117:2005年8月 第3週 川野里子
または、〈私〉は変化する世界の一部として

集会のお知らせの壁に黄ばむ駅
     けむりのやうに汽車を降りれば

          川野里子『太陽の壺』
 私は自分では短歌を作らないので,作歌の技術論にはあまり興味がない。私が短歌を読むときに興味を持って眺めるのは,作者が自分を取り巻く世界,自分に歌を作るようにと促す世界と,どのような位置関係を取り持っているかという一点である。この位置関係の様々な取り方により,その関係性から生まれて来る,またそこからしか生まれて来ない歌のあり様が自ずと決まることになる。おおよそそのように考えている。このような考え方に立脚すれば,コトバとは〈私〉と世界の位置関係を測定する物差しであり,〈私〉と世界との関係性を構築するための,唯一ではないが重要な手段であるということになるだろう。

 そんなことを念頭に置いて掲載歌を見てみる。「無人駅」と題された3首のみから成る連作の中の一首である。前後に次のような歌が並んでいる。

 ぽくぽくとたんぽぽ咲いて陽は咲いてふるさとに白し人のゐぬ駅

 ちちははと幼子のわれが炎(ひ)のやうに闘ひし時間(とき)よ駅に待つ父母

 作者は久しぶりに故郷を訪問している。父母が待つ駅は無人駅であり,いつ貼られたのかもわからない集会のお知らせは黄ばんでいる。自分を待つ父母は老いている。そんな駅に〈私〉は「けむりのやうに」降りる。なぜ「けむり」なのかというと,〈私〉は故郷を捨てて東京在住者となったからである。この「けむり」という単語のなかに,〈私〉と世界の関係性が凝縮されている。それは〈自省の眼差し〉であり,この眼差しが至る所に偏在している点に川野の歌の大きな特徴がある。

 川野は1959年 (昭和34年) 生まれ。現在までに『五月の王』(1990年),『青鯨の日』(1997年),『太陽の壺』(2002年,第13回河野愛子賞)の3冊の歌集と評論集『未知の言葉であるために』(2002年)がある。川野は短歌評論の面でも定評があり,その多くはホームページで読むことができる。

 田島邦彦他の編集になる『現代の第一歌集』(ながらみ書房)の跋文で,藤原龍一郎小池光の次のような文章を引用している。今では昔とちがって歌集を出版することは容易になり,第一歌集の多くはそんな感覚で編まれていると指摘したのち,小池は次のように続けている。

 「けれど二冊目まで出そうとするとき,その意欲はかなりちがった意味を帯びる。一過性の思いつきでなく,表現行為の継続ということが問われるからだ。じぶんが生き続けることと,作歌し続けることの関係性が否応なく問われる。その点,少なくとも著者自身にとって,今日では第一歌集よりもむしろ第二歌集が重要な意味をもっているといえる」(朝日新聞平成4年8月30日)

 この小池の言葉がぴったりと当てはまる歌人として,川野以上にふさわしい人はいないだろう。川野の3冊の歌集は,「じぶんが生き続けることと,作歌し続けることの関係性」への持続的な問いかけの結実であり,青春の輝きに満ちた第一歌集を上梓したのち,急速に輝きを失うタイプの歌人からはほど遠いのである。

 すでに『五月の王』において,夫の転勤のためか山形県に転居して暮らすことになった自分を詠った歌において,川野の眼差しの性格と方向性は紛れようもない。

 万の日を万の鳥来て越えざりし鳥海山にぞ視られて仰ぐ

 みどりの血垂らしかたむく楡おもひ東京をおもひやがて忘れぬ

 失語へとはこばれゆくな夏の花咲きみちてわれをゆする桟橋

 一首目にあるように,川野の歌には〈視る〉と〈視られる〉関係が両立しているものが目につく。〈私〉は鳥海山を仰ぎ見ているのだが,同時に鳥海山に視られている。「こども抱く腕のふしぎな屈折を玻璃ごしにながく魚らは見をり」という歌もあり,ここでは水族館のガラスを隔てて,〈私〉と魚たちが〈視る〉〈視られる〉関係にある。これはつまり〈私〉を特権的な存在として世界から分離して把握するのではなく,〈私〉は世界の一部であり世界の変化とともに〈私〉もまた変化してゆく存在であると見なしていることになる。このように川野の詠う〈私〉は世界に対して開かれているのであり,そのような視座から眼差しが注がれるのは〈変化〉である。川野は変化に興味があるのだ。

