第244回 服部真里子『遠くの敵や硝子を』

白木蓮はくれんに紙飛行機のたましいがゆっくり帰ってくる夕まぐれ

服部真里子『遠くの敵や硝子を』

 

 服部真里子の第二歌集が今年 (2018年)の10月に出版された。第一歌集『行け広野へと』(2014年)以来4年ぶりの歌集である。第一歌集を出してから次の歌集がなかなか出ない歌人も多い中で、中四年というのは旺盛に創作活動をしている証左だろう。版元は書肆侃侃房で、装幀は間村俊一、帯文は金原瑞人。間村は「落下 ― 服部真里子に」というコラージュをわざわざ制作して表紙に使っている。

 掲出歌を見ておこう。白木蓮は春先に大きな白い花をつける。小舟のような形をした花弁は一枚ずつはがれて散る。その有様を紙飛行機に喩えたのだろう。「ゆっくり帰ってくる」という句に花弁が散る速度があり、夕まぐれは木蓮の花の白が映える時分である。時間の経過と生命の流転と季節の移ろいが視覚的に描かれていて美しい。「ゆっくり帰って/ くる夕まぐれ」の句跨がりも心地よい。

 『行け広野へと』を取り上げて論じた折に、服部は歌を豊かなものにするのに必要な、皮相な表面的現実を超える多元的・重層的視線をすでに獲得しているようだと書いた。まさにそのとおり、第一歌集は日本歌人クラブ新人賞、現代歌人協会賞を受賞し、服部は注目される新人歌人となった。第二歌集『遠くの敵や硝子を』ではその技法と歌境をさらに研ぎ澄まし深化している様が見て取れる。

わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠かわせみ

蜜と過去、藤の花房を満たしゆき地球とはつか引き合う気配

肺を病む父のまひるに届けたり西瓜の水の深き眠りを

夕映えは銀と舌とを潜めつつ来るその舌のかすかなる腫れ

羊歯を踏めば羊歯は明るく呼び戻すみどりしたたるばかりの憎悪

 歌集冒頭の「愛には自己愛しかない」から引いた。一読してその短歌世界にぐっと引き込まれるが、一首ごとに見ると読みは決してたやすくはない。一首目でまず誰もが立ち止まるのは「復讐」だろう。誰に対してどんな理由で復讐しようとしているのか、歌の中に手がかりはない。「復讐」の単語の強さとイメージだけが宙吊りになる。さらに通り雨という具体的なものときらめきという視覚的印象が続き、結句で翡翠に着地する。すると水辺に住む翡翠と水のイメージ、きらめきと翡翠の羽の輝きが一首の中で呼応し、それが「復讐」へと反照してそのイメージを華麗に増幅する。

 服部は自分が「名詞萌え」であると語っている(『現代短歌新聞』2015年8月号)。名詞とそれが喚起する映像力を重視したのは前衛短歌である。服部も自分が心を引かれる名詞を中心に据えて、そのイメージを拡大し縁語を配することで歌を組み立てているようだ。服部は「人生派」ではなく「コトバ派」の歌人なのだ。だとすればその作品の鑑賞に当たっては、歌の中に過度に人生的意味を求めるのではなく、コトバとコトバがぶつかり合い反響い合う遠い木霊に耳を澄ませ、水面の揺らぎのような心のざわめきを味わうのが正しい読み方ということになろう。

 二首目にも服部の名詞派の特徴が出ている。本歌集の小題にも「黄金と饒舌」「塩と契約」などがあり、収録されている歌にも「水仙と盗聴」という話題になった歌がある。つまり「名詞と名詞」のように2つの名詞を「と」で結ぶ二物衝撃が好きなのだ。二首目では「蜜と過去」である。蜜が藤の花房を満たすというのはわかる。一方、過去が藤の花房を満たすというのは一読してわからない。私は忘れようとしても過去がひたひたと近づいて来るという喩かと読んだが、他の読みもあるだろう。

