第165回 松村由利子『耳ふたひら』

時に応じて断ち落とされるパンの耳沖縄という耳の焦げ色
               松村由利子『耳ふたひら』
 この歌集を読むとき、どうしてもこの歌を挙げずにはおられまい。島津藩から琉球処分を受け、戦後は米軍に長く占領されるという苦難を経験した沖縄を、時の為政者の都合によって切り落とされるパンの耳に喩えた歌である。「焦げ色」という形容には、山の形が変わるほど激烈な地上戦によって焦土と化した沖縄の大地への思いがこもっているのだろう。元新聞記者の作者の社会派歌人としての側面が強く出た歌である。
 全国紙の新聞社の記者であった作者がフリーとなった後に、沖縄に移住する決心をしたとき、周囲の人は驚いたが、師の馬場あき子だけは「あら、いいじゃない」と言ったという。なぜか心に残るエピソードである。『耳ふたひら』は作者の第4歌集で、石垣島に移り住んでからの歌が収められている。石垣島には俵万智と光森裕樹も移住しているので、歌人密度の高い島となっている。ちなみに東京電力福島原発1号機の過酷事故以来沖縄に移住する人が増えたのは、沖縄が環境放射能 (background radiation)が全国一低いからである。自然界にはもともと微量の放射能が存在していて、花崗岩から多く出るため、花崗岩がない沖縄が一番低いのである。沖縄で露出している岩のほとんどは珊瑚由来の石灰岩だ。
 私は10数年前に初めて沖縄を訪れた時に衝撃を受けて以来、沖縄が好きになり、その後幾度も訪れている。何も知らずにそうしたのだが、今から思えば関西空港発の飛行機で最初に石垣島に着いたのがよかった。たいていの人は沖縄本島にまず行くだろうが、本島は戦災がひどかったため古いものが残っておらず、都市化とアメリカ化が進行している。那覇のタクシーの運転手さんに那覇で観光名所はありますかとたずねたら答えに窮していた。それに比べて八重山諸島は琉球の古い文化と町並が比較的よく残っている。竹富島、西表島、小浜島、黒島、鳩間島などに、サザンクロス号に乗って次々と訪れるのも楽しい旅である。これから沖縄へ行こうという方は、本島ではなく八重山から始めるのがお勧めだ。
 さて、『耳ふたひら』に収録されている歌でまず目につくのは、本土とは異なる亜熱帯性気候の植物相と気候を詠んだものだろう。
半身にパイナップルを茂らせて島は苦しく陽射しに耐える
ねっとりと濃く甘き闇迫りくる南の島の舌の分厚さ
ハイビスカス冬にも咲きて明るかり春待つこころの淡き南島
湾というやさしい楕円朝あさにその長径をゆく小舟あり
ティンパニの中に入れられ巨きなる奏者の連打聞くごとき夜
 一首目、石垣島名産のパイナップルは、農園で即売していてその場で食べられる。島には広大なパイナップル畑があり、作者には島がそれで苦しんでいるように映ったのだろう。二首目、沖縄の夜の空気は本土とはちがい、たしかにねっとりとまとわりつくような空気である。月桃の香りがただようと一層密度が濃く感じられる。沖縄の冬は風が強く天気が悪いが、三首目にあるとおり本土に比べて四季の変化に乏しい。新しい土地に移り住んでまっさきに気づくのは気候のちがいである。四首目はとても美しい歌で、湾の長径は水平方向と垂直方向の両方の可能性があるが、ここでは水平方向と取っておきたい。鏡のように凪いだ湾を右から左に一艘の船がすべるように進んでいる。どこか本土とは異なる水深の浅い珊瑚礁の多島海の風景だ。海の色のちがいさえも感じられるようだ。五首目は台風の夜を詠んだ歌。風を遮る山のない石垣島では台風の風が直接に襲いかかる。
 しかし松村は元新聞記者である。観光客のように沖縄の自然に驚嘆するだけに終わることなく、その眼差しは移住者、すなわち余所者である自身へと向けられる。
南島の陽射し鋭く刺すようにヤマトと呼ばれ頬が強張る
島ごとに痛みはありて琉球も薩摩も嫌いまして大和は
言うなれば自由移民のわたくしがぎこちなく割く青いパパイヤ
サントリーホールのチケット購入し島抜けという言葉思えり
半身をまだ東京に残すとき中途半端に貯まるポイント
わたしくも島の女となる春の浜下りという古き楽しみ
 沖縄では地元の人のことをウチナンチュ、本土の人をヤマトンチュと呼ぶ。ヤマトは沖縄に苦難を強いてきた民族であることを沖縄の人たちは忘れていない。四首目と五首目は同じような想いを詠んだ歌で、完全に島人となったわけではない自分に対してどこかうしろめたい気持ちを抱いているのだろう。東京の店のポイントカードが残っているというのがリアルだ。六首目の浜下りとは、3月3日にみんなで浜辺に出て貝や海藻を採る伝統行事のこと。宮古島の八重干瀬やえびしが名高く、韓国にも同じ風習があると聞く。
 とはいえ集中で心に残るのは、ヤマトンチュの移住者としての葛藤を内心に抱えつつも、八重山の自然に自己を溶解させる次のような歌だろう。
