるだろう。

 短歌のような短詩型文学に限らず、文芸一般において最も重要なのは文体である。それは文体が端的に世界観を表すからである。「世代間の断絶」というよりは、現代短歌が経験しつつある大きな変化として短歌の口語化は今後もさまざまに論じられてゆくにちがいない。

 喜ばしいニュースは歌集の再刊が続いていることである。書肆侃侃房から「現代短歌クラシックス」として飯田有子『林檎貫通式』、正岡豊『四月の魚』などが再刊された。いずれも入手が困難になっていた歌集である。また現代短歌社から泥文庫の刊行が始まり、黒瀬珂瀾の第一歌集『黒耀宮』が再刊された。一時は五万円の古書価がついたとも聞くので再刊は嬉しいことだ。筆者が短歌を読み始めたとき、いちばん苦労したのは歌集の入手だった。読みたい歌集が手に入らない、あるいは高価すぎるのはこれから短歌を志す人にとっておおいに困ることだ。廉価な歌集の再刊が続くと、若い歌人が年長者の短歌に触れる機会も増えることと思われる。

 

角川『短歌年鑑』令和五年度版に「回顧と展望」として掲載