第90回 佐藤通雅『強霜』

老いのさきに死のあることのまぎれなさ藍重くして梅雨の花垂る
                     佐藤通雅『強霜』
 昔は国立大学は12月22日頃になるともう授業を休止して冬休みに入っていた。休み明けは1月8日頃だったから、2週間程度は冬休みがあった。学生たちは郷里に帰ってクリスマスと新年をゆっくり迎えることができたものだ。
 ところが最近は文部科学省の締め付けが厳しく、私が勤務する大学では12月28日まで授業があり、年明けには1月4日からもう始まる。わずか6日しか冬休みがない。22日にはもう終業式を迎えている近所の中学校をうらめしげに横目で見ながら、今年も28日まで授業をした。この短歌コラムの更新も冬休みに入ってからと悠長に構えていたら、あっという間に新年が明けてしまった。
 2012年の第一回目にどなたの歌集を取り上げるかは、ずいぶん前に決めていた。佐藤通雅さんの『強霜こわじも』である。佐藤さんは1943年(昭和18年)のお生まれだから、今年69歳をお迎えになる。長年の歌業への敬意と、歌集題名『強霜』が表すように、厳しい冬の霜に耐える世の中であってほしいという祈念からである。以下、敬称は略す。
 『強霜』は『予感』に続く第九歌集で、2005年から2010年までに作られた歌をほぼ編年体で収録したとのことだ。表紙に使われた日本画家及川聡子の絵がすばらしい。思わず電網で検索して他の作品にしばし見入ったほどである。
 私が佐藤の歌を読むといつも、短歌固有の韻律がこれほどまで肉体化された歌は実は少ないという感に打たれる。
蜻蛉せいれいの羽のきららに一日充つわが裏にして素枯れたる墓地 
                           『薄明の谷』
ひたひたと渚に燃ゆる馬見えて 秋 遠国の死者にまじれる
忽然としてひぐらしの絶えしかば少年の日の坂のくらやみ 『襤褸日常』
薔薇革命郷愁としてわれら在る会へば互にうとみあひつつ
 「蜻蛉」に「せいれい」とルビを打つ必要もないほどで、音数律からしてこの読みしかない。同じ理由で「一日」を「いちにち」と読む人は短歌を読む感覚に欠けるだろう。「蜻蛉の羽のきららに一日充つ」という上句のなんという語感の美しさ!そして一転して下句の〈私〉への落とし込み。現代短歌のお手本を見るかのようだ。二首目は左翼革命幻想への挽歌、三首目は少年期の回想。四首目は塚本邦雄に寄せる歌。かつて前衛短歌の影響を受けた佐藤だが、芸術至上主義を掲げる塚本とは反りが合わなかったようだ。三首目「忽然と/して」の句跨りと、四首目「薔薇革命」の初句六音という軽微な破調までをも含めて、韻律にまったく揺るぎがない。単に五・七・五・七・七の三十一音に収めるという意味では毛頭なく、句を内側から支える内的韻律のことである。私はどうも韻律感覚が狂ったなと感じたときには、佐藤の歌を読むことにしている。風邪の引き始めに服用する薬のようによく効く。
 本題に戻って『強霜』を見よう。まず目が停まるのは老境に入っての述志の歌と呼ぶべきものである。
せはしければわれにとどまるひとはなしそれでよしこころおきなく過ぎゆけよひと
親の死を見届けよいしよと立ち上がるときのまぶしさわれにも残り
こだはりを貫くたびに100歩づつおくれてゆくもう万歩にはなる
かなしいばかりにひとりでやつてゐるやつと佐藤通雅は評されてをり
 佐藤は長年続けて来た個人誌『路上』を2011年に終刊した。短歌人会を脱会してからは、この個人誌を拠点として短歌や宮沢賢治論や教育論を発表してきた文字通り独行の人である。上に引いた四首はその孤独と矜恃とを詠んだもの。このような立ち位置から「人統ぶるも才のうちなり弟子たちひきつれ悠然とロビーに入り来」「たれよりも賞にこだはる人ならむ舌鋒鋭く賞を批判す」のような苦く鋭い批評の歌も生まれる。
 歌集に係累の死と老境の孤独を詠んだ歌が多いのは、年齢を考えれば当然かもしれない。
いつしかにわれも生死しょうじの奔流にはまりをりひとを送るにせわ
見舞ふたびがくがく劣化する叔父の水枕びゆろんとあるとき鳴りぬ
老兄弟来たれど廃墟の弟を見下ろせるのみそそくさ帰る
まだ生きて墓碑に花置くを許されよあつけなく身罷りし同年の友
