第407回 白川ユウコ『ざざんざ』

蒼いまま眠れバジルよヴェローナの夕空をゆく鳥たちの声

白川ユウコ『ざざんざ』

 作者の白川は1976年生まれの歌人。「コスモス」編集委員であり、同人誌「COCOON」に所属している。第一歌集『制服少女三十景』、第二歌集『乙女ノ本懐』があり、本歌集は第三歌集にあたる。歌集題名の「ざざんざ」は集中の、「遠州のざっざざんざ風つよく松の木を打つざっざざざんざ」から採られている。強く吹く海からの風を表す擬音語で、オノマトペが題名になっている歌集は珍しい。雨宮処凜が帯文を寄せている。曰く、「ページを開いた瞬間、90年代から今に至るまでの爆裂にエモい風が吹き抜けてきた。」そう、作者の生年が鍵なのだ。ロスジェネ世代と呼ばれた就職氷河期を生きた世代どんぴしゃなのである。

 歌集を開いて驚いた。巻頭の「1999 キットカットとカッターナイフ」に収められているのはなんと自殺未遂の歌なのだ。

かつてわれ屋上の柵乗り越えし東急プラザ解体される

「落ちますよ!」「どいてくださーい」下に来たひとたちに言う大きな声で

神妙に靴を揃えてみたものの膝から下をぶらぶらさせる

パトカーが着いてわたしのはるか下、白いなにかを広げはじめた

警官は優しい声のおじいちゃんそんなに歳じゃないかもだけど

 鳥居の歌集を読んだときにも衝撃を受けたが、確か自殺未遂の歌はなかったように思う。幸い未遂に終わり、作者はその後の生を生きてこの歌集を編んでいるわけだが、ここまで赤裸々に過去を語る人も珍しい。その後にも「ローソンで『袋いいです』二十四時キットカットとカッターナイフ」、「無保険で生きてる友の妊娠の検査のために貸す保険証」などの歌が続く。カッターナイフを買ったのはリストカットのためか。まさに「生きずら短歌」で雨宮処凜が共感したのはこの辺りだろう。リアリティがありフィクションとは思えない。

 本歌集は1999年に始まり編年体で編まれており、作者の人生行路を順番に辿ることができる。

静岡を出でてわたしは三島にて産まれた人と浜松に住む

新居にはわたしひとりの部屋があり夫婦ふたりの暮らす浜松

浴衣見る松屋三越プランタン旧友は知るわが派手好み

結婚は散文的な生活で起承転結まだ「承」あたり

遠州の風にはアルミサッシ鎖したったひとりの耳鳴りを聴く

 作者は結婚して浜松の海辺にほど近いマンションに住む。あとがきの言葉を借りれば、「大きな病気や怪我もなく、喧嘩や失恋もなし、労働も不要、親は死なず子も産まれない、奇跡的な天下泰平の日々が続いた」という。この後は巻頭の歌のようにどっきりする歌はなく、生活のさまざまな場面で出会った事柄が詠まれている。おもしろいのはその視点と思いきりの良さである。

美酒うまさけの一升瓶は〈八海山〉妊る前に飲んでしまおう

御休憩したことありしホテル燃ゆ燃え落ちるべしニュースを見つむ

もはやわれを雹のごとくに叱る人あらわれるまい三十九歳

鏡台をまえに思ほゆこの世とは神様用のリカちゃんハウス

韓国の旅行を勝手に申し込みさすがに怒られたるが、仁川インチョン

一首目は新潟の銘酒八海山の一升瓶を妊娠しないうちに飲もうという酒飲みの歌。二首目は入ったことのあるラブホテルが火事で焼け落ちたという歌。短歌は抒情詩ということになっているので、ふつうはこういうことを歌には詠まない。それをあけすけに歌にするところが作者の個性で、こう言っては失礼だが歌の上手さよりも作者の人としてのおもしろさで読ませる歌である。三首目は不惑を目前にして、もう自分をひどく叱る人はいるまいという居直りの歌。四首目は発想が愉快だ。子供がリカちゃんハウスで遊び、人物を着せ替えたり家具を配置したりするように、天の神さまはこの世の私たちを操って遊んでいるという。五首目は夫に内緒で韓国旅行を申し込み、怒られつつも仁川空港に到着しているという歌である。ぺろっと舌を出している作者の顔が見えるようだ。

 そんな一見泰平な暮らしの中にも悩みはそっと忍び寄る。

引き戸あけまた引き戸あけ襖あけテレビの前の母にただいま

なにかっていうと「わたしには孫がいないから」母のつぶやく仏間の狭さ

母さきに去らばさびしき父ならんやがて猫屋敷となりゆかん

びろーどが剥げてスポンジ飛び出したピアノの椅子を捨てられぬ父

父いつか母いつか去るひとつひとつ小石を積んだこの世を去るよ

 静岡の実家には老いた父母が暮らしている。自分には孫がいないことを嘆く母親と、物が捨てられずに溜め込む父親。よくある光景で、誰もがいつかは通らなくてはならない道である。とはいえ老いて弱っていく両親を見るのは辛いことだ。これも現世の苦のひとつである。

 あとがきによると本歌集を編んでいる間に実父と夫の父親が相次いで旅立ったという。「世界は変わってしまっています」と作者は書いていて、本歌集が西暦の年号で区切った編年体になっている意味が少しわかった気がする。折に触れて新型コロナの流行や、安部元首相の暗殺事件や、裏千家の跡目を継ぐはずだった千明史君の死去などが詠まれているのは世界の移り変わりを記録するという意図もあるにちがいない。

 作者の人となりで読ませる歌が多いと書いたが、短歌王道の叙景歌や叙情歌ももちろんある。

お昼寝をしているあいだ扇風機を初秋の風がしずかにまわす

細き影冬の光に折り曲げて枯れたる蓮の茎のこりおり

河骨は水に死にたる水鳥のたましいの黄にささやかに咲く

絶版の本を貸したるままのひと一人を想う夏の終わりは

春の野は死後の世界にひろがりて少年の吹く細きフルート

アルプスのマロヤ峠にうかぶ雲 死に近きもの白さを帯びて

まなざしはななめに垂れてメンタルは昏い貌してにんげんのなか

 一首目は後京極藤原良経の名歌「手にならす夏の扇とおもへどもただ秋かぜのすみかなりけり」の現代版とでも言うべきか。二首目の枯蓮は俳句によく詠まれるアイテムで実に渋い。これらの歌は短歌的に美しい。ただできれば旧仮名遣で読みたかったという気もする。読み応えのある歌集である。