第383回 川野芽生『星の嵌め殺し』

死神の指先はつね清くしてサラダに散らす薔薇の花びら

川野芽生『星の嵌め殺し』 

 第一歌集『Lilith』で第65回現代歌人協会賞を受賞した川野芽生の第二歌集『星の嵌め殺し』が出版された。版元は河出書房新社で、装幀は花山周子である。『Lilith』の装幀はモダンデザインだったが、今回はレース模様とラメを散らした紫色の花模様という古典的な意匠だ。花山は睦月都の『Dance with the invisibles』でもクラシックな装幀が注目されたが、本歌集の装幀はロリータファッションを好むという川野によく合っている。

 本歌集は、第1部「鏡と神々、銀狼と春雷」、第2部「航行と葬送」、第3部「繻子と修羅、薔薇と綺羅」の3部からなる。巻末の初出一覧を見ると、特に編年体というわけではなく、内容を考えて再構成したものと思われる。各部のタイトルにも作者の言葉フェチが現れている。「かがみとかみがみ」の言葉遊び、「こうこうとそうそう」も韻を踏み、「しゅすとしゅら、ばらときら」では頭韻と脚韻が組み合わされている。

 第1部の冒頭部分から何首か引いてみよう。

凍星よわれは怒りを冠に鏤めてこの曠野をあゆむ

交配を望まざりしに花といふつめたき顔を吊るす蘭たち

神父、まひるの野を歩みをり聖痕ゆ菫のせる血を流しつつ

産むことのなき軀より血を流し見下ろすはつなつの船着き場

魔女を狩れ、とふ声たかくひくくしてわが手につつむ錫の杯

 『ねむらない樹』第7号(2021年)の川野芽生特集に発表された「燃ゆるものは」の一連である。これらの歌に籠められた感情は紛れもなく一首目にある怒りだろう。男性中心社会への怒りである。2018年の第29回歌壇賞の受賞のことばに川野は次のように書いている。

「わたしが失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、ことばや真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖なことばの世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のためのことばしか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで、何を読んでいたのでしょう。何を読まされていたのでしょう」(『歌壇』2018年2月号)

 受賞のことばとしては異色である。このような言葉にも現れている思いから、一首目のように川野は冠に怒りを鏤めて男性中心社会という曠野を昂然と歩くのである。二首目の蘭も女性というジェンダーの喩であり、子孫を残すための性という社会の規定への反発を表している。四首目が表現しているのは、自分は子供を産むことはないという決意とは無関係に月のものが訪れる違和だろう。五首目には自分が男性社会から魔女と呼ばれることも厭わないという強い思いが表されている。

 川野は「短歌以前に私が表現したい自分というものはない」とか「私は言葉のしもべ」などと繰り返し発言しているが、その言葉とは裏腹に、現代の若手歌人のなかでは珍しく、射程が深く重い主題を抱えた歌人だと言えよう。

天使の屍跨ぎて街へ出でゆけば花は破格の値で売られをり

罌粟の野のやうなおまへわたしの血の中で二匹の獣となつて駆けやう

オフィーリア、もう起きていい、死に続けることを望まれても、オフィーリア

みづうみを身に着けて歩みくるひとよ白鳥なりし日の澪曳きて

夕暮に庭沈みゆく 生き延びてわれらが淹るる黄金きん色のお茶

 三首目はラファエロ前派のジョン・エヴァレット・ミレーの絵に想を得た歌だろう。上に引いた歌に用いられているのは、現代の若手歌人が使う語彙とは異質な語彙である。川野はこのような硬質な語彙をどのような地層から汲み上げているのだろうか。

さやさやと秋めく夕の厨辺の油に放つ茄子の濃紺

          浅井美也子『つばさの折り目』

血の滲むレアステーキの舌鼓をしづめて酢漬けの青唐辛子

           佐藤元紀『かばん』2024年8月号

 どちらも映像のピントがしっかり合っている歌だ。一首目はいわゆる厨歌で、秋の台所で茄子を揚げている光景が詠まれている。二首目はレストランでの食事風景だろう。「厨辺」は短歌用語だが、それを除けばこれらの歌に用いられているのは日常の語彙である。歌の本意が写実であれ日々の想いであれ、近現代の短歌は日常の語彙を用いて製作するのが基本となっている。それは近現代短歌が作者の日常生活に接地していることが求められているからである。

