099:2005年4月 第2週 本田瑞穂
または、言いさしと欠落の文体によるディタッチメントの歌

髪の毛のかかる視界でこの町を
     見ていたのびていくあいだじゅう

          本田瑞穂『すばらしい日々』
 不思議な感触の歌である。「髪の毛のかかる視界」は、女性の前髪が眼にかかっている状態だろう。「のびていく」の主語はもちろん「髪の毛」である。文字どおり解釈すれば、「髪の毛ののびるあいだじゅう見ていた」ということになるのだが、もちろん現実にはそんなに長い間見つめていることはできない。錦見映理子が指摘しているように、上句と下句のあいだで不思議な時間のねじれがある。またこの歌は叙景歌ではなく人の行動を描いているにもかかわらず、なぜ〈私〉が町を見ていたのか、なぜ視界に髪の毛がかかっていたのかの説明がないだけでなく、読者が推測するための手掛かりすら一切ない。その欠落がこの歌の意味に非現実的なまでの浮遊感を与えている。

 本田瑞穂は「短歌人」を経て「かばん」同人。2004年に刊行された本書が第一歌集である。歌歴は7年くらいのようだ。雪の結晶が型押しされた瀟洒な装丁は、作者が新潟に在住していることを踏まえてのことだろう。解説は「かばん」の仲間である穂村弘が書いている。

 『すばらしい日々』は、俵万智の『サラダ記念日』を嚆矢として燎原の火とごとく広まったライト・ヴァースの時代を経て、もはや定番となった現代の口語律短歌のひとつの典型と見なせるだろう。まず文体的には硬質の漢語を意図的に避け、平仮名を多用して柔らかい印象を出している。これは多くの若い女性歌人に共通の短歌言語なので取り立てて指摘するには及ばないが、本田の短歌でもうひとつ目につく特徴は「言いさしと欠落の文体」である。たとえば『すばらしい日々』の中から次のような歌を見てみよう。

 ひざこぞううつくしいのはつくりものきみはひとりで見つけなさいね

 双子座をわたる惑星心臓の音が聴こえてきそうなくらい

 誰も知らないことなのに両腕に鳩をあつめるあのおじさんは

 ひとは行くさくらの下をほほえんでひとりにならないように探して

 一首目、平仮名の連続の効果もあってまるで耳元でささやかれる呪文のような歌だが、「作り物の膝小僧」が誰の膝をさしているのかわからない。また「ひとりで見つけなさいね」も、何を見つけろと言っているのかが不明である。まさか「膝小僧を見つけろ」と言っているわけではあるまい。二首目、「双子座をわたる惑星」は叙景として、「心臓の音が聴こえてきそうなくらい」は程度を表わす比喩だが、その比喩が修飾する本体がない。常識的には「心臓の音が聴こえてきそうなくらい→静か」だが、それではちっともおもしろくない。だからこの歌は欠落によって成立しているのである。三首目、「誰も知らないこと」イコール「両腕に鳩をあつめること」と読んだらこの歌はつまらない。「誰も知らないことなのに」と「両腕に鳩をあつめるあのおじさんは」のあいだには、大きな意味の断層がありどちらにも続きがなく、言いさしたまま意味が宙吊りになっている。四首目も下句の「ひとりにならないように探して」が、誰に誰を探してくれと頼んでいるのかが故意に隠されている。いちおう「私を探して」と読めるが、それ以外の解釈も可能だろう。

 この「言いさしの文体」には平井弘という名高い先蹤がある。

 手をとられなくてもできて鳩それももう瞠きっぱなしの鳩を

 跳びあがりそのまま歩かなくなりし獣たちそのほかの大事な

 花キャベツ切りのこされしいく脚の鳥肌 遅れてゆけるかぎりは

 平井の場合は特に下句に特徴があり、たとえば一首目は「もうみひらきっ・ぱなしのはとを」、二首目は「けものたちその・ほかのだいじな」の句跨りがリズムを崩すことによって、低くつぶやくような調子を下句に与えている。また結句の終わりが終止形でも体言止めでもなく、格助詞で終わる終結感の乏しさが、見栄を切るような歌からはほど遠い欠落感を強めていることにも注意しよう。平井のこのような「言いさしの文体」が浮上させる欠落感は、兄たちの世代を戦争に送り戦後を生きる平井の恥の感覚に正確に呼応している。平井の文体は〈世界の見え方〉と密接に関係し、それを言語面から支えているのである。

