『レ・パピエ・シアン』の歌人たち

 京都の寺町二条に三月書房という本屋がある。その古ぼけた外観といい、奥にある風呂屋の番台のような帳場といい、古本屋を思わせる風情だが、れっきとした新本書店である。その地味な外観とは裏腹に、三月書房は知る人ぞ知る伝説的な有名書店なのだ。京都に住む読書好きの人で、三月書房を知らない人はいない。世の中の流行から超然とした独自の基準による選本がその理由である。

 三月書房はまた短歌関係の本の品揃えでも知られており、短歌の同人誌も数多く店頭に置いている。『レ・パピエ・シアン』も三月書房で見つけた月刊同人誌のひとつである。ブルーの紙を使った瀟洒な雑誌で、同人誌らしく手作り感がにじみ出ている。短歌好きが集まって、ああだこうだと言いながら同人誌を作るのは、きっと楽しい遊びにちがいないと考えながら、手に取ってみた。

 結社は主宰者の短歌観に基づく求心力をその力の源泉としているため、いきおい参加者の作歌傾向が似て来る。それにたいして同人誌は気が合う仲間で作るもので、作歌傾向はばらばらでもかまわないというよい意味でのルーズさが身上である。『レ・パピエ・シアン』も同人誌らしく、堂々たる文語定型短歌からライトヴァース的口語短歌まで、さまざまな傾向の短歌が並んでいる。同人のなかでいちばん名前を知られているのは、たぶん大辻隆弘だろう。しかし、私は今まで名前を知らなかった歌人の方々をこの同人誌で知ったので、気になった短歌・惹かれた短歌を順不同で採り上げてみたい。2004年1月号~3月号からばらばらに引用する。

 この同人誌でいちばん気になった歌人は桝屋善成である。 

 底ひなき闇のごとくにわがそばを一匹の犬通りゆきたり

 悪意にも緩急あるを見せらるる厨のかげに腐る洋梨

 なかんづくこゑの粒子を納めたる莢とし風を浴びをるのみど

 紛れなく負の方角を指してゆくつまさきに射す寒禽の影

 手元の確かな文語定型と、吟味され選ばれた言葉が光る歌である。なかでも発声する前の喉を「こゑの粒子を納めたる莢」と表現する喩は美しいと思った。テーマ的には日々の鬱屈が強く感じられる歌が多い。日々の思いを文語定型という非日常的な文体に載せることで、日常卑近の地平から離陸して象徴の世界まで押し上げるという短歌の王道を行く歌群である。愛唱歌がこれでいくつか増えた。

 病む人のほとりやさしゑ枕辺を陽はしづやかに花陰はこぶ  黒田 瞳

 みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭ほどの固さかと思ふ

 さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて

 凍み豆腐やはらにたきて卵おとす卵はゆるゆる濁りてゆくを

 黒田も文語定型派だが、言葉遣いにたおやかさを感じさせる歌が多い。漢字とかなの配分比率、やまとことばの駆使、歌に詠み込まれた感興の風雅さが特に際立つ。今の若い人にはなかなかこういう歌は作れない。ある程度の年齢の方と想像するがいかがだろうか。「さかしまに」の歌の木が歩くというのは、マクベスのバーナムの森を思わせ、幻想的である。「夜世わたらむ」と定型七音に収めず、「夜世わたらむよ」と八音に増音処理したところに余韻を残す工夫があると思った。美しい歌である。

 母を蘇らせむと兄は左脚、弟は身体全てを捧ぐ  服部一行

 最大の禁忌〈人体錬成〉に失敗す幼き兄弟は

 哀しみに冷えゆく〈機械鎧 (オートメイル)〉とふ義肢の右腕、義肢の左脚

 なかでも異色なのは、服部一行の「鋼の錬金術師」と題された連作だろう。TVアニメ化もされた荒川弘の同名マンガに題材を採った作品だが、「人体錬成」「機械鎧」(アーマー / モビルスーツ)というテーマは、サブカルチャーと直結している。同人誌『ダーツ』2号が「短歌とサブカルチャーについて考えてみた」という特集を組んでいるが、確かに今の短歌の世界ではサブカルチャーを詠み込むことは珍しくないのかも知れない。しかし、サブカルチャーをどういうスタンスで短歌に取り入れるかは、歌人の姿勢によってずいぶん異なる。藤原龍一郎の「ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」には、時代と世代への強い固着があり、批評性が濃厚である。黒瀬珂瀾の「darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく」には、流行の現代を生きる青年のひりひりした自己感覚がある。服部の連作は原作マンガの物語の忠実な再現に終始していて、サブカルチャーを素材とすることへのさらなる掘り下げが必要なのではないだろうか。

