第290回 川野芽生『Lilith』

眼とふ裸火ふたつかかげゆき炎昼はわが灼くべき羅馬

川野芽生『Lilith』

  音数から言って「眼」は「まなこ」と読む。眼が裸火のように爛爛と輝くのは、身の裡にいかなる暗い情熱、はたまた激しい衝動を蔵しているせいだろうか。時は盛夏の影ひとつなき真昼で、ヘリオスの駆る太陽はまさに天頂にある。歌の〈私〉は永遠の都ローマに火を放とうとしている。神話的設定の中に暗い情動を感じさせるこの歌は何かに触発されて生まれたものか。私はすぐに齋藤慎爾編『短歌殺人事件』に収録された皆川博子の「お七」という幻想的な掌編を連想した。その最後は次のように締めくくられている。

 娘は石のきざはしをのぼり、街をさまよう。濡れたからだのくれない芯が凍りつく寒さに、指を壁にこすり、火をつけた。

〈雪に籠もって拡がる火は、桜が霞んだやうである〉(泉鏡花)

羅馬の街を焼き滅ぼす炎を高殿より眺め、皇帝は完爾と笑んだ。

 2018年に歌壇賞を受賞した川野芽生が第一歌集を上梓した。書肆侃侃房から贈られて来たので、若手歌人の「新鋭歌人シリーズ」の一巻かと思ったが、さにあらず。堂々たる単独歌集である。栞文は水原紫苑、石川美南、佐藤弓生という豪華さで、いずれも期待の新人を世に送る言葉に満ちている。加えて帯文を寄せたのが、あの山尾悠子である。曰く、「叙情の品格、少女神の孤独」。これ以上の言葉はない。満を持しての船出ということだろう。

 川野芽生は1991年生まれ。解散した「本郷短歌会」で短歌を作り始め、その後「穀物」にも参加。現在、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻の博士課程で比較文学を研究する学徒である。主な研究対象はファンタジー文学のようだ。

 本歌集は三部で構成されている。第1部は anywhere、第2部はout of、第3部はthe worldと題されている。つなげると Anywhere out of the world.「この世の外ならばいずこへでも」となる。ボオドレエルの散文詩集『パリの憂愁』(Spleen de Paris)の中の一編の題名である。佐藤の解題によれば、第1部 anywhereは実景を通じて得た感興、第2部out ofは空想世界に託した自己像や思惟、第3部the worldは現実世界の困難を主に詠った歌ということだ。ちみなに川野は「本郷短歌」創刊号の座談会で、佐藤弓生の「anywhere out of the worldここでないどこかへ ….. 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール」という歌が好きだと発言しているので、本歌集の各部に付けたタイトルは佐藤の歌に触発されたものかもしれない。

 第3部に収録されている歌壇賞受賞作の「Lilith」と受賞の翌月に発表した「ラビスラズリ」は別の所で取り上げて論じたので、ここではそれ以外の歌を中心に見てゆこう。集中最も古いのは「本郷短歌」創刊号に発表した「凌霄花」である。

凌霄花のうぜんは少女に告げる街を捨て海へとむかふ日の到来を

網棚に載せれば視界より消える そのままいつかわすれる荷物

やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい

窓辺にて日焼けをしない手が剥いてゆく黄桃の皮の夕映え

指をふれあへば光のあふれ出す奇跡のやうにかはす手花火

海底うなそこがどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る

天球儀ほどの重さのをかかへ人が死なない日の昼下がり

 「頭」に「づ」というルビを振った以外は初出と同じである。六首目がやや口語的で新仮名になっている他は、ほぼ文語旧仮名である。いかにも川野らしい歌は一首目と七首目だろう。他の歌は現実とどこか踵を接しているが、この二首だけはそうではなく、現実から乖離した神話的な趣がある。先に触れた「本郷短歌」創刊号の座談会で川野は、「自分の中に表現したいものがあるんじゃなくて、言葉との出会いですよね。自分に理解できない言葉がやってきて、その言葉と自分がぶつかってみたいな」と述べている。「コトバ派歌人」の面目躍如というところだ。コトバを組み合わせることで脳髄が震えるような世界を創り上げるということだろう。

