171:2006年9月 第3週 佐竹彌生
または、孤絶の詩心は死の影を歩む

今日よりは蝶の受胎の日に入りぬ
      寒青葱の水染む緑
       佐竹彌生『天の螢』

 佐竹彌生は1933年(昭和8年)に鳥取県に生まれ、文芸誌「青炎」「鴉」「菱」などに所属し、第一歌集『雁の書』(1971年)、第二歌集『天の螢』(1977年)、第三歌集『なるはた』(1983年)の3冊を残して、1982年に50歳の若さで亡くなっている。中央に出ることなくずっと鳥取県で地方歌人として過ごしたようで、そのためか話題になることは少ない。試しにインターネット検索してみたらごくわずかしかヒットしなかった。WEB書店の図書検索を除けば、佐藤通雅の『路上通信』に佐竹が作品を発表した号と、『塔』に江戸雪が佐竹論を書いた号くらいである。それを除けば、藤原龍一郎が『短歌の引力』に収録された時評のなかで、砂子屋書房の現代短歌文庫で『佐竹彌生集』が刊行されたのを取り上げて、「現代短歌史上に確かな足跡を残している歌人の業績を一望できるようにまとめてくれた」と評価しているくらいで、それ以外に佐竹に言及した文章に接したことがない。もっともこれは私が歌壇にくらいためかもしれない。

 佐竹が第一歌集『雁の書』を上梓した1971年とはどんな年だっただろうか。1969年には東大の安田講堂陥落により大学紛争終結、1970年には三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺し、大阪万国博覧会に日本中が浮かれた。1972年には田中角栄首相が日本列島改造論を発表している。長く「中央公論」の編集長を務めた粕谷一希は、69年の大学紛争の終結と70年の三島割腹事件を契機として、日本社会と文壇の構造は変化し、それとともに日本人の精神構造もまた変化したと指摘している。また、吉本隆明によれば、第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなり、日本が大衆消費社会にシフトしたのは1972年頃だという。 日本にとっては大きな結節点であったわけだ。そんな時代の潮流のなかにあって、佐竹の『雁の書』はひっそりと世に出た。時代の激動から超然とした歌集のたたずまいを考えればそれもまたやむをえない。その超然ぶりは次のような歌を見ればすぐにわかる。

 中空にこころを奔れ 響り出づる黄玉のごと檸檬の香ちる

 花の哭 雫となりし心にてふときかむとすひるがほのかげ

 擁かれねば焔の髪となすことのあらざらむけさ玉蟲の髪

 玉鉾の唐黍道(もろこしみち)を過ぎむとしあふるる悲痛こゑほそめ呑む

 血の鐘の鳴るにぞ秋の爪の上にいのちの泪きらきらとあり

 目つむれば海の歓呼も消えさりてわが骨かぞふほどのかそけさ

 高度経済成長の果実を享受して大衆消費社会への道を歩み始めた70年代の日本において、このような短歌は確実に「反時代的」である。桑原武夫の「第二芸術論」を待つまでもなく、短歌はその身内に近代文学ではないものを内包しているが、佐竹のように源氏物語と王朝文学に深く傾倒している場合には、その「反時代性」はさらに極まるのである。

 このような状況に直面したとき、歌人の採る態度は大きくふたつに分かれるだろう。ひとつは、「反時代的で何が悪い」と開き直って、短歌の内包する前近代性を前面に押し出すまではせずとも、それに何らかの価値を付与することで、短歌の命脈をつなごうとする態度である。もうひとつは、短歌という詩型そのものを時代に合うようにリニューアルすることで、「反時代性」を超克しようとする態度である。もっとも歌人の多くはこの二極のあいだで揺れ動き、どちらとも言えない灰色領にいると思われる。

 しかし、佐竹の場合はそのような切口で考えるのは妥当ではあるまい。時代を超越して自らの歌の世界に没入し、ひたすら詩心を研ぎ澄ますことに専念していたと見られるからである。佐竹の短歌の世界を特徴づけるのは、「ここにこうして存在することの不可思議」と「命のおののき」である。

 螢火をおさへしふとも汝がたまを抑ふとおもふ硬き夏の手

 睡魔乗る車輪かがやき顕在のわれと昆虫轢かれてゆけり

 夕顔の花ともなりて後になり前(さき)になりわが夕ぐれの死者

 銀扇を折りまたひらく心ちして日のさざなみのゆく秋を見る

 ふる雪の何處にか覗く 白白とガーゼの絹を透る眼の光(かげ)

 降りて行く泉の底ひ映りたる貌より汲みし一人の他者

 満天の夜ぞらの星をひとつくぎりくらき鳥籠に星を飼ふなり

 夜の竿にほのかにひかる鰈あり雪の夜ふけて魚の身は燃ゆ

 流麗な文語と頻出する古語は、佐竹の王朝文学への傾倒を物語るが、それだけに目を奪われてはいけないだろう。たとえば、一首目「螢火を」や四首目「銀扇を」などは典型的な王朝風だが、二首目「睡魔乗る」や五首目「ふる雪の」などは近代詩の香りがする。事実、佐竹は短歌と並んで詩作も行なっていたらしい。そう知って読み直すと、二首目「睡魔乗る」の表現の斬新さは、横光利一らの新感覚派を思わせるものがあり、短歌と現代詩の交錯のなかから誕生したものだとわかる。

 短い年譜によれば佐竹は山中智恵子に傾倒したとあるが、現代詩との交錯という点では、どこか浜田到に近いものが感じられる。

 ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ  浜田到

 紋白蝶死にし少女のなか漂ふにゆふひの蘂を僧院かかぐ

 白昼の星の光にのみ開く扉(ドア)天使住居街に夏こもるかな

 浜田の天上的幻視の抒情はリルケの形而上的詩世界への傾倒によるものだが、佐竹の短歌にも、可視と不可視の不思議な混淆があり、自らの内部への沈潜を通して、存在の深みへと測鉛を垂らすような所がある。上に引用した歌のなかの五首目「ふる雪の」に見られるガーゼの絹を透過する視線や、七首目「満天の」に見られる非在の鳥籠に星を飼うという幻想などは、特に浜田との親近性を感じさせる。病弱だったせいか、歌の至るところに死の影がさしているところも、浜田とよく似ているのである。

 また短歌の技法的特徴としては、近代短歌のセオリーである写実によらず、幻視を伴う詩的圧縮を多用することで、可視の現実を超えて形而上的世界に迫ろうとする志向が強く感じられる。この点においても佐竹と浜田は魂の同質性を感じさせるのである。

 現代の若い歌人が佐竹の短歌を読んだら、どのような感想を抱くのだろうか。現代短歌の大きな流れとなりつつある日常語によるライトでポップな歌の言葉と佐竹の駆使する詩的言語は、まったくといってよいほど位相を異にする。現代の歌を読み慣れた目で佐竹の高踏的な歌を見ると、きっとテンションが高すぎると感じるだろう。しかし逆に佐竹の歌の言語のボルテージと火花が飛ぶような詩的圧縮を感受した目で現代の歌を読むと、その言語のあまりの平板さと日常性に驚いてしまう。そして短歌は確実に変質したとの感を深くするのである。

 佐竹の短歌の世界は孤絶の世界であり、歌人自身がそれを望んだふしがある。孤絶の世界に参入することは容易ではなく、また危険なこともあろう。しかし佐竹の歌は詩的言語の位相とはいかなるものかを教えてくれるのであり、大衆消費社会の到来を告げる70年代の初頭にこのような歌集が出版されたことには意味がある。それがたとえ反時代的という意味であるとしても。