第254回 佐藤りえ『景色』

飽きられた人形と行く夏野かな

 佐藤りえ『景色』

 佐藤りえは2003年に歌集『フラジャイル』を上梓し、このコラムの前身「今週の短歌」で取り上げたことがある。そのときは知らなかったが、佐藤は10代の頃から俳句を作っていて、短歌よりも俳句の方が手を染めたのが早いらしい。初めは独学だったようだが、現在は「豈」同人とあるので本格的に俳人なのである。攝津幸彦記念賞若手推薦賞を受賞している。

 俳句と短歌は生理がずいぶんちがう。塚本邦雄や藤原龍一郎(藤原月彦)のように、短歌も俳句も作って句集まで出している人がいないわけではないが、陸上競技の100m走と球技のバレーボールのように使う筋肉がちがうので、両方をうまく操るのは難しかろうと思う。佐藤はどうかと言うと、なかなか俳人なのである。

 俳句は17音(正確には17音節)しかないので、31音ある短歌と較べると、ストーリーや作り手の主情を入れ込む余地が少なく、スパッと切った写実の切れ味や二物衝撃による驚きで勝負しがちだが、佐藤の俳句には物語が感じられるものが多くておもしろい。

探偵の衣嚢に桜貝はあれ

開拓史用箋燃やす夏の庭

ロボットの手をふる庭や系外銀河

花闇に蓄光塗料の指の痕

夏来ぬといへばジョージの胸毛かな

 一句目、探偵というだけで物語ができそうだが、衣嚢というからには現代の探偵ではなく、大正か昭和初期の江戸川乱歩の匂いが立ち上る。その衣嚢の中に探偵には似つかわしくない桜貝がある。そこにどんな物語が隠されているのだろうとあれこれ想像するのが楽しい。季語は桜貝で春。二句目、開拓史でまっさきに頭に浮かぶのは北海道の開拓の歴史だろう。その昔、開拓の拠点があった古い建物が目に浮かぶ。用箋は昔の机の引き出しに黄ばんで残されていたものだろうか。それを雑草の生い茂った庭で燃やしている。三句目、佐藤の俳句には宇宙ものが多いのだが、これもその一つ。ロボットが手を振るというと、「天空の城ラピュタ」が連想される。「系外銀河」とは私たちが住む銀河から遥かに遠く離れた銀河なので気宇壮大なのである。四句目、花闇なので桜の季節である。蓄光塗料は日光のエネルギーを溜めて発光する塗料。昼間のうちに近くで蓄光塗料を塗る作業をしていたのだろう。作業員の指に塗料が付着して、それが思わぬ場所に指跡を残す。昼間は気づかないのだが、夜になって暗くなると指の痕がぼーっと光るのである。五句目は回想の歌。夏が来たといえば思い出されるのはジョージの濃い胸毛だというのだから、ジョージはかつての恋人だろう。横須賀にいた海兵隊員かなどと想像が膨らむ。読者を想像に誘うのは良い俳句である。

地球恋しはつたい粉など振りまきて

アストロノート蒟蒻を食ふ訓練

夏痩せて肘からのぞくベアリング

月世界兎が跳ねてゐるはずの

夏星に妹与へ七人も

 宇宙ものから引いた。一句目はどこかの惑星か宇宙ステーションにいるのだろう。はったい粉は麦焦がしともいう。湯で溶いて食べる懐かしい昔の食べ物である。近未来の宇宙生活と昭和ノスタルジーの対比が眼目の句。二句目はずばり宇宙飛行士だ。無重力状態で窒息しないようにコンニャクを嚥下する訓練をしているのか。宇宙にまで出かけてコンニャクを食べることはないような気もするところにおかしみがある。三句目はアンドロイド。夏痩せしたので関節のベアリングが見えているのだ。四句目は月に到達した宇宙飛行士がウサギがいないのでがっかりという句。五句目は2017年に発見された地球によく似た外惑星に寄せた句である。

