第312回 山下翔『温泉』

檀弓まゆみ咲くさつきのそらゆふりいづる母のこゑわれにふるへてゐたり

山下翔『温泉』

 山下翔は1990年(平成2年)生まれで、2007年頃から作歌を始めたという。17歳だからまだ高校生か。九州大学理学部に入学後、しばらくしてから短歌に力を入れるようになり、九州大学短歌会を創設して代表になる。第一歌集『温泉』に収録された50首の連作「温泉」は、『九大短歌』第4号 (2006年) に掲載されている。他の会員が10首や20首の出詠の中で、50首の連作は異例である。早くから連作を構成する技量を持っていたことがうかがえる。山下が注目されたのは、現代短歌社賞で二度にわたって次席になったことによる。第1回目のタイトルは「湯」、第2回目が「温泉」であった。選考委員だった外塚喬は、「二十代の若者ならもう少しかっこいいタイトルを付けてもよいだろうと思った」と栞文に書いている。

 『温泉』は2018年に現代短歌社から上梓された第一歌集である。栞文は島田幸典、花山周子と外塚喬。本歌集は第44回現代歌人集会賞、第63回現代歌人協会賞、福岡市文学賞を受賞している。現在「やまなみ」所属。

 瀬戸夏子は『はつなつみずうみ分光器』で山下を紹介する文章を「いぶし銀の新人の登場であった」と始めている。「現代短歌ではなく、近代短歌の継承者が突然姿を現した」、「とにかくいい意味でいまどきの若者らしくない」と続けて、「大物だ」と締めくくっている。どうやら、いまどきの若者らしくない近代短歌というのがキーワードのようだ。さてその作風はというと、なかなかに個性的で確かにおおかたの現代の若手歌人の短歌とはひと味ちがうのである。

店灯りのやうに色づく枇杷の実の、ここも誰かのふるさとである

厚切りのベーコンよりもこのキャベツ、甘藍キャベツ愛しゑサンドイッチに

そんなに握りつぶしてどうするまた展く惣菜パンの袋であるに

みりん甘くて泣きたくなつた銀鱈の皮をゆつくり噛む夏の夜

食べをへた西瓜の皮のうつすらと赤みがかつて夕空かるし

 一首目、熟れた枇杷の実の橙色が飲み屋街の店の灯りのようだと述べる韻律のよい上句は突然分断され、下句はつぶやくような口語の感慨へと転じている。この転調は山下の得意技である。二首目はキャベツとベーコンを挟んだサンドイッチの歌で、後でも述べるが山下には飲食の歌が多い。山下はよほどキャベツが好きなのか、キャベツの歌が他にもある。この歌では特に統辞の工夫に注目したい。三句目で体言止めして、「甘藍愛しゑ」といったん感慨し、最後にサンドイッチという正体を明かす。この出し方に工夫がある。三首目は口語脈で独り言のような歌で、惣菜パンを入れた袋を強く握りすぎているという瑣事を詠む脱力系である。こういうとぼけた味わいの歌も多い。四首目は男一人の飲食の歌に侘しさが漂う。侘しさは短歌によく似合う。高額の宝くじに当選したという短歌は見たことがない。五首目は三句目までが「赤み」を導く序詞のように作られていて、山下はこのような技法を好んでいるようだ。次のような歌もある。

朝食のふぐのひらきのしろたへのウエディングスーツきみも着るのか

 栞文で島田幸典は「この歌集で最も輪郭濃く描かれた登場人物は、お母さんである」と述べている。確かに島田の言うように、本歌集には両親を詠んだ歌、とりわけ母親を詠んだ歌が多くあり味わいが深い。

母がまだ煙草を吸つてゐるとしてやめようよなんて言つてはいけない

母の日を過ぎてそろそろ誕生日の母をおもへど誕生日知らず

母の通ひ詰めたるパチンコ店三つひとつもあらずふるさと日暮れ

四十代さいごの年を生きてゐむ母にさいはひあるならばあれ

会はないでゐるうちに次は太りたる母かもしれず 声を思へり

 歌に描かれた母は、パチンコ屋に通い煙草を吸うというなかなか豪快な女性である。これらの歌にとりわけ味わいがあるのは、何か事情があって母親は作者と離れて暮らしているからである。「母にかはつてとほくから来るバスを見きつぎつぎに行き先を母へ伝ふる」という幸福な子供時代を回想する歌もあり、母親は作者にとって記憶の中に生きている思慕の対象であるようだ。

