第146回 久野はすみ『シネマ・ルナティック』

海沿いのちいさな町のミシン屋のシンガーミシンに砂ふりつもる
           久野はすみ『シネマ・ルナティック』
 ショウウィンドーに並べてある売り物のミシンに砂が積もっているのだから、廃業したミシン屋か、廃業同然の開店休業状態にある店だろう。「海沿いのちいさな町」という提示の仕方に、どこかメルヘンのような、この世のものではない気配がうっすら漂う。そしてそれとは逆に「シンガーミシン」という銘柄が実に効果的に使われている。
 私くらいの年代の人間の子供時代には、どこの家庭にもミシンがあった。最初は足踏み式で、次第に電動式が普及した。シンガーミシンは最大手のメーカーで、うちにあったのもシンガーだったと思う。洋裁が家庭婦人の必須教科で、どこの家でも子供服は自分で縫っていた時代である。
 久野はすみは「未来短歌会」所属で、『シネマ・ルナティック』は第一歌集。跋文を岡井隆が書いている。題名のcinéma lunatiqueはフランス語で「気まぐれな映画館」の意味。昔、月の満ち欠けは人間の精神状態を支配すると考えられていた。英語でlunaticはもっと強い意味を持ち、頭の働きが正常でないことを言う。ちなみに題名は実在の映画館の名前から取ったそうだ。
 長いあとがきで語られているが、作者はもとは演劇の世界にいて演出家をめざしていたが、結婚・出産を契機に郷里に戻り演劇界を離れた。作者が短歌に出会ったのは小林恭二『短歌パラダイス』(1997、岩波新書)、略称「短パラ」だという。短歌を志す人でこの本を読んだことがない人はいないだろう。私も姉妹編の『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』と並んで、何度読み返したかわからない。ちなみに俳句編が二冊出ているのに、短歌編が一冊しか出ていないのは、句会と比較して歌合を開催するのがいかにたいへんかを物語っている。それにしても「短パラ」をきっかけに生まれた歌人とは感慨もひとしおである。
 さて、久野の作風であるが、さすがに演劇をめざしていた人だけあって、一首の中にドラマがある。たとえば次のような歌である。
春を待たずして行方しれずになりしとぞ喫茶きまぐれ髭のマスター
伝書鳩もどらぬゆうべ一片のパンにてぬぐうジビエのソース
どのドアも朽ちてしまってアンティークショップに並ぶ真鍮の鍵
知らなくていいことを知るゆうまぐれダム放流をサイレンは告げ
耳たぶのかたちの似たる父と子を乗せて進めり遊覧船は
 一首目、喫茶店に髭のマスターとはお約束のようだが、行方知れずとは穏やかでない。その裏側に何か人間ドラマが隠れているようだが、作者はそれには直接触れないのである。二首目、放った伝書鳩が戻って来ないのは事件である。そんな不穏な夕べに〈私〉はフレンチレストランでのんびりとジビエ料理を食べている。ジビエ(gibier)とは、狩猟で仕留めた獲物の総称で、主にイノシシ、シカ、キジ、カモなどがある。もちろん伝書鳩は食用にはしないが、皿の上のジビエとどこか不穏な照応をなしている。三首目、事実としてはアンティークショップに古びた真鍮の鍵が並んでいるということだけなのだが、かつてその鍵が開けたであろうドアは、時代を経てすでに朽ちているのである。四首目、知ってしまった「知らなくていいこと」とは何なのか、ぐっと興味をそそられる。そんな時にダム放流のサイレンが鳴る。上流で雨が降ったため、ダムの決壊を防ぐために放流するのである。そうすると下流で増水して、洪水を引き起こすこともある。五首目、父と子の相克は永遠の文学的テーマだが、この父と子にも何か激しいドラマがあったのだろう。しかし二人は黙って遊覧船に乗っているのである。耳の形が切っても切れない血縁を象徴している。
 このような歌を読んでいて気づくのは、背後にドラマを感じさせるためには、ドラマを暗示するアイテムを配するだけに留めて、直接ドラマを語ってはいけないということである。なぜ髭のマスターは出奔したのか、なぜ伝書鳩は戻らないのか、知らなくていいこととは何か、伏せられているからこそ、その背後に読者はドラマを感じるのだ。さすがに演劇畑の出身だけあって、押すべきツボを心得ているというべきだろう。