清見潟まだ明けやらぬ関の戸をたがゆるせばか月のこゆらん 『宗祇集』

岸近く波寄る松の木の間より清見が関は月ぞもりくる 『為仲集』

 清見関は歌枕で、静岡県の三保の松原の近くにあったらしい。どちらも清見関と月を詠んでいて発想が似ている。古典和歌の作者たちがこのような語彙を汲み出すのは日常生活からではない。禁裏と貴族階級に属している人たちに広く共有されていた歌ことばの倉庫からである。明治時代の短歌革新によってこの倉庫は鍵を鎖され、使われなくなって久しい。

 しかしコトバ派の歌人は自らの歌が日常生活に接地することを望まない。歌はもっと高所を目指すべきだと考える。これが言葉の垂直性である。それではコトバ派の歌人はどこから語彙を汲み上げるのか。歴史や神話や空想や幻想からである。川野は東京大学大学院でファンタジー文学を研究する研究者なので、当然ながら言葉を汲む泉はファンタジーなのである。

罌粟の花踏み躙らるるたそがれの騎兵は馬に忘れられつつ

向日葵の花野のやうに死後はあり天使の手より落ちたる喇叭

求婚者をみなごろしにする少女らに嵐とは異界からの喝采

うつつとは夢の燃料 凍蝶のぼろぼろに枯木立よぎりぬ

 三首目の鏖にはルビが振られているが、ルビのない「ちりばめて」「踏みにぢらるる」「はなびら」などの字もあり、読むのに漢和辞典が必要だ。四首目は幻想派の信条を表す標語といってもよい歌である。このように川野が語彙を汲み上げる先が神話やファンタジーなので、ブキッシュ (bookish) な印象を与えることは否めない。

をさな子の辺獄なりや花の蜜満つる菜の花畠は薄暮

百合の花捨てたるのちの青磁器はピアノの絃のふるへ帯びつつ

水沫みなわの死視てゐたるのみ畿千度いくちたび波はわたしの足に縋れど

日のひかりかたぶくかたへ差し伸ぶる手に黄金きんいろの蜜柑のこりぬ

抽象の深みへやがて潜りゆく画家の習作に立つ硝子壜

 詠まれている素材は、一首目では夕暮の菜の花畑、二首目は活けてあった花を捨てた花瓶、三首目は足下に波が打ち寄せる波打ち際で、取り立てて特殊な素材ではないのだが、川野の手にかかるとまるでミダス王の手が触れたように幻想味を帯びる。四首目に至っては、夕方手にミカンを持っているだけなのに、黄金色のミカンは神話の果実のようである。五首目はイタリアの画家モランディを詠んだものかと思うがどうだろうか。

 最後に川野の覚悟をよく表す歌を引いておこう

魔女のため灯す七つの星あればゆけようつくしからぬ地上を

 川野は最近では文芸誌に散文作品を発表しており、『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)、『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房)などの小説や、『現代短歌』に連載していた評論を集めた『幻象録』(泥文庫)などもある。『Blue』では何と芥川賞候補になったと聞く。かつて大辻隆弘が「結局みんな散文に行ってしまうのか」と慨嘆したことがあったが、歌人という肩書きの価値をよく知っている川野はまさかそのようなことはないだろう。

 

第290回 川野芽生『Lilith』

眼とふ裸火ふたつかかげゆき炎昼はわが灼くべき羅馬

川野芽生『Lilith』

  音数から言って「眼」は「まなこ」と読む。眼が裸火のように爛爛と輝くのは、身の裡にいかなる暗い情熱、はたまた激しい衝動を蔵しているせいだろうか。時は盛夏の影ひとつなき真昼で、ヘリオスの駆る太陽はまさに天頂にある。歌の〈私〉は永遠の都ローマに火を放とうとしている。神話的設定の中に暗い情動を感じさせるこの歌は何かに触発されて生まれたものか。私はすぐに齋藤慎爾編『短歌殺人事件』に収録された皆川博子の「お七」という幻想的な掌編を連想した。その最後は次のように締めくくられている。

 娘は石のきざはしをのぼり、街をさまよう。濡れたからだのくれない芯が凍りつく寒さに、指を壁にこすり、火をつけた。

〈雪に籠もって拡がる火は、桜が霞んだやうである〉(泉鏡花)