 記憶があやふやだが、永井祐の作る短歌は舞台が東京でないと成立しないと山田航がどこかで書いていた。それはひょっとしたら西田政史の『ストロベリー・カレンダー』(1993年)あたりからはっきりした傾向となって、現在まで続いているのかもしれない。無機質で風土性の欠如した都市空間は様々なものを漂白して提示する。どこまでも続くユークリッド空間のように凹凸と陰翳がない。しかし山下の歌には強い風土性が感じられ、これも現代の若手歌人にはあまり見られない特色となっている。

この墓がどこに通じる友人の精霊しやうろう流しの手伝ひに来て

新盆の家をまはると細き路地に船押す人と曳く人とあり

母がしてゐたやうに花買ひ水を買ひ生家の墓へと坂をのぼりつ

鬼灯を今年は買つてまぜてみる墓に冷たく祖父が来てゐる

ふるさとに見過ごすもののおほきゆゑ今年は咲いて百日紅あり

 お盆に故郷で墓参りをする光景が描かれていて、九州なので精霊流しの船もある。生家の近くには先祖の墓があり祖父も眠っている。私の世代ならごく普通の景色だが、現代の都市に暮らす若い人たちには「日本昔ばなし」の世界だろう。こういうところにも山下が近代短歌の血脈を継ぐと言われる理由があるのかもしれない。

 先にも書いたように本歌集には飲食の歌が多く、どれもおもしろい。

それでキャベツを齧つて待つた。焼き鳥は一本一本くるから好きだ

戻り鰹のたたきの下のつましなれば玉ねぎのうすらうすら甘かり

円卓をまはせばここに戻りくる あと一人分の酢豚をさらふ

ざく切りのキャベツちり敷く受け皿にまづバラが来てズリ、皮、つくね 

ほの甘いつゆにおどろくわが舌がうどんのやはきにもおどろきぬ

 どの歌もいかにもおいしそうに詠まれていて、作者にとって飲食が楽しみであることが伝わってくる。四首目は焼き鳥の歌だが、「回転の方向はそれ左回り穴子来て鮪来てイカ来て穴子」という小池光の回転寿司の歌を想起させる。「つましなれば」をさらりと潜ませるなどなかなかの腕だ。このような飲食の歌もまた、近代短歌に通じるところがある。よく知られているように、斎藤茂吉もまた食べることに人一倍執着があり、大好物は鰻だったというのは有名な話である。

ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも

ゆふぐれし机のまへにひとり居りて鰻を食ふは樂しかりけり

 山下は本歌集の巻頭に、「山道をゆけばなつかし眞夏まなつさへつめたき谷の道はなつかし」という斎藤茂吉の『つゆしも』の歌を引いているくらいだから、茂吉の短歌世界に引かれているのだろう。『現代短歌』2021年9月号の「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」で山下は、最も影響を受けた一首として「たくさんの鉢をならべて花植ゑし人は世になし鉢ぞ残れる」という小池光の歌を挙げて、助詞の「ぞ」による係り結びにことに打たれると書いている。いまどきこんなことを書く若手歌人は他にはいない。

 本歌集で特に印象に残った歌を挙げておこう。

 

はつなつのものみな影を落としゐる真昼もつともわが影が濃し

橋ひとつ渡りをへたるかなしみは朝、後ろから抜けていく風

前に出す脚が地面につくまへの、ふるはせながら人ら歩めり

追ふともう二度と会へなくなるんだよとほく原付のミラーひかつて

ほとんど平らな橋の広さを見下ろせば雪のゆふぐれに人は行き交ふ

思ひ出すだけならあなたは死者になる冬の終はりの長い長い雨

真中なるもつとも長きひと切れのロースカツ食べつ春はさみしよ

スケートボード足に吸はせて跳ね上がる六月はじめの空あかるくて

たれの死にもたちあふことのないやうなうすい予感に体浮くことあり

 

 『温泉』のモノトーンの表紙は良く言えば渋く、悪く言えば地味だ。中の紙も上質紙ではなく、わざとざらつきの多い粗悪な感じの紙を使っていて、装幀にもポリシーが感じられる。瀬戸夏子は目を懲らして見ると、表紙には斎藤茂吉の写真がシルエットになっていると書いているが、私はいくら目を懲らしても見えなかった。目が悪いのだろうか、確かに老眼ではあるけれど。山下は第二歌集『meal』を準備中だという。タイトルから想像するに、全篇飲食の歌だろうかとも思うが、まさかそんなことはあるまい。

 蛇足ながら山下は九大短歌会の代表を辞していて、後任は石井大成だという。石井はいくつかの短歌賞で佳作・次席になり、「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」にも取り上げられているので少し引いておこう。

はたはたとティッシュ舞う夏の洗濯よ不在は在の、あなたの影だ

雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月

気持ちはもう思い出せずにただ白い箱が窓辺で日を浴びている