第7回 大辻隆弘『子規への溯行』をめぐって

大辻隆弘『子規への溯行』(砂子屋書房、1996) 

 遅まきながら大辻隆弘の『子規への溯行』を読んだ。1960年生まれの大辻が36歳の時に上梓した充実の第一評論集である。大辻はこの時点で『水廊』『ルーノ』の2冊の歌集をすでに持っている。折しも今年(2008年)、吉川宏志の評論集『風景と実感』が出版された。吉川は1969年生まれなので、39歳での第一評論集ということになる。大辻も吉川も短歌実作で高い評価を受ける中堅の実力派であり、「歌論不在の時代」(川野里子『短歌ヴァーサス』5号)にあって、短歌評論の分野でも精力的に活動している二人である。ともに30代で最初の評論集を持つことの意義は大きいだろう。
 本書は3部構成になっており、第I部には近現代の短歌の基本的パラダイムを考察した「私というパラダイム」と「活字メディアの成立と近代短歌」が収録されている。分量的に多いのは第II部で、近現代の歌人論が収められている。第III部は著者が「やや状況論的色彩の濃い」とする「私像」をめぐる論考「私像の時代」「短歌的主題と私性」「一首の屹立性について」が収録されている。著者が「本書の中心を成す」と述べている第II部の歌人論よりも、短歌について原理的かつ歴史的考察を加えた第I部と、「状況論的な」第III部を特におもしろく読んだ。第II部の歌人論は基本的に時間の経過によって変質することはない。しかし状況論的論考は時代を反映する。初出(1991年・92年)から数えてすでに16~7年経過しているのだが、大辻がこれらの文章で控えめに表明した危惧は、ますます現実化しつつあるように見える。この問題について少し考えてみたい。
 大辻が第III部の「私像の時代」で話題にし、さらに第I部の「私というパラダイム」で歴史的考察を通じて実証しようと試みたのは、一首の歌の背後に一人の「私像」を想定する読みは、明治30年頃に成立した近代的な読みであり、それは子規を中心とする根岸派による歌の言語改革に支えられていたということである。
 もう少し詳しく言うと、大辻の「私像」とは、まず「一首の歌を読んだときに頭に浮かぶぼんやりとした人物のイメージ」と暫定的定義が与えられており、その特徴は作者の側ではなく読者の側から定義されている点にある。「私像」はさらに細かく規定されており、「狭義の私像」は「読者が作品(一首・歌集)に向かって、主体的に感情移入することによって成立する人物のイメージ」、「作者像」は「さまざまな作品以前の情報(メタ情報)によって、読者の心のうちに作り上げられた作者の統一的なイメージ」とされている。そして私たちがふだん使っている短歌における私像は、この両者が渾然一体となった広義の私像であるとする。
 さらに、岡井隆『現代短歌入門』で「場の理論」として展開され、小池光が「短歌は、額縁を持つ詩型である」(『日々の思い出』あとがき)と述べているように、短歌はその短さゆえに一首によって自足的な意味の完結を求めることが難しい詩型であり、「場」の力を借りなくてはならない。近代主義的な読みのパラダイムとは、作品の背後に超越論的主体として構成される作者の私像に意味を支える場の働きをさせるべく、ただ一人の顔へと収斂するように歌を読むことであるというのが、おおむね大辻の主張である。
 では大辻が91年の時点で控えめに表明した危惧とは何か。それはこのような近代主義的な読みのパラダイムが通用しない短歌の出現である。大辻は前年に出版された穂村弘の『シンジケート』(1990年)を一例として挙げ、次のような歌を引いている。
ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー
俺にも考えがあるぞと冷蔵庫のドア開け放てば凍ったキムコ
そして「一首一首の垂線をたどることによってその焦点に一人の人物の顔を感じとろうとするような従来の歌集の〈読み〉は、この歌集には通用しないところがある」と述べている。大辻にとって従来の読みが通用しないこのような歌の出現は、「短歌という詩型の存立に関わる危機」と認識されている。なぜなら短歌が成立する「場」とは、「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」であり、その場の崩壊は近現代短歌の存立基盤そのものの崩壊を意味するからである。
 大辻がこのように述べた文章の初出時である1991~92年というと、歌壇ではライトヴァース論争が一段落し、『シンジケート』に続いて加藤治郎『マイ・ロマンサー』(91)、穂村『ドライドライアイス』(92)、荻原裕幸『あるまじろん』(92)などのニューウェーブ短歌が陸続と世に出た時代である。それまでの近現代短歌と異なる特徴は、口語体の短歌への浸透と、レトリックを前面に押し出す「修辞ルネサンス」(by 加藤治郎)であった。しかしこの時代の最も特筆すべき変化は大辻の指摘する「私像の変容」であり、そもそも従来の私像が成立しないという事態の出来である。そして大辻が91年の時点で危惧を表明した変容は、2008年の現在ではすでに短歌シーンに燎原の火のごとく広まっているように感じられる。