 しかし悲しみ一色ではなく、二首目に見られるように、悲しみのなかにも些細な事実を発見する目があり、それを歌にするときのどこか制約を外された自由さが感じられる。最初に引いた初期歌集の精密機械のような韻律ではなく、伸び縮みする融通無碍な恬淡さがある。これがよく感じられるのは、次のような固有名を詠み込んだ歌だろう。
吊り広告はたふさぎ干しに似てゐるとなぜ言わぬ茂吉ならきつと言ふ
どちらかといへば夕陽の国のひと「永井陽子」を手の届く位置に
岡井隆の「隆」の存外の凡庸を許しがたかつた疾風の時代
思ほへぬ不調もわれに得がたくてがつぽりと寝て綿矢りさ読む
股間にし火鉢はさみて暖をとるかの日釧路の石川一
残り時間をうたへる歌をけふに読む 噫、河野裕子を喪ひたくない
アナログ系最後の出版人として冨士田後退戦をよく闘ひき
 一首目は、電車の中吊り広告はふんどしに似ているという歌で、その発想もおもしろいが、茂吉ならきっと言うという結句が絶妙だ。二首目は永井陽子への挽歌で、「夕陽の国の人」が美しい。手許に置くのは青幻舎版永井陽子全歌集か。三首目はいささか注が必要だろう。『薄明の谷』に「病むものの辺にかえらざるDr.R されば吐血のごとき霜月」などの歌を含む「R、どこへ行った」という連作がある。Rとは「隆」を「りゅう」と読ませたときの頭文字で、岡井隆のことである。かつての同志ゆえの歯に衣きせぬ物言いか。驚いたのは四首目にあるように、綿矢りさの小説を読もうとする若い心持ちである。私なんぞ20歳そこそこの若い女性が書いた小説を読もうという気には到底ならないが。五首目の石川一とは啄木のこと。五首目は河野裕子が病床にあった頃の歌である。その直截な表現に驚く。六首目は雁書館社主の冨士田元彦への挽歌。
 次のような生活上で出会った些細なことを詠んだ歌もまたおもしろく、このあたりに現在の佐藤の歌のポイントを求めるべきかもしれない。
女子アナが「サキグロタマツメタ」といふときの唇のうごきのほのかなるかも
女性ひと女性ひとしんになじめるスカートをひらめかす電車乗り換へるときも
ダイコンの葉を切りすてるひとのため生協内におかれをる箱
ケータイを爪弾くさまをその隣の男が歌に詠むとは知らず
それとなく見やるに化粧は微に入りて細にかれるころにてあらし
 一首目の女子アナの唇の動きや、二首目の女性のスカートを詠んだ歌には、冷徹に観察する目とどこかそれをおもしろがる心とが同居しているようだ。三首目は大根の葉を捨てることに対する批評。四首目はたぶんスマートフォンでギター演奏ができるアプリのことだろう。それを歌にした人が誰かいたのだろうか。五首目は最近よく見かける電車のなかで化粧をする女性を詠んだもの。周囲を鋭く観察する目と好奇心が歌の源にある。この飄々とした力の抜け方はやはり年齢を重ねないと出ない味わいだ。
 しかし佐藤の短歌と言えばやはりその抒情性である。集中に散見する次のような歌を見れば、佐藤の初期歌集を特徴づける抒情性が失われていないことがわかる。
たまたまに柩車のあとにしたがへば青葉は照らふ黒の車体に
しろがねの腹部さらせる川鮒はやがてながれにさからはずけり
路地裏のブリキバケツは棒杭の先に干されてかうべ)を傾ぐ
おまへにも時間ありやと問ひみるにおれが時間だとノラは応へる
乳母車とすがへるときの香の甘さ時間ときの生るるは香のところより
 一首目は巻頭歌だが静かな口調の中に諦念が感じられる。二首目にも下句に同様の感じを受ける。三首目は観察の歌とも自画像とも取れよう。四首目と五首目は特に好きな歌で、今の時点における佐藤の考え方をよく表していると言える。人間は時間を外在化したため時間に追われる存在となったが、動物は内在的時間をただひたすらに生きる存在である。動物にとって生きていること自体が時間だというのは、もって瞑すべき真理だろう。五首目は乳母車と行き会いざまに、赤子の甘い香りを嗅いだときの歌。赤子もまた動物と同じく外在化以前の時間を生きる。それを「時間の生るる」と表現したのは美しい。
 あとがきによれば、最初は2011年までに作った歌を収録するつもりだったが、3.11大震災が起きたため、突然多作になり収録できなくなったという。佐藤は仙台の在住であり、自身を含めて知人や教え子に被災した人も多かろう。お見舞いを申し上げるとともに、3.11以後の歌が世に出るのを待ちたい。