 三首目は父を詠んだ歌である。服部の人となりを知るいちばんよい資料は、喜多昭夫の個人編集短歌誌『Sister On a Water』の創刊号 (2018年6月)の服部真里子特集である。喜多による一問一答のインタヴューの中で、「初恋は?」という問に服部はためらうことなく「父。」と答えている。この号には「道をそれて」という服部のエッセイが収録されており、その文章がとてもおもしろい。それによると理系出身で会社勤めをしていた服部の父は、ある時会社という組織のあり方に疑問を抱き、会社を辞めて組織論を学ぶべく大学院に入学したという。『行け広野へと』にも父親の歌が多いことを指摘したが、本歌集にも多く収録されており、父恋いの歌集と読むこともできる。服部の父は3年前に他界している。三首目は病に伏せっている父親に西瓜を届けたという歌だが、届けたのが「西瓜の水の深き眠り」としたところに詩的転倒がある。

 四首目、今度は「銀と舌」である。喜多昭夫は服部は葛原妙子の系譜に連なる歌人だという意見で、だとすると服部もまた幻視の人ということになる。しかし私には服部はきわめて意識的かつ理知的に言葉を配置しているように見える。「銀」は夕映えの雲の輝きと結びつけることができるが、「舌」はどうしても夕映えとは結びつかない。ここにあるのはは幻視ではなく、イメージの詩的飛躍だろう。一種の異化効果である。一首目でも「復讐」という抽象語から「翡翠」という具体物への飛躍がある。この飛躍に着いて行けない人は理解不能となるだろうが、イメージの飛躍に詩的純度を感じることのできる人はいるだろう。同じことは五首目の「羊歯」と「憎悪」にも言える。これもまた抽象語と具体物の組み合わせである。

 服部の歌に奥行きと深みを与えている要素のひとつにキリスト教がある。歌の中によくキリスト教の語彙が登場する。

床に射す砂金のような秋の陽がたましいの舌の上に苦くて

風の日にひらく士師記は数かぎりなき報復を煌めかせたり

神さまのその大いなるうわのそらは泰山木の花の真上に

ふいの雨のあかるさに塩粒こぼれルカ、異邦人のための福音

空の見える場所でしずかに手をつなぐラザロの二度目の死ののちの空

 士師記ししきは旧約聖書の一部で、ユダヤ民族と他民族の抗争を描く歴史である。これらの歌に登場する語彙はキリスト教へと接続して、特有の含意と連想を生み、歌にもう一つの次元を付け加えている。先に触れた喜多昭夫のインタヴューで服部は、自分にとって宗教はライフハックだと述べている。「ライフハック」(life hack)、つまり知っていると生きやすくなる知恵ということだ。

 歌人のなかには上句が魅力的な人と下句の処理がうまい人がいる。その分類で言うと服部は下句が魅力的な歌人のようだ。

灯のもとにひらく昼顔おなじ歌を恍惚としてまた繰り返す

今宵あなたの夢を抜けだす羚羊れいようの群れ その脚のしき偶数

 例えば一首目の「恍惚としてまた繰り返す」は、「恍惚として/また/繰り返す」と分けられる。「恍惚として」で七音、残りが七音なのだが、「また」の後に軽い区切りが入る。そのリズムが心地よい。二首目では「群れ」が句割れで上句に入り、一字空けで下句が大きく二つに割れる。古語を使わない現代語の短歌では結句が単調になりがちだが、服部の場合そういうことはなく、結句が多彩で結句に着地する感覚が魅力的だ。

 最後に特に心に残った歌を挙げておきたいのだが、たくさん付箋が付いたので一部に留めておく。

愛を言う舌はかすかに反りながらいま遠火事へなだれるこころ

災厄を言う唇が花のごとひらく地上のあちらこちらに

近代の長き裾野の中にいて恍とほほえみ交わすちちはは

火は常に遠きものにてあれが火と指させば燃え落ちゆく雲雀

テーブルに夕陽はこぼれ芍薬の死してなおあまりある舌まがる

水を飲むとき水に向かって開かれるキリンの脚のしずけき角度

傘を巻く すなわち傘の身は痩せて異界にひらくひるがおの花

 『行け広野へと』を取り上げたコラムでは、名前をまちがって「真理子」と書いてしまった。お詫びして訂正したい。

 『遠くの敵や硝子を』という珍しい歌集題名は、服部が子供の頃から聞かされていた「遠くの敵は近くの味方より愛しやすい」という言葉から取ったという。なかなか含蓄のある言葉である。