 実際、現代の若手歌人の次のような歌に、垂線をたどることで焦点を結ぶような〈私〉を読みとろうとしても、それは難しいのである。
ポロシャツのうすみどりいろ、ガムの匂いジュライきみからログアウトする
                      笹岡理絵『イミテイト』
せんせいのまえであたしはにんげんになったりねこになったりします
                      田中美咲希
スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる
                      笹井宏之
 まったく別々に別の関心から読んだ複数の本が、奥深いところで呼応するのは読書の醍醐味であり、私たちはそこで何らかの真実に手が触れたと感じる。大辻が『子規への溯行』で主張したことは、最近読んだ大塚英志の『物語消滅論』(角川oneテーマ21、2004)と奇妙なまでに符合するのである。大塚はマンガ原作やRPGなどのゲームに物語を提供する立場から近年の「物語」の機能の変容を分析し、さらに明治以来の近代小説の考察へと及んでいる。大塚の主張は次のように要約できる。
 明治時代後半にヨーロッパから様々な近代小説が流入し、その受容の過程で「私」という自我の必要性が認識され、その表出のために言文一致体という新しい文体が生み出された。この新たな文体はそれが表出する「私」とともに、新たな現実感(リアリティー)を形成した。この現実感は基本的に現代まで持続しており、私たちが共有している現実感は、明治30年代の後半に急速に形成された歴史的産物である。しかしこの文体に支えられた「私」はもはや耐用年数が尽きている。言文一致体で「私」と書くだけで、物語の背後にいる作者であることが保証されるシステムは、もはやリアリティーを支えることができない。この結果、80年代までは確かに感じられた現実感は、90年代に急速に希薄化した。
 大辻は短歌の読みという場で浮かび上がる私像を読者の側から考察しており、大塚は物語を供給する作者の側から論を進めているという違いはあるが、明治30年頃に形成されたひとつの言語体制が今日無効化しつつあるという認識で一致している。大塚はさらに、「歴史と空間の結節点に〈私〉を認識していく。それが一定の安定性を持ったときに、リアリティーとか現実感と呼ばれる」のであり、今の若者が現実感を欠いていると感じるのは「明治40年前後に出来上がって、文学や柳田民俗学を含めた近代の言説が支えてきたリアリティーが、もはや言語によって、つまり文学や思想によって支えられなくなってきたことの表れ」ではないかとも述べている。今日声高に叫ばれる近代文学の終焉である。大塚の論は現代の若者が感じるリアリティーの欠如という問題にまで及んでおり、短歌に関わる人間は無視して通ることはできまい。大辻の文章と大塚の文章を併せ読むと、書かれた年代に若干の差があるとはいえ、そこに現代の私たちが置かれている言語状況の一面があぶり出されていると感じざるをえない。
 近代短歌を成立させてきた「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」と、それを支えてきた近代の言説の耐用年数が尽きかけているとしたら、一体どうすればよいのだろうか。特効薬があるとも思えないが、大塚の答えは「近代文学をやり直せばよい」というものであり、「不良債権としての文学の復権」というおそろしく真っ当な答えである。吉川宏志『風景と実感』は静かな語り口に終始して、声高な主張を響かせることはないものの、短歌における「実感」(リアリティー)の問題を「風景」というキーワードを通して丹念に考察することで、短歌言語の陥っている酸欠状態に対して、身体感覚の復権という処方箋を間接的に提示していると見なすこともできる。
 近代短歌を成立させてきた「場」を仮に「外部」と呼び直すと、大辻が指摘したように近代主義的な歌の読みを支えてきたのは外部に想定される言語主体としての作者である。私たちは「出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ」という中城ふみ子の歌を読むとき、夫に離婚され後に乳癌で亡くなった中城ふみ子という作者像を抜きにしては読むことができない。周知のように、この「短歌の〈私〉=作者」という私小説的かつ短絡的な同一視に敢然と疑義を呈したのは、家族について虚構を塗り重ねた寺山修司であり、架空の兄たちと妹を詠った平井弘である。この意味で「私像」を主題とする大辻の文章から、前衛短歌についての考察がすっぽり抜けているのは不思議という他はない。