アカショウビンの声に目覚める夏の朝わたしの水辺から帰り来て
月のない夜の浜辺へ下りてゆくたましい濡らす水を汲むため
鳥の声聴き分けているまどろみのなかなる夢の淡き島影
覚めぎわのかなしい夢のかたちして水辺に眠る鹿の幾群れ
海に降る雨の静けさ描かれる無数の円に全きものなし
 今まで引いた歌はみなどこか説明的な感じが残る。ところが上の歌群は説明的な部分が少ない分だけ言葉の圧力がポエジーへと向かっているように思う。説明においては視る〈私〉と視られる対象(=自然)の分離が前提となるが、ポエジーにおいては視る〈私〉と視られる対象が、時に入り交じり、時に入れ替わり、交感しあうことが必須となる。そんなことを感じさせる歌である。

第63回 青磁社創立10周年記念シンポジウム見聞記

青磁社シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」
 11月7日(日)に立冬とは思えないうららかな陽気のなか、京都会館会議場で青磁社創業10周年記念シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」が開かれた。大きな会議場がほぼ満員になる盛況ぶりだった。短歌出版でがんばっている出版社が創業10年を迎えたことは喜ばしい。私は歌人の方々とほとんど面識がないので、会場では永田淳さんにお祝いを述べたあと、松村正直さんと魚村晋太郎さんにご挨拶し、田中槐さんが数列前におられるなと認識した程度で、あとはさっぱりわからない。
 第一部は高野公彦の講演「ゼロ年代短歌の動向」。私は高野公彦と小池光の初期短歌が現代短歌の精粋だと思っているので、演壇の高野を遠くからでも初めて見られたことに満足した。
 第二部は「缶コーヒー・肉・アマゾン その他」という奇妙な題の吉川宏志と斉藤斎藤の対談。二人は買ってきた缶コーヒーを机に並べて、「最近、缶コーヒーのネーミングがおもしろいよね」という枕から話は始まった。誰がこの二人を対談させようと思いついたのかは知らないが、途中からグダグダの会話になり、肉の話は出たものの、ついに最後までアマゾンの話は出なかったので、なぜアマゾンなのか未だに謎である。にもかかわらず私にはこの対談はとてもおもしろかった。それは対話を通して歌人としての吉川と斉藤の体質の差が浮き彫りになったからで、なかんずく斉藤の本質がよく見えたからである。
 吉川はまず「自販機のなかに伊右衛門も若武者も眠らせて二ン月の雪は降り積む」(久々湊盈子)、「下痢止めの〈ストッパ〉といふ名づけにも長き会議のありにけんかも」(大松達知)といった歌を引いて、言葉にまつわるおもしろさが見られる歌を論じたが、議論が途中から予期せぬ方向に進んだので、吉川がゼロ年代短歌の動向をどう総括して見ているのかはわからない。これに対して斉藤は「〈特別〉から〈ふつう〉へ、〈わがまま〉から〈なかよし〉へ」と題した第一章で、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」(宇都宮敦)という歌を引いて、ゼロ年代以前の短歌の方法論は「特別なレトリックで特別なことを詠う」もしくは「特別なレトリックで日常を詠う」のに対して、ゼロ年代の歌人はそのような方法論に嘘くささを感じて、「ふつうのレトリックでふつうの日常を詠う」態度へとシフトしたと指摘した。いわゆる短歌の「棒立ち化」で、この点は第三部のバネルデッスカッションでも話題になった。続いて第二章「下がって」では、「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」という中澤系の歌を引いて、「電車が通過します。危険ですからお下がりください」という駅のアナウンスは、形式は依頼表現だが実は命令なのだと述べたが、時間の不足からか斉藤の趣旨はよく理解できなかった。第三章「肉」では、吉川が最近しきりに「ふるさとの牛が殺されゆく今を我はドリルで歯を削られる」のような食肉屠殺に関する歌を作っていることを取り上げた。吉川の故郷宮崎での口蹄疫騒ぎがその背景の一つにあろう。このあたりから斉藤の鋭い突っ込みが始まったのである。斉藤は、「考えれば十センチ以上の生き物を殺していない我のてのひら」のような歌を作るくらいなら、ヴェジェタリアンになろうと考えたことはありませんか、と吉川に問うたのである。
 吉川は返答に窮して一瞬口籠もった。その後も斉藤の問いかけを受けて議論を盛り上げようとはしなかった。斉藤の質問の真意を測りかねたのかもしれない。しかし私には斉藤の質問の意味がよくわかった。斉藤は吉川に向かって、「あなたは思想 (=言葉)と行動が一致していない。それでいいのか」と迫ったのである。第三部にパネリストの一人として登壇した穂村弘は、「斉藤斎藤さんの対談相手に選ばれたのが僕でなくてよかった」と述懐していたので、穂村にも斉藤の質問の意味が突き刺さったのだろう。吉川はこれに対して、自分も確かに歌を作りながらその一方で資本主義に加担して金儲けの片棒を担いでいるが、そのような矛盾を内蔵することで歌はむしろ豊かになるのではないか、と答えていた。大人の答えである。