 

第152回 服部真里子『行け広野へと』

光にも質量があり一輪車ゆっくりあなたの方へ倒れる
              服部真里子『行け広野へと』
 2012年に短歌研究新人賞次席に選ばれ、2013年に歌壇賞を受賞した服部真里子の第一歌集が出た。名門早稲田短歌会の俊英の待望の歌集である。ちょっとヨーロッパ中世の写本を思わせる瀟洒な装幀は名久井直子の手によるもの。名久井は錦見映理子の歌集『ガーデニア・ガーデン』の装幀も手がけた注目のデザイナーである。美しい本になっているのが嬉しい。栞文は伊藤一彦、栗木京子、黒瀬珂瀾。伊藤は歌壇賞の選考で服部を押した審査員、栗木は短歌研究新人賞の審査員、また黒瀬は服部が拠る「未来」の選歌欄の主である。ちなみに歌集題名の「広野」を私は一見して「ひろの」と読んだが、奥付を見ると「こうや」とルビが振ってあり「こうや」が正しい読みのようだ。
 歌集題名が命令形になっているのが最近では珍しい。過去には春日井建『行け帰ることなく』、武下奈々子『光をまとへ』、成瀬有『遊べ、桜の園』、佐佐木幸綱『直立せよ、一行の詩』などがあり、最近では松本典子『ひといろに染まれ』の例があるが、若い歌人の歌集題名にはあまり見られない。それはやはり今の若い人の心のありようを反映しているのだろう。命令形は力強く意志を表し、何よりもそれを投げかける相手がいる。命令形は相互行為としての言語の形態的発露なのである。
 さて、掲出歌だが上句の「光にも質量があり」が一般論で、「一輪車ゆっくりあなたの方へ倒れる」が個別の現象で、両者を並列的に接続する構造になっている。誰かが乗っている一輪車に横から光が当たっている。すると光の圧力を受けたかのように、一輪車が恋人であろうあなたの方へと倒れるのである。光に質量があるかどうかは実は難しい問題で、アインシュタインは光の質量はゼロだとした。しかし、光には運動量は存在する。だからわずかながら物体に作用を及ぼすことはできるのである。その微量の圧力を詠んだところがおもしろく、作者の知的な世界把握を感じさせる。光はこの歌集に何度も登場する語であり、作品世界を読み解くひとつのキーワードとなっている。
 若い歌人が歌を詠むとき最も重要な課題は、「言葉の斡旋によっていかに詩を立ち上げるか」だろう。そのとき用いられる技法は、日常言語の位相からは乖離した詩的圧縮と意味の飛躍である。しかしそれと並んで同じくらい重要な課題は、「いかにして世界の平板な見方から脱却するか」である。
 今、目の前に見えている現実だけが世界の姿ではない。歴史家が町を歩くとき、現代の町並みの向こう側に、江戸時代や平安時代の町の姿が重なって見えているだろう。地質学者が地形を観察するときには、何万年も前の地殻変動や火山の爆発を透視する。旅人は今日の夕食に魚を食べるとき、遙か遠いポルトガルのナザレの港で食べた魚を思い出すだろう。皮相な表面的現実を超える多元的・重層的視線が歌を豊かにし奥深いものにする。
 『行け広野へと』を一読して感じたのは、作者は歌を奥深いものにする何かをすでに会得しているということである。それは次のような歌に表れているように思う。
前髪に縦にはさみを入れるときはるかな針葉樹林の翳り
洗い髪しんと冷えゆくベランダで見えない星のことまで思う
蜂蜜はパンの起伏を流れゆき飼い主よりも疾く老いる犬
どの町にも海抜がありわたくしが選ばずに来たすべてのものよ
塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る
