仰がるるところ木蓮咲くゆゑにひかりを負ひて花暗みたり
岩岡詩帆『蔦の抒べ方』
木蓮は早春の時期に咲く花である。白木蓮の方が早く開花し、紫木蓮はやや遅れて咲く。それほど高木ではないが、見上げる位置に花をつける。だから「仰がるるところ」なのだ。この助動詞「る」の意味は自発だろう。「おのずから仰ぎ見る」というほどの意味である。「ゆゑに」は因果関係を表すので、詩歌では嫌われる。因果は理知に属するからである。しかし短歌ではそれほどではなく、掲出歌では上句と下句とをうまく橋渡ししている。上句は「木蓮の花はやや見上げる位置に咲く」という一般論、もしくは百科事典的知識を述べている。そこに〈私〉はない。一方、「それゆえに」と続く下句は観察であり写生である。歌の中の〈私〉は逆光で花を見ている。日光が花の背後から差しているので、白いはずの花が暗く見えるのだ。この的確な描写によって、木蓮の花と歌の中の〈私〉との位置関係が明確に叙せられる。このように現実を理知的に把握し、それを歌に書き下ろす作風が作者の持ち味なのだ。また自然とともに歩む落ち着いた歩調も好ましい。
最近、拙宅に届けられた歌集の中に注目すべきものがいくつかあったので、順次取り上げてゆきたい。今回は岩岡詩帆『蔦の抒べ方』である。作者の岩岡は未来短歌会に所属。2013年に未来年間賞を受けている。病床にあった岡井隆に師事することを許されたとあとがきにあるので、岡井の最後の弟子ということになろう。巻末のプロフィールに生年が記されていないが、文語(古語)を駆使し、難解語を多く使っているので、それなりの年齢の方とお見受けする。歌集を読みつつ辞書を引くことが何度もあった。本歌集には、石川美南、さいとうなおこ、山田富士郎が栞文を寄せている。歌集題名は「うつくしき書体のやうに罅に添ふ蔦には蔦の抒べ方のある」から採られている。
歌集巻頭あたりからいくつか歌を引いてみよう。
日を追ひて満ちゆく月は重からむしづかにけふの手秤に載す
ほのしろく枇杷は咲きたり僧院の出入りわづかにふゆるこの頃
畝におく夜明けの霜のうすあおく火よりしづけく灼くもののあり
寒林を近づくひとの珈琲の湯気たなびけり神さびながら
抜きさりし本の厚みに薄闇のととのひてゐて寒の図書館
一首目、新月から満月に向かって満ちる月は、まるで太ってゆくようで身体が重かろうと想像を巡らす。そんな月を手のひらに載せて支えてあげる仕草をする。上手いのは「けふの」だ。この一語によって〈私〉が生きる〈今〉という時間か現出する。二首目、枇杷の花は晩秋から冬にかけて開花する。この歌集にはキリスト教に関連する歌がいくつかあるので、僧院はおそらくキリスト教のものだろう。枇杷の開花という自然の営みと、僧院への訪れという人の営みとがゆるやかに結びつけられている。三首目、夜明け、田の畝に霜が降りている。それがガスの炎のように薄青く見えて、まるで畝を焼いているかのようだという歌。四首目、寒林は冬枯れの林という意味だが、その昔、インドの王宮近くにあった死体を捨てる林という意味もあり、転じて墓地を指すこともある。そこに手にコーヒーを持った人が現れるのだが、その様が神々しいという歌。五首目、〈私〉は図書館の書庫にいるのだが、誰かが借りたのか、本が一冊書架から抜き取られていて、その虚空間が薄闇をいっそう際立たせている。
端正な文語定型で、言葉の斡旋をとっても句の連接をとっても、間然とするところがない。このレベルの歌がずらりと並んでいる歌集は滅多に見られるものではない。また特筆すべきは歌の季節感である。上の五首は「天体の庭」と題された連作から引いたのだが、歌の季節は冬で統一されている。後に続く連作は春・夏・秋の順に配されていて、最後はまた冬が巡って来るという構成である。あたかも古典の和歌集の部立にならったかのごとくである。
一巻を通読して気づくのは、ほとんどが自然を詠んだ歌で、人事の歌がほとんどない。家族で登場するのは「寝返りてわがふところにゐる幼すべらかに夜は球体をなす」などの数首の歌に詠まれた子供にとどまる。どうやら作者の関心事は自然の移りゆきと、その一部として含まれる〈私〉にあるようだ。
とはいえ読み進むと次のような歌に出会ってはっと虚を突かれる思いがする。
やはらかくさざなみの彫るこの海にみづかねひそと流されをりき
漁れば食につながるかなしみの牡蠣殻曝れてうづたかきかな
しづけさに鳥帰る見ゆさきがけて戦はじめし国をさしつつ
花のさきに白き花ありいまもなほ硝煙とほくあがりつづけて
毀たれてぬかれし窓のひとつ見ゆ没陽のなかにイコンのやうに