 ここでは歌人としての川野と言語の関係を考えてみたい。自分の中に言うべきことがある、もしくは自己表現の欲求があるとき、言語は自分の言いたいこと、表現したい自己を伝えるコミュニケーション機能を持つ。私はあなたに何かを伝えるのだから、私とあなたは横並びの関係にある。言語は私からあなたに水平に伝わる。これを「言語の水平性」と呼んでおこう。日常言語は概ね水平的であることを旨とする。

 しかしながら川野の短歌では言語は水平に機能していない。何か伝えたいことがあるわけではないからだ。では川野の歌の言語は何をしているかというと、言語によって創り出される美の極北、つまりは言語の絶巓を志向しているのである。美の極北は遥か彼方の天空の高み、成層圏の向こうにある。それはもはや神の領域である。高みを目指す言語はなべて垂直に立ち上がる。これが詩語の「垂直性」である。

はつなつの森をゆくときたれもみなみどりの彩色玻璃窗ステンド・グラスピース

海の画を見終へてひとは振り向きぬその海よりいま来たりしやうに

幾重もの瞼を順にひらきゆき薔薇が一個の眼となることを

炭酸水うつくし 魚やわたくしが棲むまでもなく泡を吐きゐる

今朝すべての金木犀はみひらきて久しかりしよ秋の百眼巨人アルゴス

 このような歌において想は現実の断片から得ようとも、歌の描く世界は現実から乖離している。川野の孤絶は明らかだろう。現在の短歌シーンにおいて、若手歌人の大方は口語でフラットな日常を詠むのが主流となっているからだ。そこには詩語の垂直性は微塵もない。川野のように言語を垂直軸に立ち上げて、自ら放った薪の火の中で身を焼かれようとする人は稀である。そこに川野の矜恃を見るべきだろう。

朝なさな燃えあがるアレクサンドリア図書館ありてわれらもその火

天上に竜ゆるりると老ゆる冬われらに白きいろくづは降る

片割れよ夢をみるたび夢にれ角や翼を得てわれを去る

珊瑚に尾を巻つけて海馬うみうまは憩へり水底の戦間期

転生のたびあをまさる空にして果ては黒白のいづれか知らぬ

 第2部 out ofから引いた。この章は現実を離れてファンタジーの世界に想像力を放つ歌が収録されている。竜やら双頭の馬やら人狼やケンタウロスが登場する。ファンタジー短歌というとすぐ頭に浮かぶのは井辻朱美である。

石積みよりあらわれてかたるとおき世の赤毛の蛮族 流れよロホラン 『コリオリの風』

魔物らのうすいまぶたの刺青(いれずみ)をさすりてかぜはデボン紀に吹く

暁新世ぎょうしんせいの岩棚にふるき尾を垂らし風にふかれていし異星人

 井辻がデボン紀やユラ紀や伝説の世界に自由に出入りして想像力を膨らませるのにたいして、同じファンタジーでも川野の歌にはどこかひりつくような痛みが感じられる。それはおそらくは「疎まれし少女時代を聖痕となしゐしに雲は日ごとに生(あ)れくる」に詠まれたような子供時代の孤独や、「蛇苺這はするごとき発疹と思へりひかり浴みて殖ゆるを」と詠まれた日光アレルギーのような環境に対する生理的敏感さに由来するものだろう。

ジョン・エヴァレット・ミレイの没年書き入れて死者ばかりこの稿を出入りす

  〈Edward Burne-Jones (St. George Slaying the Dragon〉

聖ゲオルギウスの目見まみのやはらぎよ刃を竜の口に差し入れ

うつくしいパルフェをくづし混沌の海よりひとが取りだすミント

地下書庫に体熱を奪はれながらひとは綴ぢ目の解けやすき本

ねむる――とはねむりに随きてゆく水尾みをとなること 今し水門を越ゆ

 