 一首目、前髪を梳くために鋏を縦に入れると、髪と鋏は平行になり、縦方向の世界が前景化する。そこから北国の針葉樹林が想起され、作者はそこにはるかな視線を投げるのである。この「はるかな」という視線が歌に奥行きを与えている。それは大滝和子の名歌「観音の指の反りとひびき合いはるか東に魚選るわれら」と通じる視線である。二首目は説明不要で、「見えない星のことまで思う」という措辞がいささか単純ではあるが、遠すぎて見えない星もまた私たちが生きている世界の一部だという認識がある。三首目、蜂蜜とパンが並ぶと旧約聖書が思い浮かぶが、この歌の眼目は時間の流れである。蜂蜜が流れる短い時間と、犬が老いるそれよりも長い時間のスパンが等価に置かれている。四首目、どの町も海抜を持つように、どのような些細な事柄にも何かの意味がある。しかし私はどれかを選び、それ以外のものを選ばずに来た。作者の視線は選ばずに終わったものたちの上を漂う。このように服部は、見えるものより見えないものに、選んだものより選ばなかったものに眼差しを向けることで、平板になりがちな世界把握に奥行きと陰翳を与えている。五首目、塩の柱も旧訳聖書の逸話だが、ここではいつかは死すべきという意味だろう。生命に限りある私たちが夏のある日にすだちを絞っている。この情景に焦点化された「いま・ここ」の一回性が切ないほど胸に迫る歌だ。
 この歌集を一読して気がつくのは父が登場する歌の多さである。
昨日より老いたる父が流れゆく雲の動画を早送りする
窓ガラスうすき駅舎に降り立ちて父はしずかに喪章を外す
窓際で新書を開く人がみな父親のよう水鳥のよう
駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍へ
父よ 夢と気づいてなお続く夢に送電線がふるえる
木犀のひかる夕べよもういない父が私を鳥の名で呼ぶ
 母を詠んだ歌も数首はあるが、父の歌の方が多くこれで全部ではない。女性は一般に母親に同化し共感することが多く、娘にとって思春期以後の父親はたいてい煙たくて近寄りたくない存在である。しかし服部にとって父親はどうやらそうではないらしい。特に四首目は短歌研究新人賞の選考座談会でも評判のよかった歌で、加藤治郎は「今までの歌は、父親はもう敵で、どうしょうもない人間。こういう歌を読むと本当にほっとして」と述べ、佐佐木も「父親として読んで、いいなあ……と」と手放しである。「大きめの水玉」は父親キラーの修辞のようだ。
 付箋の付いた歌は多いが、その中からいくつか挙げておこう。
なにげなく掴んだ指に冷たくて手すりを夏の骨と思えり
雪は花に喩えられつつ降るものを花とは花のくずれる速度
いっしんに母は指番号をふる秋のもっともさびしき場所に
かなしみの絶えることなき冬の日にふつふつと花豆煮くずれる
うす紙に包まれたまま春は来るキンポウゲ科の蕊には小雨
日のひかり底まで差して傷ついた鱗ほどよく光をはじく
水という昏い広がり君のうちに息づく水に口づけている
金貨ほどの灯をのせているいつの日か君がなくしてしまうライター
   一首目、「夏の骨」というフレーズが印象的で、「なにげなく」がさりげなく上手い。二首目、「雪は」で始まるので雪の歌かと思えば、途中で転轍して花に焦点が移動する。花の命の儚さを「速度」で表しているのだろう。雪と花とが二重露光のように見える。三首目、「指番号」とは、ピアノやバイオリンの運指を表す記号のこと。「秋のもっともさびしき場所に」が、演奏する楽曲の箇所であると同時に心情も表している。四首目のポイントは花豆で、ベニバナインゲンのこと。名称に含まれた「花」が哀しみに明るさを付与している。五首目は「うす紙に包まれたまま」というフレーズが早春の雰囲気をよく表している。六首目の「傷ついた鱗ほどよく光をはじく」は実景描写とも比喩とも読めるが、伊藤一彦は栞文でこの歌を取り上げて、服部の短歌の特徴は明るさで、この明るさは今の時代には貴重だと述べている。七首目は相聞で、恋人の中に広がる水という暗がりに注目した歌。「水に口づけている」という表現が清新だ。八首目は「未来賞」を受賞した一連のうちの一首で、いつの日かなくしてしまうだろうという先取りされた喪失感と、今輝くライターの炎の対比が印象的である。
 批評を書くために何度も歌を読み返すと気づくが、歌集全体を通じての歌のレベルの高さと安定感が抜群である。おそらくは今年の収穫の一冊として記憶される歌集になるだろう。