羅馬の街を焼き滅ぼす炎を高殿より眺め、皇帝は完爾と笑んだ。

 2018年に歌壇賞を受賞した川野芽生が第一歌集を上梓した。書肆侃侃房から贈られて来たので、若手歌人の「新鋭歌人シリーズ」の一巻かと思ったが、さにあらず。堂々たる単独歌集である。栞文は水原紫苑、石川美南、佐藤弓生という豪華さで、いずれも期待の新人を世に送る言葉に満ちている。加えて帯文を寄せたのが、あの山尾悠子である。曰く、「叙情の品格、少女神の孤独」。これ以上の言葉はない。満を持しての船出ということだろう。

 川野芽生は1991年生まれ。解散した「本郷短歌会」で短歌を作り始め、その後「穀物」にも参加。現在、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻の博士課程で比較文学を研究する学徒である。主な研究対象はファンタジー文学のようだ。

 本歌集は三部で構成されている。第1部は anywhere、第2部はout of、第3部はthe worldと題されている。つなげると Anywhere out of the world.「この世の外ならばいずこへでも」となる。ボオドレエルの散文詩集『パリの憂愁』(Spleen de Paris)の中の一編の題名である。佐藤の解題によれば、第1部 anywhereは実景を通じて得た感興、第2部out ofは空想世界に託した自己像や思惟、第3部the worldは現実世界の困難を主に詠った歌ということだ。ちみなに川野は「本郷短歌」創刊号の座談会で、佐藤弓生の「anywhere out of the worldここでないどこかへ ….. 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール」という歌が好きだと発言しているので、本歌集の各部に付けたタイトルは佐藤の歌に触発されたものかもしれない。

 第3部に収録されている歌壇賞受賞作の「Lilith」と受賞の翌月に発表した「ラビスラズリ」は別の所で取り上げて論じたので、ここではそれ以外の歌を中心に見てゆこう。集中最も古いのは「本郷短歌」創刊号に発表した「凌霄花」である。

凌霄花のうぜんは少女に告げる街を捨て海へとむかふ日の到来を

網棚に載せれば視界より消える そのままいつかわすれる荷物

やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい

窓辺にて日焼けをしない手が剥いてゆく黄桃の皮の夕映え

指をふれあへば光のあふれ出す奇跡のやうにかはす手花火

海底うなそこがどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る

天球儀ほどの重さのをかかへ人が死なない日の昼下がり

 「頭」に「づ」というルビを振った以外は初出と同じである。六首目がやや口語的で新仮名になっている他は、ほぼ文語旧仮名である。いかにも川野らしい歌は一首目と七首目だろう。他の歌は現実とどこか踵を接しているが、この二首だけはそうではなく、現実から乖離した神話的な趣がある。先に触れた「本郷短歌」創刊号の座談会で川野は、「自分の中に表現したいものがあるんじゃなくて、言葉との出会いですよね。自分に理解できない言葉がやってきて、その言葉と自分がぶつかってみたいな」と述べている。「コトバ派歌人」の面目躍如というところだ。コトバを組み合わせることで脳髄が震えるような世界を創り上げるということだろう。

 ここでは歌人としての川野と言語の関係を考えてみたい。自分の中に言うべきことがある、もしくは自己表現の欲求があるとき、言語は自分の言いたいこと、表現したい自己を伝えるコミュニケーション機能を持つ。私はあなたに何かを伝えるのだから、私とあなたは横並びの関係にある。言語は私からあなたに水平に伝わる。これを「言語の水平性」と呼んでおこう。日常言語は概ね水平的であることを旨とする。

 しかしながら川野の短歌では言語は水平に機能していない。何か伝えたいことがあるわけではないからだ。では川野の歌の言語は何をしているかというと、言語によって創り出される美の極北、つまりは言語の絶巓を志向しているのである。美の極北は遥か彼方の天空の高み、成層圏の向こうにある。それはもはや神の領域である。高みを目指す言語はなべて垂直に立ち上がる。これが詩語の「垂直性」である。

はつなつの森をゆくときたれもみなみどりの彩色玻璃窗ステンド・グラスピース

海の画を見終へてひとは振り向きぬその海よりいま来たりしやうに

幾重もの瞼を順にひらきゆき薔薇が一個の眼となることを

炭酸水うつくし 魚やわたくしが棲むまでもなく泡を吐きゐる

今朝すべての金木犀はみひらきて久しかりしよ秋の百眼巨人アルゴス

 このような歌において想は現実の断片から得ようとも、歌の描く世界は現実から乖離している。川野の孤絶は明らかだろう。現在の短歌シーンにおいて、若手歌人の大方は口語でフラットな日常を詠むのが主流となっているからだ。そこには詩語の垂直性は微塵もない。川野のように言語を垂直軸に立ち上げて、自ら放った薪の火の中で身を焼かれようとする人は稀である。そこに川野の矜恃を見るべきだろう。