 また歌集題名に『シネマ・ルナティック』を選ぶだけあって、歌が映像的であることも指摘しておこう。これは掲出歌にも顕著である。「まるで映画の一場面のような」という形容がぴったりする。
 本歌集には上に引いたようなドラマを感じさせる歌が多くあり、単純な叙景歌は少ない。それは久野が表現を目ざしていて、想像力を駆使して歌を作っていることを意味する。あとがきで久野は、演劇と短歌に共通するのは「大きな嘘」だと述べている。両者ともに虚構の上に小さなリアルを積み重ねるのであり、また読者の側にも想像力を要求するところも似ているとする。
 とはいえ短歌は私性を逃れることはできず、そのことを最も感じさせるのは母を詠った歌である。
ゆるぎなく母である人おもたくて総菜の皿をわれは取り落とす
母というかたちふうわりと広ぐればただいちまいの布となりたる
娘とはほのぐらき沼ふかぶかと母を沈めて平らかである
貝印カミソリいつもしまわれて鏡台は母のしずかな浜辺
両うでにダイヤ毛糸を巻かれた日、その日より母の呪縛が解けぬ
 巻末近くに配されているこれらの歌は、映画的なドラマを感じさせる歌ではなく、より私性が滲み出ている。近頃、「重すぎる母」が話題になることもあるが、母娘関係もなかなか大変なようだ。しかしこれらの歌でも「貝印カミソリ」「ダイヤ毛糸」という固有名が効果的に用いられていることに留意しよう。これが「虚構の上に積み重ねるリアル」を担保するのである。
またひとつひみつができて裏庭の茱萸の実くちにふくむ初夏
いきものの匂いを部屋に持ちこめば終わりがすこし近付くような
ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて
はみ出した何かを引いているようだ駅構内を行き交うキャリー
遠くより眺むる花火すこしだけ遅れて届く哀しみのあり
 一首目は音が美しい。「ひとつ」「ひみつ」の頭韻と脚韻、「茱萸の実くちにふくむ」のク音、ミ音の連続、「ふくむはつなつ」のフからハへの移行と、ツの連続がそれである。二首目、部屋にペットの犬か猫を入れるのだろうが、動物そのものを消して匂いだけを提示している。生き物の匂いは即生命へと繋がり、生命の有限性は私たちに時間の支配を強く感じさせる。三首目、夕暮れは逢魔が時、消える観覧車は決してマジックではない。廃業した遊園地の観覧車が取り壊されたと取ってもよいのだが、ここでは一夜にして移動する移動遊園地と解釈した方が楽しい。レイ・ブラッドベリの小説にも登場するが、ヨーロッパやアメリカには移動遊園地というものがある。大きなトラックで機材を運び、町の駐車場のような空き地を借りて、遊園地を作るのである。小規模ながらジェットコースターや観覧車やメリーゴーラウンドなどもある。数日営業したら解体してまたトラックに乗せて次の町に行く。一夜にして消失する遊園地である。四首目、確かにキャリーバッグをゴロゴロと引きずって歩いている人は、体に納まり切らずにはみ出した何かを引いているようにも見える。五首目、光と音の伝達速度の違いに着目した歌である。花火がパッと開いて、数秒経ってから爆発音が届く。それを哀しみの速度に喩えたものである。
 いずれも美しい歌で、作者の作歌の力量と着眼点をよく示している。あとがきで、制作年代にはこだわらず短編集を編むように構成したとあり、想像力を駆使する作風と一首にドラマを盛り込む演出から言えば、連作に向いているかとも思う。
 余談ながら版元の砂子屋書房の造本はあいかわらず瀟洒で美しい。わが家の近くに恵文社という、おそらく京都で最もよく知られた書店があり、いつぞや「美しい本」の特集展示に紀野恵が砂子屋書房から出した歌集が何冊か並べられていた。砂子屋書房の本は、昔は金井印刷、製本は並木製本だった。製本は今でも変わらないが、印刷所が長野印刷商工に変わったのは金井印刷が廃業したからか。活版ができる印刷所は今では貴重である。いつまでも続けてほしいと望むばかりだ。