 短歌とちがって俳句には脱力の文芸という一面がある。「三月の甘納豆のうふふふふ」という坪内稔典の有名な句を見てもそれは明らかだろう。

焼き網の焦げを落としてゐる春夜

溶けてきて飲み物となるくらげかな

豆のいろうつすらさせて大福は

コッペパンになづむ一日や春の雪

さいたまにいくつの浦和バスに乗る

 たとえぱ一句目は、焼き網にこびりついた焦げをブラシか何かで落としているという句で、だから何だと言われると答えようがない。三句目だって、豆大福の中の黒い豆の色がうっすらと透けて見えるという句で、とり立てて言うほどのことはない。俳句は極小の短詩なので、大きなものを入れるには適さないかわりに、日常の小さなものを掬い上げるのに向いている。大きな声で叫ぶのではなく、小さな声を拾うのである。世に言う俳味は、滑稽、飄逸、洒脱などと言われるが、大きな感動というよりは、じわじわとこみ上げて来る味わいを楽しむものだろう。穂村弘が短歌について言うような「世界を更新する」というほど大げさなものではなく、机に置いてある花瓶の位置をほんの1cm横にずらす感じか。それでも目に映る風景が少しちがって見えるものだ。

 その他に印象に残った句をいくつか挙げる。

りりやんの穴に落ちしは春の蝿

立子忌のサラダボウルに盛るひかり

マスタング路上駐車の青蛙

西方のあれは非破壊検査光

月も灯も容れて深夜の水たまり

泥沼に仏手柑放る銀となれ

ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ

をぢさんが金魚を逃すその小波

 このような句で何を味わうべきか。俳句や短歌に限らず、言葉によるあらゆる文芸においては、言語が詩的用法において用いられている。詩的用法の対極にあるのは言語の日常的用法である。私たちはふだん言葉を用いて人に何かを伝えたり、指示・命令したりする。「この書類のコピーを取ってくれないか」という文は、実際にコピーを取って手渡された時点で用済みとなる。意味が伝達されたからである。そのためにはコトバは意味が理解できる組み合わせでなくてはならない。言語の詩的用法においては意味の伝達は主要な目的ではない。最も重要なちがいは、詩的言語においてはコトバは話し手としての〈私〉の〈今・ここ〉から解放されるということだ。コトバは〈私〉の〈今・ここ〉という紐帯を離れて、誰のものでもない無人称的なものへと相転移する。それがブランショの言う「文学空間」(espace litteraire)であり、永田和宏の言う「虚数空間」である。そのような空間において、コトバは日常的な統辞から解放されて、ふだんは見られない組み合わせをなかば自動的に作り出す。作者はそのコトバの自動運動に身を委ね、降ってきたものを掬い取るのである。そうして得られたのが、りりやんの穴と蝿、マスタングと蛙、沼と仏手柑という取り合わせである。読者はこうして相転移したコトバの日常言語とは異なる匂いや手触りや軋みをゆっくりと玩味する。およそこういうことではないだろうか。

 

049:2004年4月 第4週 佐藤りえ
または、壊れ物としての世界に生まれた午後4時の世代

わたしたちはなんて遠くへきたのだろう
        四季の水辺に素足を浸し

           佐藤りえ『フラジャイル』
 佐藤りえは1973年生まれ、短歌人同人。『フラジャイル』(風媒社)は2003年暮れに刊行された第一歌集である。1987年の『サラダ記念日』以後、短歌を作る女性が急激に増加したが、プロフィールによると佐藤は10代の頃から短歌・俳句・詩を書き始めたとある。『サラダ記念日』が出版されたとき佐藤は14歳だったわけだから、影響を受けなかったはずはない。しかし、俵の口語定型短歌とはまた異なる独自の世界を作り上げることに成功した歌人である。『フラジャイル』はとてもよい歌集である。

 批評には対象に即した言葉があるはずだ。どんな対象でも自由自在に料理することができる批評の言葉というものはない。もしそのように振る舞う言葉があるとすれば、それは批評の皮を被った教条主義でありドグマチズムである。批評の言葉というものは、ある基準を外から作品に当てはめて批判し評定するものではなく、鍾乳洞を懐中電灯ひとつで探検する洞窟学者のように、まず作品世界のなかに手探りで分け入るものでなくてはならない。

 佐藤りえの『フラジャイル』を一読して私が感じたのは、新しい感性と表現が作品として結実したとき、既存の批評の言葉は古くなった通貨のように無力であり、新しい批評の言葉の出現を待たなくてはならないということである。私は佐藤の短歌を強い共感を持って読んだが、その共感の質を表現するのに適切な言葉を捜しあぐねている。