朝なさな燃えあがるアレクサンドリア図書館ありてわれらもその火

天上に竜ゆるりると老ゆる冬われらに白きいろくづは降る

片割れよ夢をみるたび夢にれ角や翼を得てわれを去る

珊瑚に尾を巻つけて海馬うみうまは憩へり水底の戦間期

転生のたびあをまさる空にして果ては黒白のいづれか知らぬ

 第2部 out ofから引いた。この章は現実を離れてファンタジーの世界に想像力を放つ歌が収録されている。竜やら双頭の馬やら人狼やケンタウロスが登場する。ファンタジー短歌というとすぐ頭に浮かぶのは井辻朱美である。

石積みよりあらわれてかたるとおき世の赤毛の蛮族 流れよロホラン 『コリオリの風』

魔物らのうすいまぶたの刺青(いれずみ)をさすりてかぜはデボン紀に吹く

暁新世ぎょうしんせいの岩棚にふるき尾を垂らし風にふかれていし異星人

 井辻がデボン紀やユラ紀や伝説の世界に自由に出入りして想像力を膨らませるのにたいして、同じファンタジーでも川野の歌にはどこかひりつくような痛みが感じられる。それはおそらくは「疎まれし少女時代を聖痕となしゐしに雲は日ごとに生(あ)れくる」に詠まれたような子供時代の孤独や、「蛇苺這はするごとき発疹と思へりひかり浴みて殖ゆるを」と詠まれた日光アレルギーのような環境に対する生理的敏感さに由来するものだろう。

ジョン・エヴァレット・ミレイの没年書き入れて死者ばかりこの稿を出入りす

  〈Edward Burne-Jones (St. George Slaying the Dragon〉

聖ゲオルギウスの目見まみのやはらぎよ刃を竜の口に差し入れ

うつくしいパルフェをくづし混沌の海よりひとが取りだすミント

地下書庫に体熱を奪はれながらひとは綴ぢ目の解けやすき本

ねむる――とはねむりに随きてゆく水尾みをとなること 今し水門を越ゆ

 

 一首目、ミレイはラファエル前派の画家で、入水して水に浮かぶオフェーリアの絵が有名だ。歌の〈私〉が言葉を通して交流するのは泉下の人ばかりである。二首目は詞書きにあるように、ラファエル前派の中心的画家のバーン・ジョーンズの絵である。ラファエル前派の展覧会に出かけたのだろうか。三首目のミソは、喫茶店で供されるパフェが、フランス語で「完璧な」を意味するparfait (バルフェ)に由来することにある。アイスクリームや果物やチョコレートを配した完璧なスイーツということだろう。その完璧なパフェを、混沌の神のごとくスプーンで崩してしまうのである。四首目、大学院生は図書館の書庫に入って自分で本を探すことができる。書庫はたいてい地下にあるので夏でもひんやりとしていて少し黴臭い。古い本は劣化していてばらばらになりやすいが、人も同じだと感じている。本歌集には眠りについての歌が多いが、五首目もそのひとつ。帯文を寄せた山尾悠子の「昏れゆく市街まちに鷹を放たば紅玉の夜の果てまで水脈みをたちのぼれ」という歌と遠く呼応するようでもある。

