第188回 井上法子『永遠でないほうの火』

ひかりながらこれが、さいごの水門のはずだと さようならまっ白な水門
 書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズからまた注目すべき歌集が出版された。書肆侃侃房は今の短歌シーンにおける新人発掘の重要な一角を担っていると言えるだろう。井上法子は1990年生まれで早稲田短歌会所属。明治大学と立教大学を経て現在東京大学大学院の博士課程で研究を続ける学問の徒である。本歌集のタイトルとなっている「永遠でないほうの火」は2013年の第56回短歌研究新人賞で次席に選ばれている。そのときの新人賞受賞は山木礼子の「目覚めればあしたは」。しかし審査員の合計点数をいちばん多く獲得したのは井上の「永遠でないほうの火」だった。井上を一位に推した穂村は、「口語文体でありながら、読者が簡単には通過できない世界。独自の摂理というか、マジカルな論理が、息遣いの感じられるリズムで歌われている」と評し、米川は「私も、口語だけれどもなにか粘着力を感じるというか、吸引力があると思いました」と感想を述べている。
 書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズは加藤治郎と東直子の編集によって陸続と若い歌人を世に出しているが、その中でも井上は特段に異色の歌人である。読んでいて「果たしてこれを短歌と呼んでいいのだろうか」という疑問に捕らわれることしばしばであった。ランダムに選んでみる。
ずっとそこにいるはずだった風花がうたかたになる みずうみに春
紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて
加速するけれどしずかなはなやぎを抱いて(つむ)る 誰にも告げず
透明なせかいのまなこに疲れたら芽をつみなさい わたしのでいい
ほの青い切符を噛めばふるさとのつたないことばあそびがせつない
 このような歌を近代短歌のOSで読み解こうとしても無理である。一首目、「ずっとそこにいるはずだった」は動詞「いる」から隠れた主語は人間か動物のはずだが、それが「風花」に掛かっている。ここで脳裏に「?」が点灯する。「風花がうたかたになる」はわかる。風花が水面で泡に変化するのだ。一字空けて「みずうみに春」もわかる。しかし「ずっとそこにいるはずだった」が宙ぶらりんのまま残る。しかし湖に春が訪れて何かが失われた喪失感は静かに伝わる。おそらくそれが作者の意図だろう。
 二首目はなかなかに美しい歌なのだが、内容を現実的に解釈しようとしたら夢落ちしかあるまい。作者が世界の夢を見ている。その夢の色は紺青である。ちなみに青は井上の好きな色だ。その夢を翡翠が駆け抜ける。その翡翠の色が夢よりもさらに青いという。読後に鮮烈な青の印象だけが脳裏に残響するので、この読みでよいと思われる。
 三首目、まず「加速する」を終止形ととるか、それとも「加速するけれど」まで続けて読むのか迷う。近代短歌ではこのような曖昧性は瑕疵である。「しずかなはなやぎを抱いて瞑る」のように主語が明示されないときは、主語は〈私〉と取るのが普通だ。すると「加速する」の主語も〈私〉なのかまた迷いが生じる。加速するのは〈私〉が乗っている列車かもしれない。意味の曖昧性の中に「静かな華やぎ」という心情だけが残る。
 四首目はさらに難解だ。「透明なせかいのまなこ」は何かの喩だろうか。例えば至る所で私の行動を監視している監視カメラとか。続けて「芽をつみなさい」、「わたしのでいい」と畳みかけられるとお手上げだ。
 五首目は珍しく近代短歌のOSで読める。「ほの青い切符」はたぶん故郷に帰る汽車の切符だろう。それを戯れに噛むと、子供時代に興じた言葉遊びが追憶されるという歌である。
 韻律に目を転じると、おおむね定型に準拠してはいるものの、下句の句跨がりが多いところに前衛短歌の影響が色濃く見られる。それからランダムに選んだ五首のうち三首で結句が一字空けで切り離されている。短歌は結句で着地する文芸なので、結句にそれまでと意味の関連性の薄い句を持って来られると、肩すかしを食らったような気持ちになる。
 短歌研究新人賞の選考座談会でも、米川は「フレーズのセンスはよい」と認めつつも、「それはよさでもあり欠点でもある」とし、「言葉のほうが先行している」と評している。続けて「何となく口から出まかせというところが、よくも悪くもある」と述べている。
 本歌集の東直子による解説によれば、井上は高校生の時に塚本邦雄の短歌に接して歌作を始めたという。また現代詩も書いていて、現代詩と短歌のコラボ作品もあるという。このくだりを読んでなるほどと得心した。井上は現代詩と繋がっている人なのである。現代詩を書く技法で短歌を作っているのだ。だから作品の中に生活者としての〈私〉を感じさせる要素が皆無なのである。
 現代詩だから「言葉先行」なのは当然と言えよう。詩においては、単語と単語の日常的な連接をずらし、新しい組み合わせを求め、言葉に圧をかけることで、単語同士のぶつかり合いから生じる火花が言葉を日常の地平から浮上させて、中空にポエジーを生む。その様子が米川には「口から出まかせ」と映ったのである。
 近代短歌のOSを捨てて現代詩のように読めば、確かに美しい歌はある。
月を洗えば月のにおいにさいなまれ夏のすべての雨うつくしい
選んでもらったお花をつけて光らずにおれない夜の火事を見にゆく
花かがり 逢えぬだれかに逢うための灯の、まぼろしのときをつかえば
海に魚さざなみたてて過ぎてゆくつかいきれない可視のじかんの
ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり
ときに写実はこころのかたき海道の燃えるもえてゆくくろまつ
くちをひらけばほとばしる火をかみくだき微笑んでほほえんで末黒野