 渡部光一郎もなかなかの異色歌人である。

 中井英夫は江戸っ子にてしばしば指の醤油を暖簾もて拭き

 見習いは苦汁使いに巧みにて主人の女房をはやくも寝取る

 豆腐屋「言問ひ」六代目名水にこだわり続けたりと評判

 江戸落語を思わせるような威勢のいい言葉がぽんぽんと並んだ歌は、俗謡すれすれながらもおもしろい。言葉の粋とリズムが身上の短歌なのだろう。ちなみに2004年2月号は「都々逸の創作」特集だが、渡部はさすがに「椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる」と達者なものである。

 その他に惹かれた歌を順不同であげてみよう。同人誌らしく、文語定型の歌、口語の歌、文語と口語の混在する歌とさまざまである。

 わが額にうつうつとまた影生(あ)れて ふるへる朝のふゆの吐息よ 角田 純

 軋まないようにゆっくり動かして重たき今年の扉を閉じぬ  藤井靖子

 重ねたのは仮止めとしての問いの板だからだろうか神を忘れて 小林久美子

 抽出にさよならだけの文あるにまた会ふ放恣の盃満たさむと 酒向明美

 携帯を持たぬ我は今やっと時を操る力を手にする  渋田育子

 忘れゆく想ひのあはき重なりに花はうすくれなゐの山茶花 矢野佳津

 角田の「わが額に」の口中に残る苦みも短歌の味わいである。ただし、なぜ一字あけが必要なのかよくわからない。完全な定型に字あけは必要ないのではないか。右に引いた藤原龍一郎の歌では、「ああ夕陽」のあとの一字あけは必然である。

 藤井の歌は年末風景を詠んだものだが、文語と口語が混在している。結句を「閉じぬ」で終えたのは、短歌的文末を意識したからだろうが、「軋まないようにゆっくり動かして重たい今年の扉を閉じる」と完全な口語短歌にしても、その味わいはあまり変わらないように感じる。日常雑詠のような藤井の連作のなかで、この歌だけ印象に残ったのだが、その理由はひとえに「重たき今年の扉」という措辞にある。村上春樹のモットーは「小確幸」(小さくても確かな幸せ)だが、それにならえば「小さくてもハッとする発見」が短歌を活かす。

 小林の歌は「舟をおろして」という連作の一首で、手作りで舟を作っている情景を詠んだもののようだが、「仮止めとしての問いの板」という喩に面白みがあると思った。またそこから「神を忘れて」となぜ続くのか、論理的には説明できないのだが、忘れられない魅力がある。短歌は完全に解説できてしまうと興趣が半減する。どうしても謎解きで説明できないものが残る短歌がよい歌ではないだろうか。

 酒向の歌は一首のなかに、まるでドラマのようなストーリーを詠み込むことに成功している。いったんは別れた男女の恋が再び燃え上がるのだが、「放恣の盃満たさむ」という措辞にエロスが溢れている。下句が「また会ふ放恣の(八) / 盃満たさむと(九)」と十七音(盃を「はい」と読めば十五音)だが、破調を感じさせない。

 渋田の歌はいささか言葉足らずなのだが、「携帯を持たなかった私が持つようになって、やっと時間を操る力を手に入れた」と読んだ。携帯は現代生活のあらゆる場面に浸透しているが、その力を「時を操る力」と表現したところがおもしろいと思った。

 矢野の歌は連作を通読すると同僚の数学教師の死を追悼する歌だとわかる。「花はうすくれ/なゐの山茶花」と句跨りになっているが、調べの美しい歌で記憶に残った。



『レ・パピエ・シアン』2004年5月号掲載