 前衛短歌が自然主義的〈私〉を排して、短歌における〈私〉の拡大を図ったことはよく知られている。短歌の読みが「作者=〈私〉」へと還元されることを避けるために消去されたのが〈視点〉であり、多用されたのが硬質の「喩」なのだが、前衛短歌の手法は近代短歌の「作者=〈私〉」が成立する「場」を峻拒することで、新たな「外部」を生みだしたと言えないだろうか。それは「これほどまでに言葉の魔術を駆使する作者」という外部であり、例えば塚本邦雄の場合なら「たぐいまれな美意識の体現者」としての作者像である。この意味で穂村弘が『短歌の友人』のなかで、塚本邦雄の短歌の特徴を「言葉のモノ化」と規定したのはおもしろい点を付いていると思う。モノ化された言葉は、言語本来の指示機能に基づいて外界(=風景) を指示することなく、所有者を指し示すアイテムとして働くからである。
 歌の「外部」の空洞化に対処し、歌の読みの統一性を支える方法がもうひとつある。それは作者の「キャラ化」である。ここで言う「キャラ化」とは、作者本来の実像とは異なる人物像、もしくは作者の実像をはなはだしく誇張した人物像を意図的に演じて露出することである。この道を驀進しているのが念力短歌の笹公人であることに異論はないだろう。
シャンプーの髪をアトムにする弟 十万馬力で宿題は明日 『念力家族』
すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言
 笹がNHKのTV番組にレーザーラモンHGの扮装で登場した時は目が点になったが、笹は単なるおちゃらけでやっているのではなく、自分の短歌を支える「外部」が必要だと認識して意図的に振る舞っているのだと思う。そして笹が傾倒する歌人が寺山修司であることは決して偶然ではない。
 「キャラ化」の自覚が本人にあるのかどうかは別として、穂村弘も同じ道を歩いているように見える。『短歌の友人』に収録された分析的な歌論と、『現実入門』『世界音痴』などのエッセーの落差は頭がクラクラするほどだが、穂村がエッセーで描いている、どうしても現実に馴染めず、「今のみじめさに耐えている」人物像は、穂村の短歌を外部から支える「キャラ」として十分に機能する。
バリウムを飲むのはこれが9回目ひとを殴ったことは0回
手が汚れてるからなるべくへたんとこもってぶしゅんと食うプチトマト
           「卓球女子の夜」『短歌研究』 2006年7月号
そして穂村が塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて短歌を作り始めたことはまぎれもない事実であり、穂村がエッセーで執拗に描くダメ人間として〈私〉は、ある意味で「負の魔王」にも見えてくるのである。
 藤原龍一郎の「ギミック」も同じ文脈で考えることができるかもしれない。「日常生活に疲れた中年サラリーマンの短歌と、都市生活者の憂愁と倦怠を漂わせつつラジオという虚のメディアの前線に生きるディレクターの詠む短歌、読者としてみたならば、どちらにより読みたいという強い欲求を感じるだろうか」(『短歌の引力』)と述べる藤原は、ギミックを「表現される『私』をきわだたせるためのからくりでありくふうであり仕掛けなのである」と規定し、その活用を公言している。
ドトールを出てPRONTOに遭遇し静かなる包囲進みゆくごとし
地下鉄の後方車輌に身を置きて思想死という死語ぞ愉しき
         「赤い鰊のある食卓」『短歌研究』 2007年4月号
 このように空洞化した歌の「外部」を何かで埋めることで歌の読みを支えようとする笹・穂村・藤原の方向性は、おおまかには前衛短歌の切り開いた道の延長線上にあると見ることができる。しかしここでもう一度大塚英志の『物語消滅論』に戻ると、大塚は「私」と書くことでその背後に一人称の私が保証されていた文体が機能しなくなったとき、〈私〉は必然的にキャラクター化せざるをえないと論じているのである。「私」という一人称代名詞が、時間軸と空間軸の結節点に立脚する統一的〈私〉を指示しなくなったとき、〈私〉は繋留点を失って漂流し始め、可能なたくさんの〈私〉と交換可能になるからである。もしそうだとすると、程度の差はあれ笹・穂村・藤原に見られる作者の「キャラ化」は、背後のただ一人の〈私〉へと収斂する近代主義的言語体制がもはや機能不全に陥っていることの何よりの証左であり、この機能不全に対処するために講じられたささなかな対抗策だということになる。
 大辻が『子規への溯行』に収録された文章のなかで、今から16~7年前に提起した問題は、今日性を失うどころかますます真剣に考えるべき問題になっているのである。