ジョルジュ・プーレ張りのテマティック批評をするなら、井上の作品に頻出するのは〈青〉〈雨〉〈水〉〈火〉〈液体〉〈光〉で、上に引いた歌にはこのすべてがある。一首目、「月を洗えば」は塚本の「馬を洗はば」の本歌取りか。「月」「夏」「雨」のイメージが一首の核だろう。二首目、途中までの意味のはっきりしない句が、「夜の火事を見にゆく」という具体的な句で受け止められている。夜の火事には人を興奮させるものがある。それが花を着けたはなやぎと呼応するのだろう。三首目、「花かがり逢えぬだれかに逢うための」と続けるとまるで古典和歌のようだ。話は飛ぶが、「かばん」の最新号 (2016.6)で、山田航の『桜前線開架宣言』を松村由利子が論じている。松村は現代短歌を読み解くうえで古典和歌が重要だと山田が見抜いたことを評価し、たとえば今橋愛の短歌は近代短歌よりもむしろ古典和歌に近いと指摘したことに衝撃を受けたと述懐している。佐佐木幸綱は近代短歌と対比したときの古典和歌の特質は「抽象性」「観念性」「普遍性」だとした(『現代短歌』)。明治時代の短歌革新運動はその否定として〈私〉の個別性を浮揚させたわけだが、塚本チルドレンである井上の作品を見ると、確かに古典和歌の世界に近いものがある。そういう目で見るとまたちがう風景が見えてくる。面白いのは六首目で、「ときに写実はこころのかたき」は自身の作歌の心得を述べているかのようだ。七首目は本稿冒頭の掲出歌とならんで屈指の美しい歌である。この歌の功績は「末黒野」という言葉を見つけたことだろう。末黒野とは、野焼きをした後の黒く焼けた原で春の季語である。

 次の歌もおもしろい。

きみには言葉が降ってくるのか、と問う指が、せかいが雪を降りつもらせて
降りては来ない あふれるのよ 遠いはかないまなざしからきっとここへ
 井上の詩作の秘密を垣間見るようだ。「きみには言葉が降ってくるのか」とは歌会で誰かに言われたことなのだろう。それに対して井上は「言葉は降って来るのではなくどこか遠い所から溢れて来るのだ」と答えている。
 短歌研究新人賞選考で井上は惜しくも新人賞を逃したが、選考では作品の難解さ、言葉の選び方の不適切さ、イメージの飛躍などが瑕疵とされた。加藤治郎は「魅力的な作者ですけど、おそらく、自分の作品を歌会などで人に読んでもらって自分の表現は人に通じるかという、そういった言葉や表現を鍛えていく場面をほとんど通過しなかった、そんな作者ではないかと思ったんです」と述べている。井上は早稲田短歌会に所属し、歌会にも出詠して仲間の批評を浴びているだろうから、加藤の推測は当たらない。難解さとイメージの飛躍の原因は、現代詩の作り方で短歌を作っているところにある。それを「瑕疵」と言われ、「早く修復した方がよい」と言われると、井上としても苦しいところがあるだろう。
 さてどうすればよいか。結論はそっけないようでも「言葉を鍛えるしかない」ということなのだが、井上の資質は俳句に向いているようにも感じるので、前衛俳句を読んでみるのもよいかもしれない。
首に蛇捲いてほほえむ旧師こそ  安井浩司
鷲の眼の遙かなりけり蓮華敗
百日紅秘密は正午の前にあり
死にゆくを汀と思う冬いちご  高岡修
花舗のくらがりに亡命の白鳥を犯し
夕空の血を抜きにゆく日日草
 俳句の方が短歌よりも意味に依存しない。また俳句は〈私〉に送り返すことのない言葉の世界である。井上の作品とは親和性が高いだろう。私は『永遠でないほうの火』を大いに楽しんで読んだが、歌壇での評価は分かれるかもしれない。
 歌集冒頭にエピグラフとして、文芸批評家モーリス・ブランショの『来るべき書物』からあるパッセージが引かれている。そこにある「非人称的語り」「言葉と化した沈黙」はなるほど井上の短歌の言葉の位相としてふさわしい。少なくとも井上は自身の言葉の位相をこのように認識しているのだ。ブランショは私が最も愛読した思想家の一人であり、バルトが「エクリチュールの零度」と呼んだその文体は硬質である。併せて『文学空間』も勧めておこう。