藍いろの馬立ちつくす手袋のひだりは姉がはめてゐる午後

ブラインドに切り裂かれつつ落つるとき冬日も長き睫毛伏せをり

うつつとは病めるまぼろし手をのべて瑪瑙をむまなづきへかへす

さくらばなといにしへ呼びし 瀝青のおもてに浮かびくる病斑を

はなびらは花にほぐれてゆくものをいめゆ取り零されし残月

曇天は雷に満つるを息とめてわが引く藍いろのアイライン

強ひられて嫁したるごとし をみなとしてこの世へいたるしきみ越へにし

 一首目は不思議な歌で、「藍いろの馬立ちつくす」が終止形で切れているのか、連体形で次に続くのかわからない。藍色の馬はこの世にいないので、連体形ならば馬の絵が描かれた手袋か。下句の収め方がうまい。二首目は描かれている情景が明らかだが、床に落ちる日光が「切り裂かれている」と感じるところに心の有り様が窺える。三首目は凝った歌で、瑪瑙の名が馬の脳に似ることから付けられたということを踏まえている。「うつつとは病めるまぼろし」とは醜悪なこの世を嫌い、天上世界を希求するプラトン主義者のモットーである。四首目の瀝青はコールタールのこと。旧訳聖書にも登場する古い物質である。桜の花びらがコールタール舗装の道路に点々と落ちている様を病斑と表現しているのもユニークだ。五首目も桜の花を詠んだもので、こちらは美しく残月と表現されている。六首目、川野が好きな色はどうやら青・紺・藍色のブルー系らしい。きりっと決意を感じさせる歌である。七首目は連作「Lilith」に続く歌。この世に女として生まれて来たのは、無理矢理嫁がされたようなものだというフェミニズム短歌である。

 歌壇賞の選考委員の一人だった水原紫苑は、候補作の「Lilith」に出会ったとき「私たちは息を呑んだ」、「受賞者の名前を知った時、私は驚喜した」と書いている。息を呑んだのは、自分たちに選ばれるのではなく、自分たちを打ちのめす新人を期待していたからであり、驚喜したのは川野が水原の歌を完膚なきまでに批判したことがあるからだという。水原の言を俟たずとも川野の才能は紛れもない。

 最後になったが造本の美しさに触れておきたい。昨今は簡易製本の歌集が多いが、その時流に逆らうようなハードカバーの上質製本である。表紙と背の間にはミゾまで施してある入念さだ。三月書房なき後、京都で最もユニークな書店である恵文社という書店が拙宅の近所にある。そこでは時折「美しい本」というフェアを催していて、アンティークの木製の机に美しい本が置かれている。私はこのフェアで紀野恵の歌集を二冊買い求めた。川野芽生の『Lilith』も美しい本フェアに出品されてもおかしくない。内容、装幀ともに本格歌集であることはまちがいない。

 

第236回 歌壇賞受賞川野芽生

思惟をことばにするかなしみの水草をみづよりひとつかみ引きいだす
川野芽生


 川野芽生かわのめぐみが今年度の歌壇賞を受賞した。発表は『歌壇』2月号で行われたのですでに旧聞に属する話題をなぜ今頃取り上げるかというと、恥ずかしながら今まで知らなかったのである。私が定期購読しているのは『短歌研究』だけで、他の短歌総合誌は書店で見かけると買ったりしている程度なのだ。『短歌研究』7月号の作品季評で川野芽生の「ラビスラズリ」が取り上げられていて、荻原裕幸が「川野さんは歌壇賞の受賞者で」と講評を始めているのを読んで知ったというお粗末である。新聞の受賞短報記事は注意して見ているのだが見落としたようだ。
 川野芽生は1991年神奈川県生まれで、東京大学の駒場教養学部にある超域文化科学専攻比較文学比較文化コースという長い名前の学科で学んでいる現役の大学院生である。長い名前だが伝統的な言い方をすれば文学部の比較文学科に当たる。プロフィールから計算してたぶん博士課程の1年生だろう。本郷短歌会と同人誌「穀物」に所属している。私は「本郷短歌」は創刊号から愛読していて、川野芽生は安田百合絵や小原奈実と並んで注目していた歌人なので、川野の受賞はまことに喜ばしい。『歌壇』2月号を取り寄せてさっそく受賞作品と選考座談会を読んだ。受賞作は「Lilith」30首。選者は伊藤一彦、三枝昂之、東直子、水原紫苑、吉川宏志の5名で、水原と吉川が二重丸を付して一位に推し、三枝が一重丸を付けている。選者も川野作品の読みに苦吟したようで、なかでは吉川がいちばん的確な読みを披露している。短歌賞の選考では選者も力量を試されるのだ。
 川野作品の読みが難しいのは、川野が比較文学の研究者であり、その知識を駆使して作品を作っているからである。題名の「Lilith」からして曲者で、リリスとはユダヤ教の伝承で男の子に害をなすとされる妖怪もしくは悪霊の名である。この世に最初に登場した女性とされることもあり、アダムの最初の妻であったという異説もある。イブがアダムの肋骨から作られたのにたいして、リリスはアダムと同様に土から作られたとされることから、男女の対等を求めるフェミニズムのシンボルとなっているという。題名にこれだけの歴史的背景とコノテーションが隠されているのだ。あとは推して知るべしである。