092:2005年2月 第4週 大辻隆弘
または、存在の真実に向かって測鉛を垂らす短歌

蘭鋳のただれたる頭(ず)をつくりつつ
      人智は暗くふかく熟れゆく

            大辻隆弘『デプス』
 私はふだん歌集を読むときには、気に入った歌に付箋を貼りながら、メモ用紙にキーワードを箇条書きに書き付けていく。巻を置いて「さて批評を書こう」と机の前に座ったときには、メモ用紙にはかなりのキーワードが書かれている。それらを関係の縒り糸で綴り合わせ膨らませて展開すれば批評が出来上がる。歌集を読み終わってから「さて、何を書こうか」と腕組みして考えあぐねることはめったにない。しかし今回、大辻隆弘の第一歌集『水廊』、第二歌集『ルーノ』(抄)をセレクション歌人シリーズで読み終えたときには、途方に暮れてしまった。付箋はけっこう貼られているのだが、メモ用紙がほとんど白紙である。ところが第四歌集『デプス』を読み進めて行くうちに、眼前の靄が晴れて行くように、大辻のめざす短歌の世界が私の腑に落ちた。ということはいささか独断的に判断すると、歌集という全体から一首だけ取り出して大辻の短歌を論じるのはとても困難だということを意味する。これは一首の自立性が低いということではない。大辻の作る短歌が存在の真実へと静かに少しずつにじり寄って行く歌だからである。その歩みが蝸牛のごときミリメートル単位であるため、移動していることになかなか気づかない。ところが歌集を何冊か通読すると、出発点と現在地点とのあいだに、思いがけない距離が開いていることに驚くのである。

 大辻隆弘は1960年(昭和35年)生まれで「未来」会員、「レ・パピエ・シアン」同人。第一歌集『水廊』(1989年)、第二歌集『ルーノ』(1993年)、第三歌集『抱擁韻』(1998年、現代歌人集会賞)、第四歌集『デプス』(2002年、寺山修司短歌賞)と、4・5年の間隔で着実に歌集を世に問うている実力派である。

 先に大辻の短歌の特質を、「存在の真実へと少しずつにじり寄って行く歌」と表現した。大辻の属する「未来」は、近藤芳美らにより創刊された歌誌で、もともと「アララギ」系である。大辻は「未来」の本流に位置していると言ってよく、写生を基本とする近代短歌の作歌法に則りつつ、岡井隆の影響も色濃く受けている。それは例えば次のような歌の造りに見てとれる。

 指からめあふとき風の谿(たに)は見ゆ ひざのちからを抜いてごらんよ 『水廊』

 朝霧の縁(へり)ほどけゆく空は見ゆ冷えたる椅子を窓に移すとき 『抱擁韻』

 大辻は『岡井隆集』(現代短歌文庫)収録の「アララギ的文体というボディー」という文章のなかで、「常磐線わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして」(『斉唱』)のように、三句目に「見ゆ」で句切れがある歌が岡井に多く見られることを指摘し、アララギ文体にすでに見られた語法を岡井が象徴的表現を支える枠組みとして発展させたものだとしている。上に引用した歌に見られるように、大辻はこのようなアララギから岡井への流れを咀嚼吸収し、その上に自分の短歌文体を築いていることがわかる。大辻の短歌文体の骨格がしっかりしているのはこのためである。ちなみにこの「見ゆ」については、内藤明が『雁』54号に「『見ゆ』考」を書いて子規から大辻へと至る主体意識の変容を指摘しているが、ここでは深入りは避けておこう。