 永田和宏は『表現の吃水』(而立書房)所収の「『問』と『答』の合わせ鏡 I」(初出『短歌』昭和52年10月号)のなかで、後によく知られることになる次のような短歌の性格づけを述べた。問題にされているのは、短歌のなかで詠まれた対象とそれを詠む主体との「関係性の定理にあたるもの」である。言い換えれば、主体と対象がどのような関係に立てば、短歌として成立すると言えるのかだ。題材にされているのは「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」という志垣澄幸の歌である。

「『退くことももはやならざる』という上句は、その時点で作者を表現行為へと促した自己認識、つまり問題意識である。それを内部状態と言ってもよいが、広い意味でここでは『問』と言い換えて差しつかえなかろう。即ち作者は『退くことも…』という『問』をもって、その『問』を支える対象を外界に求めたのであり、下句は言わば上句に対する『答』であるとも言い得る」
 つまり、一首のなかに「問」と「答」が併存しているということである。例歌では上句が問、下句が答だが、その順番は逆でもよい。作者は短歌のなかで、自分で問いかけ自分で答えるというふたつの役目を果たすことになる。永田が注意を喚起するのは、問に対してあまりに安直な答を与える危険性である。同じく志垣澄幸から「硝子越しに五月の海を磨きつつ遠くなりたる青春おもふ」という歌を引き、上句による対象の問にあまりにつじつまの合いすぎた答を与えたため凡歌になったと断じている。永田は続けて次のように言う。

「一首における『問』と『答』のこのような合わせ鏡構造こそ、この詩型発生以来の基本的構造なのであり、『問』の拡散性をいかに『答』の求心力によって支え得るか、『答』の凝集性をいかに『問』の遠心性によって膨らませ得るか、という点にこの定型詩の生命があると言い得よう」
 私たちがよく知っている短歌らしい短歌には、確かにこのような合わせ鏡の構造が見てとれることが多い。

 殷殷と鬱金桜は咲きしづみ今生の歌は一首にて足る 塚本邦雄

 生きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 塚本の歌では、「殷殷と鬱金桜は咲きしづみ」が外界の対象の提起する問であり、「今生の歌は一首にて足る」はそれに触発された主体の側からの答である。答を「ブーメランのように」(永田和宏)できる限り遠くへと飛ばし遠心性を付与することで、歌が安易に着地することなく、読者の心に飛び込むものとなる。山中の歌では、「ここ鳥髪に雪降る」が対象の投げかける問であり、残りが主体の提示する答という構造と言ってよいかと思う。

 確かにこのような構造を持つ歌は、短歌としての姿がびしっと決まっており、また問に対して答を提示しているから、読者の心に不全感を引き起こすことが少ない。背筋のピンと伸びた日舞のお師匠さんの舞いを見ているようだ。

 しかしながら、永田がもはや四半世紀前に提唱した「主体と対象の関係性の定理」を、「決まり過ぎている」と感じる歌の作り手が増えてきたのではないだろうか。その証拠に河野裕子は、「完結性のある格調高い歌が気恥ずかしくなってきた」(『体あたり現代短歌』)と述懐している。また村上きわみは、私がご本人からいただいた電子メールのなかで、「大きな物語を腐葉土のように踏みしめて立つ歌に惹かれながらも、一方ではそれをどこか疑わしく思っている」と、自分が抱くアンビバレントな感覚を表現し、「自分のなかで80年代から90年代にかけて大きな物語が失効したように感じている」と続けている。これはなかなか考えさせられる言葉である。確かにもし「大きな物語」が失効したのなら、永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」を基本構造とする「決まり過ぎた」定型詩としての短歌という性格付けもまた、ハイパーインフレ経済下の紙幣のようにその効力を失う可能性があるからである。

 長々と上のようなことを書き付けてきたのは、佐藤りえの作る短歌のなかにもまた、この点をめぐるブレあるいは逡巡が見られるからだ。

 廃屋のアップライトを叩く雨すべてはほろぶのぞみのままに

 夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡るわれなどあらざるごとく

 青空のどこか壊れているらしく今日三度目の虹をくぐれり

 永田の図式を適用するならば、「廃屋のアップライトを叩く雨」は外界の対象が提示する問で、「すべてはほろぶのぞみのままに」はその問を基点として主体が引き出した答である。一首の詩としての成立は、ひとえにこの問と答の取り結ぶ緊張関係に存する。「夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡る」と「われなどあらざるごとく」の間にも同じ関係がある。「今日三度目の虹をくぐれり」は事実の提示で、「青空のどこか壊れているらしく」はそれを踏まえた主体の答である。このような歌群は永田の図式にすんなり収まる。オジサンにもわかりやすく共感しやすい歌である。佐藤は現代の歌人の例に漏れず、文語・口語混在文体の作家だが、「永田の定理」の成立する短歌は文語で作られていることにも注意しておくべきだろう。佐藤は意識的に文体と方法論を選択的に用いているのである。