 一首目、ミレイはラファエル前派の画家で、入水して水に浮かぶオフェーリアの絵が有名だ。歌の〈私〉が言葉を通して交流するのは泉下の人ばかりである。二首目は詞書きにあるように、ラファエル前派の中心的画家のバーン・ジョーンズの絵である。ラファエル前派の展覧会に出かけたのだろうか。三首目のミソは、喫茶店で供されるパフェが、フランス語で「完璧な」を意味するparfait (バルフェ)に由来することにある。アイスクリームや果物やチョコレートを配した完璧なスイーツということだろう。その完璧なパフェを、混沌の神のごとくスプーンで崩してしまうのである。四首目、大学院生は図書館の書庫に入って自分で本を探すことができる。書庫はたいてい地下にあるので夏でもひんやりとしていて少し黴臭い。古い本は劣化していてばらばらになりやすいが、人も同じだと感じている。本歌集には眠りについての歌が多いが、五首目もそのひとつ。帯文を寄せた山尾悠子の「昏れゆく市街まちに鷹を放たば紅玉の夜の果てまで水脈みをたちのぼれ」という歌と遠く呼応するようでもある。

藍いろの馬立ちつくす手袋のひだりは姉がはめてゐる午後

ブラインドに切り裂かれつつ落つるとき冬日も長き睫毛伏せをり

うつつとは病めるまぼろし手をのべて瑪瑙をむまなづきへかへす

さくらばなといにしへ呼びし 瀝青のおもてに浮かびくる病斑を

はなびらは花にほぐれてゆくものをいめゆ取り零されし残月

曇天は雷に満つるを息とめてわが引く藍いろのアイライン

強ひられて嫁したるごとし をみなとしてこの世へいたるしきみ越へにし

 一首目は不思議な歌で、「藍いろの馬立ちつくす」が終止形で切れているのか、連体形で次に続くのかわからない。藍色の馬はこの世にいないので、連体形ならば馬の絵が描かれた手袋か。下句の収め方がうまい。二首目は描かれている情景が明らかだが、床に落ちる日光が「切り裂かれている」と感じるところに心の有り様が窺える。三首目は凝った歌で、瑪瑙の名が馬の脳に似ることから付けられたということを踏まえている。「うつつとは病めるまぼろし」とは醜悪なこの世を嫌い、天上世界を希求するプラトン主義者のモットーである。四首目の瀝青はコールタールのこと。旧訳聖書にも登場する古い物質である。桜の花びらがコールタール舗装の道路に点々と落ちている様を病斑と表現しているのもユニークだ。五首目も桜の花を詠んだもので、こちらは美しく残月と表現されている。六首目、川野が好きな色はどうやら青・紺・藍色のブルー系らしい。きりっと決意を感じさせる歌である。七首目は連作「Lilith」に続く歌。この世に女として生まれて来たのは、無理矢理嫁がされたようなものだというフェミニズム短歌である。

 歌壇賞の選考委員の一人だった水原紫苑は、候補作の「Lilith」に出会ったとき「私たちは息を呑んだ」、「受賞者の名前を知った時、私は驚喜した」と書いている。息を呑んだのは、自分たちに選ばれるのではなく、自分たちを打ちのめす新人を期待していたからであり、驚喜したのは川野が水原の歌を完膚なきまでに批判したことがあるからだという。水原の言を俟たずとも川野の才能は紛れもない。

 最後になったが造本の美しさに触れておきたい。昨今は簡易製本の歌集が多いが、その時流に逆らうようなハードカバーの上質製本である。表紙と背の間にはミゾまで施してある入念さだ。三月書房なき後、京都で最もユニークな書店である恵文社という書店が拙宅の近所にある。そこでは時折「美しい本」というフェアを催していて、アンティークの木製の机に美しい本が置かれている。私はこのフェアで紀野恵の歌集を二冊買い求めた。川野芽生の『Lilith』も美しい本フェアに出品されてもおかしくない。内容、装幀ともに本格歌集であることはまちがいない。