 第一歌集『水廊』からいくつか歌を引用してみよう。 

 癒えゆくにあらねど冬のひかり降る埠頭にこころあそばせてゐつ

 みづぎはに立つみづどりの息の緒のかぼそくあはく日々を継ぎつつ

 朝あさにわがくぐりゆく花かげの手足透きくるまでに青きを

 朱夏、麦に揺るるひかりを「存在の肌理(きめ)」としメルロ・ポンティー言ひき

 青銅のトルソのやうな君を置くうつつの右に夢のひだりに

 鱗粉によごれたる掌(て)をかざすときわがものとして昏るる地平は

 あけがたのみぎはの雨に濡れながら反る脊梁のごとき橋越ゆ

 一読してわかるように、意味を優先して短歌文体を撓めることがなく、歌のしらべが明らかである。例えば最後の歌の「あけがたのみぎはの雨」の「ア」音の連続による柔らかな聴覚印象から一転して、下句「反る脊梁のごとき」の [s] の摩擦音と「ごとき」の破裂音 [g] [t] [k] の硬質な印象へと転じる渡り方が、上句の心情と下句の行為との対比に音的に呼応しているのが鮮やかである。

 『デプス』に「さういへば光ばかりを歌つてゐたうそさむい三十代の日々(じつじつ)」という過去を回想する歌があるが、『水廊』には確かに水と光を詠った歌が多い。青春の日々の心の揺らぎを仮託する対象として、水と光の移ろいやすさと透明感は多くの歌人を惹きつけるのであり、大辻も例外ではない。そんななかで注目されるのは、上にあげた4首目の歌である。現象学の哲学者メルロ・ポンティーは『眼と精神』のなかで、芸術作品の分析を通して視覚と存在の関係を考察して美しい文章を書いた。「世界内存在」として世界に埋め込まれた主体にとって、自己の周囲に世界を立ち上げんとすれば身体特に視覚がいかに重要かをメルロ・ポンティーは説く。メルロ・ポンティーが使った「存在の肌理(きめ)」という言葉は、感覚で捉えられる微細な眼前の現実を経路として存在の真実に迫ろうとする大辻の短歌の方法と通底する。大辻は「レ・パピエ・シアン」60号に、「眼と精神」と題する連作を寄稿していることからもそれは知れる。

 しかし『水廊』の読後印象は清新ながら淡い。歌に詠まれた景物は不安定に揺れ動く青春の心象の喩であり、そこから立ち上がる世界は〈私〉の心象を通して濾過されたものとなっている。印象としては「内向の世代」の肌触りに近いものがある。しかし第二歌集『ルーノ』、第三歌集『抱擁韻』と読み進むと、この印象は少しずつ変化する。

 おびえつつ目をひらく時やはらかに立ちくるものを世界と呼べり  『ルーノ』

 暁闇(あけやみ)に朴ひらく朝、立ちふるへつつ眼の奥の村ソンミ見ゆ

 イ・リ・ア〈そこにあること〉つひに寂しきをこの熟れ梨は余る、わが掌に

 神は細部に宿る たとへばこの朝の卓の襞にひそむ翳りは  『抱擁韻』

 雪の香をかすかに帯びて闇ありぬ春の配電盤を開けば

 七月のひかりに撓むわが視野を風に押されてゆく乳母車

 大辻の歌における視覚の優位は疑うべくもないが、初期の歌に見られる〈私〉の心象を通して濾過された世界から、〈私〉を観測定点として実在世界へと眼差しを這わせるスタンスへと変化している。三首目のイ・リ・ア (il y a) は英語の there is (are) に相当するフランス語の存在述語であり、メルロ・ポンティーが身体を原点として歪む現象学的世界を構想したように、大辻は〈私〉を定点として存在の深みに測鉛を垂らそうとしているようだ。歌に詠まれた物象はもはや心象の喩ではなく、セザンヌの絵画に描かれた洋梨のように「そこにある」という実在性を色濃く帯びている。このような歌が私は特に好きだ。