 それでは平井の歌集『前線』から30年を隔てた現代の口語短歌に見られる「言いさしと欠落の文体」は、意味の地平において何に呼応しているのだろうか。それはどうやら「世界との関係の希薄さ」、村上春樹流に言えば「ディタッチメント」の感覚につながるようだ。この感覚は掲出歌にも濃厚に漂っている。「髪の毛のかかる視界」で町を眺める視線は、その町に溶け込み地域活動に参加して暮らす生活者のものではない。これはよそ者の視線であり、「世界に参加できない者」の視線である。「言いさしと欠落の文体」は、細かく描きこまないことによって世界像をぼやけさせると同時に、それを見ている〈私〉と世界との隔たりを強調する効果がある。次のような歌を見てみよう。

 はじめからゆうがたみたいな日のおわり近づきたくてココアをいれる

 どうしたら枯れるのだろう君といた五月の緑のような記憶は

 コーヒーをむらすたまゆら香りたちひとり暮らしで覚えたことは

 バスタブに水を満たして一日の確かに冷えてゆくまでを見る

 まひるまにすべてのあかりこうとつけたったひとりの海の記念日

 「はじめからゆうがたみたいな日」とは、清々しい朝も輝かしい真昼もない一日であり、ここにはあきらめに近い喪失感がある。「君との記憶」はどうしたら新鮮なままに保てるだろうと自問するのふつうだが、ここではどうしたら枯れるだろとと問いかけられている。なかでも印象深いのは穂村も引用している五首目の歌だ。海の記念日は7月20日だから真夏なのだが、にもかかわらず昼間から家中の灯りを点灯するのは異様と言うほかはない。これらの歌に見られる孤独感と喪失感は本田の短歌の主旋律となっていて、この「世界との関係の希薄さ」という〈世界の見え方〉を、平仮名を主体とした「言いさしと欠落の文体」が支えているのである。世代的に本田は村上春樹の小説を読んで育った世代であり、また歌集のなかに「’80 (エイティーズ)共に歩きし友を売る朝よ さよなら村上春樹」という歌があるので、このような見方はあながち的はずれではないだろう。

 「言いさしと欠落の文体」は本来あるべきものを描き込まないことで成立するのだから、歌のなかに作者の〈私〉をまざまざと感じさせるような私小説的ディテールは持ち込まないのがふつうである。永田和宏はかつて自分の家は「短歌界の磯野家」だと言ったことがある。磯野家はもちろんサザエさんの一家であり、永田和宏と河野裕子の短歌を読んでいれば、永田家の家庭内の事情が近所に住んでいるようによくわかるという意味である。しかし「言いさしと欠落の文体」を駆使する東直子小林久美子らの歌人の歌を読んでいても、東家や小林家の家庭内の事情はちっともわからない。短歌における〈私〉の位置する位相がまったく異なるのだから当然のことである。本田も基本的にはそうなのだが、歌集のなかにはときどき妙に生々しいディテールを含む歌があってドキリとする。

 そういえば、友の便りに先の夫父になったと知る春炬燵

 ソメイヨシノの泡いっぱいの窓ガラス 父はチューブで生かされ眠る

 断片的なディテールから読み取ると、本田は母とふたりで母の故郷の新潟に移り住んだようだ。「世界とのディタッチメント」を詠う本田も、最も身近な存在である母を主題にするときには濃密な関係性が滲み出す。穂村も指摘するように、母を詠った歌に印象に残る歌が多いのはこのためだろう。

 そろばんの背で線を引く母の引く境界線の今日はうちがわ

 晴れの日も自分の好きな色ひとつうしなっているこのごろの母

 まっしろなさくらのかげがひらひらと落ちてくる橋母と渡りぬ

 おまえは、おとうさん似と母が言うわたしの顔を見もせずに言う

 稲の穂がさわぐわたしは母の手をひいていかねばならないだろう

最後にこの他に印象に残った歌をあげておこう。 

 すなどけいおちていくのをさいごまでみていたご飯の支度しなくちゃ

 からからとマーブルチョコはちらばって風邪ひきの日の夢のあかるさ

 ぬけだしたみどりほうれん草よりもみどりの水となって流れる

 なかゆびのゆびわがひかる急に日が落ちたとおもう鏡の中で

 手づかみで落したケーキひろいおりきのうの夢の瑞々しくて

 荻原裕幸は本田の短歌評のなかで、近代短歌のセオリーとして歌が「自己像」をくっきりと結ぶという手法があるが、自己像を作品の価値の頂点としない方法もあり、本田の歌はそのように読めると指摘している。確かに本田の歌から立ち上がる〈私〉は、近代短歌のめざした明確な自己像とは異なる位相に位置していると言えるかもしれない。

本田瑞穂のホームページ「日々のうた