 夫(つま)と子と季節のはざまに変態し擬態し女らやはらかくゐむ  『青鯨の日』

 かたち変へ滅びては生(あ)るるわが夫に添ふ一本の朴訥な木は

 子の寝顔かこむ幾夜やささやかにささやかにわれら変わりゆくらし

 川野を襲った一大変化は何と言っても2年余にわたるアメリカ在住であろう。夫君は哲学者らしく,研究のため渡米し,カリフォルニア州パロ・アルトに在住することになる。同じく『青鯨の日』から。

 獅子のごとオムレツ運ぶしなやかな黒人が残す朝の確かさ

 中庭にハミングバードの翼ふるひ異語圏にあはく疲れはじめぬ

 虹色の旗飾るゲイその下階(した)にユダヤ人(びと)祈りわれが書く歌

 東洋を語り重ぬる化粧(けはひ)濃くさびしからずや遠く風の木

 沖をゆく青鯨(せいげい)よりもなほ遠く日本はありて常にしうごく

 幸ひを病める大国画面にはファインと笑ひ青年死にき

 湿った日本とは対照的なカリフォルニアの乾いた空だけでなく,川野の目はその土地で暮らす人々と,違和感を感じつつ暮らす自分にも注がれる。日本とは異なる対人関係のコード,雑多な人種と宗教が混在するアメリカ社会と接したときに自分に起きる微妙な変化に,川野の眼差しは注がれる。「幸ひを病める大国」に対して感じる違和感は,その対極にある日本を語るときに思わず施してしまう濃すぎる「化粧」への自省と同時に存在している。

 このように冷静な川野がやや感情に流されたかと思えるのが,歌集題名ともなった集中の連作「青鯨の日」だろう。 

 光粒子(フォトン)なほカリフォルニアに遍在し君は死にしか死を解けぬまま

 日本の組織離(か)れむと苦しみし青年が遺すブルージーンズ

 三十四といふ死者の歳またわが歳を怒るほかなき蜂鳥として

 カリフォルニアで知り合った日本の青年の不慮の死を詠んだ連作である。あとがきに「発表をためらって手許に置いていた」とあるのは,知人の死という個人的体験にわずかながら重心をかけ過ぎたからか。

 第三歌集『太陽の壺』では詠われる素材はバラエティーを増してゆくが,そのなかで川野に訪れた新たな変化として,父君の死と年老いた母を詠った歌が特に目につき,心を打たれる。

 父母もまた遠く来たりて遠くへと漕ぎゆかむ舟 逢ひて食む瓜

 亡骸の父にうつすら埃ふり凡百の凡の点とし父は動かぬ

 家族の家いままぼろしにかへりゆく母が背骨の透きとほる家

 はなみづき火炎の樹下の炎(も)ゆる母バスより遙かなもの待ちて立つ

 東京での暮らしのなかに父母が入り込むことで,首都と地方とを結ぶ補助線が引かれ,川野の眼差しにさらに奥行きが増しているかのようだ。それと同時に詠い口に自在さが増していることが感じられる。

 ががんぼが足を垂らして浮かぶときしづかに方位を帯びる夕空

 人間(ひと)生(あ)れし宇宙はさびしく乳臭く裸子植物はならぶ歩道に

 草千里踏みしめて牛は立ち上がりわたしくはなんと重たい夢か

 どこか遠くで象が鳴きたり象も吾(あ)もひとつづつ己が柩を背負ふ

 このように抑制の効いた詠い口と抒情を特徴とする川野の歌には破綻というものがあまり見られない。また同じ理由で「この一首」という代表歌を選び出すことも難しい。強いてあげれば字余りの次の歌を『青鯨の日』から選びたい。

 かく生きしわれがかく生きむわれに合図するいつせいに青葉うらがへるとき

 「かく生きしわれ」は過去の自分であり,「生きむ」を意志と取っても推量と取っても「かく生きむわれ」は未来の自分である。だから「かく生きしわれ」が「かく生きむわれ」に合図する瞬間とは,過去と未来の分水嶺としてのみ存在する全き現在にほかならない。ここには現在というたゆたう小舟に乗って時間の河を流れてゆく〈私〉の変化と連続性をふたつながらに見据えて行こうという覚悟のようなものが感じられて印象に残るのである。

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