一首目の「みづかね」は水銀のこと。チッソの流した有機水銀によって引き起こされた未曾有の公害水俣病を詠んだ歌である。二首目にあるごとく有明海は有数の漁場だ。三首目以下はロシアによるウクライナ侵攻に想いを馳せた歌。作者の態度は時事を歌に詠む際にも、直截に怒りなどの感情をぶつけるのではなく、いったん身の内に引き取って、心の中に湧き上がる言葉によって出来事を綴るというもののようだ。
栞文の中で石川は「歌のなかに『今・ここ』以外の空間を立ち上げるのが抜群にうまい」と評し、それと呼応するように山田は「幻想と書いたが、幻想から出発するのではなく、言語表現をていねいに錬磨してゆく過程で自然に生まれてくるもののように思える」と述べている。また石川は「岩岡作品においては、しばしばこのような喩と実景の反転が起きる」とも書いている。二人とも「幻想」「異界」と「喩」との関係に着目しているのだ。少し見てみよう。
みづからの息の白さのなかにをり物語よりはぐれて鹿は
うす青き窓に来てをりクラバートその表紙絵のごとき鴉が
しづかなる春の海退ありしかにけふ花びらの嵩は見えざり
とほき世に蹴られし鞠も越えて来よ山吹咲きてあかるめる里
散文を読みすすみゆくしばらくは冬の灌木帯のあかるさ
一首目、白く息を吐く鹿はまるで物語の中から出て来たかのように森のはずれに佇んでいる。「物語よりはぐれて」が喩で、白い息を吐く鹿が実景なのだが、両者は融合しているかのようである。二首目のクラバートはオフリート・プロイスラーのファンタジーの主人公で、表紙絵では人面の鴉として描かれている。「クラバートその表紙絵のごとき」が喩なのだが、この一首を読む人の脳裡にはクラバートの表紙絵の方が強く浮かぶだろう。三首目、「しづかなる春の海退ありしかに」が喩。海退とは海進の反対語で、地面の隆起などによって汀が遠ざかること。実景としては桜が散り、昨日まで見えていた一面の花が見えないということ描いているのだが、実景が不在だけに喩の印象が強まる。四首目の実景は山吹の咲く春の里だが、その昔に王朝人によって蹴られた鞠が時空を超えて来るという想像の方が歌の中で重さがある。五首目にも同様のことが言えて、実景の読書の有様は描かれていないため、灌木帯を進むような明るさという喩の方にハイライトが当たる。このように岩岡の作る短歌世界では、喩は単に歌の主意を際立たせるための修辞という役割を超えて、歌の実景と同じ比重で機能しているように思われる。
この湖を空としあふぐひともゐむ冥府あかるむ四月は来たり
黒揚羽あふられゆける八月の、光にかげとルビを打ちたり
水無月の尽の坂を上りゆくとほき山河のみづを購ひきて
ゆつくりと息つくときにしづみゆく鎖骨しづかに夜の底ひまで
十薬を目路のかぎりに置きて去る五月の挙措のうつくしきかな
貝殻にヤコブ掬ひしみづうすき五月よわれもかすか渇して
特に印象に残った歌からいくつか引いた。一首目の湖を空として仰ぐ人は、おそらくこの湖で溺死した人だろう。二首目の読点がなければ「八月の光」と繋がるはずだが、作者は「八月の」でひと呼吸置いて、「の」を間投助詞にしたかったのだろう。三首目はコンビニで南アルプスの水というミネラルウォーターを買って坂を登る場面を詠んでいるのだが、それをかくも典雅に描くとは言葉の魔術である。六首目のヤコブの貝殻とは、聖ヤコブが帆立貝の貝殻で水をすくったという言い伝えから。フランス語では帆立貝を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques)と呼ぶ。
私が感服したのは次の歌である。
水差しの夜半は二重におく影のあはきひとつを指になぞりぬ
ほんとうに影が二重になるものか実験してみた。硝子の水差しに水を入れ、部屋を暗くしてひとつの光源で照らしてみる。すると水が凸レンズのはたらきをするためか、影の中央に明るい部分ができる。どうもこれではないようだ。すると光源がふたつあって、ふたつの影が重なる部分が濃くなるということか。いずれにせよ作者が現実を知的に把握する様をよく表している歌である。
ほそき火をさらに細うす 冬瓜を煮てをり神の時間のなかに
筋道の美しき葉脈透けながらイザヤの書には桑の木のこと
声ひたにキリエをうたふ重なりは翅脈のやうに枝をひろげつつ
油を足して均せる生地に陽のぬくみカナンしづかにいまだあるべし
丸椅子にかけて夕餉を待つイエスあかがね色の鍋のとなりに
集中にはキリスト教につながる歌が散見される。作者はキリスト者ではないにせよ、キリスト教に親和性を持つ人なのだろう。そんな人にとっては移りゆく季節の時間は神の時間なのだ。歌を読んでいて狭小な〈私〉を超えるものへのまなざしを感じるのはそのためかもしれない。