馬手と云へり いかなる馬も御さずしてさきの世もをみななりしわが馬手
harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
晴らすharass この世のあをぞらは汝が領にてわたしは払ひのけらるる雲
摘まるるものと花はもとよりあきらめて中空にたましひを置きしか
おのこみなかつて狩人〉その嘘に駆り立てらるる猟犬たちよ
汝が命名なづけなべて過誤あやまりにてアダム われらはいまも喩もて語らふ
白木蓮はくれんよ夜ごとに布をほどきつつあなたはオデュッセウスをこばむ

  「Lilith」から引いた。一首目、馬手めては馬の手綱を取る右手のことで、左手は弓を持つので弓手ゆんでという。初句の「馬手と云へり」は「誰かが馬手と言った」ということではなく、右手を馬手と呼んだ命名そのものを呪っているのである。「自分は女に生まれ武者や騎士のように馬に乗ることはないのに、自分の右手も馬手と呼ばれるのはなんでやねん(関西風に言えば)」と憤り、「おまけに私は前世も女だったので、馬に乗ることなど金輪際ない」とまで言いつのっているのである。巻頭歌が高らかにフェミニズムを宣言してこの連作の基調を規定している。
 二首目、harassとは「困らせる、うるさがらせる」の意で「ハラスメント」という言い方に用いられている。「セクハラ」の「ハラ」である。辞書によると古仏語harerに由来し、その意味は「刺激する、かき立てる、犬をけしかける」で、古高地ドイツ語のharenに遡るのではないかと考えられている。ガリアを占領したフランク族の言葉から仏語に入り英語となった単語である。現代仏語のharasserが有音のhなのはこの歴史的理由による。この歌で詠われている鹿とは男性からのハラスメントに悩まされる女性の喩に他ならない。一首目の馬手から馬による狩猟のイメージが準備され、それが二首目の猟犬へと繋がっていることにも注意しよう。
 三首目ではharassが音から「晴らす」へとずらされており、この世の青空を占拠する男性の前では女性の私は払いのけられる雲にすぎないと詠っている。初句の「晴らす」を見たとき、一瞬「恨みを晴らす」方向に行くのかとどきどきした。
 四首目、美しい女性はしばしば花に喩えられるが、男性に摘まれることを待つだけの花は受動的存在で、いわば純粋な対他存在である。自分の人生をいかに生きるかという自己決定権を放棄して(放棄させられて)魂を失った人形になっていると詠んでいる。ちなみに「中空」は「なかぞら」と読む。古語で「なかぞら」は形容動詞であり、「どっちつかずで中途半端な」「精神の不安定な」を意味する。
 五首目は、馬、猟犬、狩人のイメージで一首目と二首目に縁語的につながっている。「太古の昔から男は狩人なんだ」と男は言いたがる。だから外に狩りに出かけて獲物を捕り、洞窟で子育てをしながら待っている女に獲物を分け与える。性による分業という神話であり、川野ははっきりと「嘘」と断定し、その嘘に駆り立てられる男たちに憐れみの眼差しを向けている。
 六首目を読み解くには旧訳聖書の知識が要る。神は最初の人間アダムを作った後に、あらゆる家畜、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥をアダムの前に連れて来てアダムがどう呼ぶかを見た。アダムが呼んだ名が獣や鳥の名となったと創世記にある。物の名の起源神話である。ちなみにこのくだりに魚が出てこない。ヨーロッパで長く「魚の名は真の名であるか」という哲学論争が続いたのはそのためである。またアダムは何語で事物に名を付けたのかも論争となった。旧訳聖書はユダヤ民族の聖典だからヘブライ語だろうと考えるのが自然だが、そうかんたんには運ばず「真の名」論争は実に17世紀まで続いたのである。川野は男性であるアダムの名付けはすべて誤りだと断言する。この世のさまざまな名称は男性の視点から男性に都合よく作られているということだろう。だから女性である自分はアダムが付けた名ではなく喩を使って語らざるを得ない。ここには川野の言語についての根源的関心が看て取れる。
 七首目はホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしている。トロイア戦争のために出陣したオデュッセウスの妻ペネロペアには求婚者が108人押し寄せたが、求婚を退けるためにペネロペアは「今織っている織物が完成したら結婚相手を決める」と言って、昼に織った織物を夜に解いて時間かせぎをしたという逸話である。このためペネロペアはしばしば貞女の鑑とされる。しかし川野はこの逸話に独自の変奏を加え、ペネロペアは求婚者を拒むだけでなく、夫のオデュッセウスをも拒んでいるのだという。

たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よここが対岸
わがウェルギリウスわれなり薔薇そうびとふ九重の地獄infernoひらけば
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

 私は男性に従わず生きるのだから、男性も誰も守らず生きよと呼びかけ、『神曲』では地獄めぐりをするダンテをウェルギリウスが導いたが、私を導くウェルギリウスは私自身だと宣言する。そしてたとえ魔女狩りに遭って火刑に処されようとも、火のただ中に屹立するというのだから威勢がよい。
 選考座談会で吉川は、「男性社会に対する呪詛に近い批判」があり、「新しい形のフェミニズム的な表現が生まれている」と高く評価した。水原は最初はフェミニズム的視点に気づかず耽美的文体に引かれて推したが、男性社会に対する呪詛に近い批判をここまで繊細で端麗な文体で歌いあげたのはすごいと述べた。伊藤は吉川が指摘したようなテーマでリアルに歌うのは難しいが、様式美でしか表現できないことを作者は歌っていると評価し、すごく才能のある作者だと述べている。三枝は、このところずっと平たい歌の方へ行っていたのが、かっこいい表現をしていて大きな問い掛けにはなるが、このかっこよさは引いてしまうという人もいるかもしれないと述べている。
 ほぼ全会一致で一位に決定した選考委員の評言に付け加えるとしたら、文体の面では文語定型を基本としつつも、前衛短歌の技法に多くを学び、イメージの重視と破調を恐れない大胆さを有し、また塚本邦雄にも通じる言葉フェチでありながら言語への根源的懐疑を内包しているところが川野の個性だろう。
 歌壇賞受賞後の第一作となる「ラピスラズリ」(『歌壇』2018年3月号)から引く。

くがといふくらき瘡蓋のを渡り傷を見に来ぬ海とふ傷を
薔薇園をとざすゆふやみ花の色なべて人には禁色にして
Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆけばたましひ見ゆ、と信じたき夜半
ねむる――とはねむりに随きてゆく水尾みをとなること 今し水門越ゆ
殺められて水底にある永遠を胡蝶菫パンジイめきて海馬うみうまよぎる

 ちなみにラピスラズリは旧約聖書の創世記にも登場する貴石で、青色の原料として高値で取引された。フェルメールの絵によく使われている。胡蝶菫と書いてパンジイと読ませるところなど言葉フェチの本領発揮である。海馬はタツノオトシゴの異名だが、大きなウミガメをも意味するらしい。歌壇賞受賞作のフェミニズムは影も形もなく、むしろ『本郷短歌』に発表された旧作を見ると、こちらが川野のベースラインのようだ。

身じろがば囚はれなむをこゑのごと曼珠沙華あふれかへる白昼  『本郷短歌』第5号
夕かげは紅茶を注ぐやうに来て角砂糖なるわれのくづるる

 『本郷短歌』創刊号の座談会で川野は、「小さいころからずっと小説や詩を書いていた」と述べ、「自分の中に表現したいものがあるんじゃなくて、言葉との出会い」が大事で、「自分に理解できない言葉がやってきて、その言葉と自分がぶつかって何かの化学反応が起きる」と述べている。文学少女であったことはまちがいなく、また「人生派」ではなく「コトバ派」の歌人であることを裏付けていよう。そのことは『歌壇』2月号に掲載された歌壇賞の受賞の言葉にも表れている。
 今回このコラムを書くために関連情報をネットで調べていたら、衝撃的な事実が判明した。本郷短歌会は運営が困難になったため2017年12月末をもって解散したというのである。本郷短歌会は2006年に発足しているので、11年で活動に終止符を打ったことになる。最近『本郷短歌』が送られてこないなと思っていたら、解散していたのだ。小原奈実は6年間の医学部の課程を終えて退会したし、安田百合絵や川野芽生は博士課程に進学して忙しいだろうし、その他のメンバーも卒業して大学を離れたのでやむを得ないのかもしれない。私は2012年5月7日のコラムに、「発表の場を得て漕ぎだした『本郷短歌』である。雑誌を創刊するのにはたいへんなエネルギーが必要だが、続けるのにはさらにエネルギーがいる。エールを送りたい」と書いた。解散という事態を迎えたことはとても残念だ。しかしまた何年か時が過ぎたら新しい種が地に蒔かれることを期待したい。