 しかし、次のような完全口語歌はどうだろうか。

 北東にほろびを知らせる星が降るなんて予報じゃ言ってなかった

 こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね

 一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

 春の河なまあたたかき光満ち占いなんて当たらないよね

 傷つけることを言いたいセロファンをくっつけたままねぶるキャンディ

これらの歌に「問と答の合わせ鏡」を見いだすことは難しい。例えば4首目の、「春の河なまあたたかき光満ち」(ここだけ文語でブレがある)を外界の対象の提示する問だと一応仮定しても、そこから「占いなんて当たらないよね」という答がどのようにして導かれるのかわからない。また問と答の間にどのような緊張関係があるのか答えることは難しいだろう。

 新しい感性と表現が作品化されたとき、既存の批評の言葉が効力を失うと感じるのはこのような時である。ここには永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」の緊張関係はないとかんたんに考える方がよい。もしも永田の図式がほんとうに定型短歌発生以来の「定理」だとすると、佐藤のような歌人はそのような定理から自由な地平で歌を作ることを選択したのである。

 では佐藤の作る上のような歌で読者に求められていることは何か。それは短歌に込められた感情に対する理屈抜きの「全的共感」ではないだろうか。「一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン」を例に取ると、「一人でも生きられるけど」はおそらく失恋を意味する。だが失恋するとなぜトーストに恐ろしいほどのマーガリンを塗るのか、関連づけの手掛かりとなるものは一切提示されていない。それでも「ああ、そうそう、そういうことってあるよね」と共感する読者がいれば、この歌は向こう岸に何かを伝えることに成功したと言える、そのようなスタンスがこのような歌の前提にあるのではないだろうか。

 やや大上段に振りかぶって論じれば、「大きな物語」が失効した現代にあって、私たちに残されているのは「小さな日常」である。しかし小さな日常は、限りなく細分化し断片化し個化する。だから共有化することが難しい資源なのだ。そのような状況にあって、歌で掬い取ることができるものが呼び起こす共感もまた、自分を中心する狭い範囲を出ることがない。「問と答」の緊張関係を推力として、答を「ブーメランのように」遠くに飛ばすことを頭から方法として否定している。そのように思えるのである。

 佐藤の歌集を批評しようとして、方法論についての議論に終始してしまった。歌に詠われた内容・感覚に目を転じると、私が特に目についたのは「キラキラ感」である。佐藤の歌には光に関係するものがよく出て来る。

 ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている

 キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる

 偽物の光であれば包まれるアミューズメントパーク、夕凪

 できたての舗装の上にきらきらと弔いの硝子屑は光れり

 暗闇に天つ光が動いたらそこは世界の夜の海辺よ

 これらの歌に充満する「出口なし」感覚、郊外ベッドタウン美しが丘、アミューズメントパークを彩る偽物の光、舗装したての道路に散乱する弔いの予兆の光は、キラキラ感の背後に横たわる闇をいやおうなく思わせ、佐藤の世代が抱え込んだ絶望の深さを思ってしまう。「絶望」というのは言葉としてちょっと重すぎるのだが、他にどう言えばいいのかわからない。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』で河原の死体を眺める吉川こずえさんや、『pink』の自宅でワニを買うOLユミちゃんと、どこかで共通する「気分」と言ったほうがよいだろうか。

 社会学者・小倉千加子が少し前の朝日新聞の記事に書いていた言葉が忘れられない。小倉がインタヴューした女子高校生は、「あたしたち、ずっと午後4時の気分なんですよう」と言ったというのである。佐藤はもちろんもう女子高校生ではないが、この「午後4時の気分」は、バブル経済が崩壊し、大きな物語が失効した佐藤の世代にも共有されているのではないだろうか。『フラジャイル』は「壊れもの」という意味であり、郵便小包の表に押すスタンプだが、「壊れもの」なのは生身の人間であると同時に、私たちが暮している「世界」でもあるのだ。

佐藤りえのホームページ