 そして第四歌集『デプス』である。

 雨のあとの瀝青を踏む自転車のタイヤの音がかすか粘みて

 鳩たちの影はこゑなくあそびをり雨水の朝の駅のはたてに

 あかしあのむかうに見ゆる教室にひとつの椅子を置きかふる音

 薄らなるハムひとひらを剥がしゐつ暗くつやめく肉の部位より

 歌に詠まれているのは、雨後のタール舗装がかすかに粘る音、鳩が音も立てずに遊ぶ風景、遠くの教室で椅子を置き換える音、一枚剥がしたハムの色と、普段は気づかずに見過ごしてしまうような無意味な事象である。それを目撃した〈私〉の心情は書き込まれていない。だからこれは何の喩でもない。ではこのような歌が近代短歌のめざした「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斉藤茂吉)ことを信条とする写生歌かというと、そうではない。大辻も多くの若い歌人と同様に、近代短歌がめざした「自然・自己一元」という合一感をもはや信じてはいまい。上の歌に詠まれたどうでもいいような事象のザハリッヒな即物性は、まさに「存在の肌理」なのであり、大辻の垂らした測鉛に触れた世界の〈手触り〉以外の何ものでもない。このような歌が大辻の真骨頂ではないだろうか。

 大辻の視線は画家が凝視する即物的世界を時に通過して、歴史という名の時間が流れ、国家という名の線引きがなされた人文的世界にも注がれる。物としての事象の上空を通過するこの抛物的視線は、『デプス』以前にはあまり見られなかったものである。そのとき大辻の歌には即物的世界を詠むときにはなかった〈苦さ〉が色濃く滲み出ていることに注意しよう。

 包帯を巻きゐしか否かおぼろにて川上慶子の垂らしし右手

 などかくは言葉は熟れて美しく くりすたるなはと、くめーるるーじゅ

 韻を踏む言葉はつねに国家とふ緋のあやかしを鼓舞しつつ朽つ

 箸先に卵の黄身がからむ朝またソマリアが選び出されて

 川上慶子は1985年8月に御巣鷹山に墜落した日航機事故の奇跡的生存者である。このような大事件にも神の宿る細部はあると大辻は言いたいのだろう。ちなみにヘリコプターでの救出時に、川上慶子の垂らした右手には確かに包帯が巻かれていた。「くりすたるなはと」(水晶の夜)は1938年11月9日に起きたナチスによるユダヤ人迫害事件。「くめーるるーじゅ」(赤いクメール)はカンボジア左翼勢力の総称で、民族虐殺を行なったポルポト派はその一派。民族の悲惨に関わる単語の響きがかくも美しいことに、大辻は戦いているのだ。それは言葉の底に蟠居する原罪のように重く響く。「韻を踏む言葉」はもちろん和歌・短歌のことで、短歌と国家(天皇制)のあいだの屈折した関係を歌人は避けて通れない。このような世界詠の延長上に「紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき」という話題になった一首があるが、ここではこの歌について論じるつもりはない。

 最後に次の歌をあげておこう。

 「つまり主体の存在が……」だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ

 これは大辻が短歌形式で表現した歌論だと言ってよい。大辻は主体である〈私〉が短歌を表現形式として自己を表現するという短歌観を否定する。歌うのは短歌定型という形式であり、〈私〉は逆に定型が歌う場に過ぎない。これは「どんな小さなことでもいい、なにかしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種となって歌は生まれてくる」(俵万智『短歌をよむ』)という素朴な実感主義が無邪気に前提としている〈私〉の位相とはずいぶん異なる。短歌を自己表現の手段と見なす若い歌人が多い現代では、大辻の主張は時代の流れに逆行する保守的なものと映るかもしれない。しかし大辻は短歌の歴史性を踏まえて定型の持つ意味について真摯に自らに問うている数少ない歌人の一人である。その言は重く受け止めるべきだろう。