 私はこのやり取りを聞いて、ようやく今まで掴みかねていた斉藤斎藤の本質を垣間見た気がした。斉藤は原理主義者(ファンダメンタリスト)なのである。ここで言う原理主義とは、思想 (=言葉)と行動との完全な一致を個人のレベルにおいて厳格に要求する立場を言う。
腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人
                        『渡辺のわたし』
勝手ながら一神教の都合により本日をもって空爆します
 このような歌を作る斉藤を、かねてより倫理観の強い人だとは感じていたが、その漠然とした印象はまちがってはいなかったわけだ。しかし原理主義が厳しい道であることはもちろん、危険な道であることもまた覚えておかなくてはなるまい。個人の生の態度としての原理主義の行き着く所は畢竟、革命(=テロ)か宗教しかない。思想 (=言葉)と行動の不一致を劇的に解消するには、世界を根底から変革するか、自分を根底から変えるかのどちらかしかないからである。そしてその二つはほとんど同じ性質のものである。だから斉藤がある日、墨染めの衣をまとって現れても私は驚かないだろう。それにしても斉藤は弁が立つ。現代短歌シーンで屈指の能弁であることはまちがいない。
 第三部のパネルデッスカッション「ゼロ年代短歌を振り返る」は、穂村弘、松村由利子、広坂早苗、川本千栄をパネリストとして、島田幸典の司会で進行した。島田の事前の要請によりパネリストたちは、(1)ゼロ年代の注目すべき課題、(2)印象に残った作品、(3)ゼロ年代を通じて明らかになった課題、の三点をまとめた資料を用意していた。穂村は資料には歌を並べただけで、島田の要請には当日口頭で応える形を取ったが、松村は(1)として新しい「私性」、他者との距離の取り方を、(3)に「われ」の本質・位置と、仮名遣いと漢字を挙げた。広坂は(1)として文語と口語の問題を挙げ、川本は(1)に口語化の流れの中での文語の行方、不安定な自我、老い・介護を、(3)に理屈の歌と理の通らない評論とを資料に挙げた。後日こうしてじっくり資料を見直してみると、パネリストたちの関心は、ゼロ年代ににわかに不安定化しフラット化した短歌の〈私〉と口語化の問題に集中していたことがわかる。司会役の島田の周到な準備により、討議が予定されていた流れで進行していたら、ゼロ年代の短歌を総括する展望が得られていたかも知れないが、誰も知るとおり集団での討議は生き物であり、島田には気の毒だったが予定どおりの展開にはならなかったのである。
 最初に発言した穂村は、『短歌研究』誌四月号の作品季評での印象的な体験から話を始めた。評者の久々湊盈子・永井祐・穂村のあいだで、栗木京子の作品の評価が真っ二つに割れたというのである。久々湊と穂村は、「みづからの体のほかは知らざりし乙女にて夜々数学解けり」のような歌をよいとしたが、永井は「身をゆすりながらバナナを食む子をり花火を持てる荒川の土手」を選んだという。穂村の目には永井が選んだ歌は、措辞の短歌的必然性に弛みがあり、言葉が動く歌と見えた。この経験から穂村は、永井に代表されるゼロ年代歌人の感覚を次のように推測した。永井たちは、従来共有されてきた短歌のレトリックによってポエジーを立ち上げる秀歌性を嘘くさいものと感じて拒否していて、自分たちにとってのリアル(=ふつうの日常)がポエジーの必然性に吸収されることを否定しているのであると。永井たちにとってのリアルとは、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」のような歌のフラットさだけがすくい取れるものだということで、これは第二部の吉川と斉藤の対談でも取り上げられたポイントである。
 その後、松村・広坂・川本ら他のパネリストが準備した資料に基づいて発言したのだが、途中から議論は予期せぬ方向に展開した。「牛乳が…」のような歌のほうがリアルだと言っているのは誰なんですか、という川本の発言がきっかけである。川本が威勢のよい関西弁で滔々と述べたのは、おおむね次のようなことである。
 短歌がフラット化し修辞が棒立ちになったのは、そもそも2001年に『短歌研究』が創刊800号記念に行ない、穂村弘・加藤治郎・坂井修一が審査員を務めた「うたう作品賞」からである。この企画から盛田志保子、加藤千恵、赤本舞(今橋愛)らが世に出た。また『短歌ヴァーサス』を舞台として自分たちの手で歌葉作品賞を作り、審査員を務めたのも穂村である。これらの賞に応募してきた若い歌人たちの歌を「棒立ちのポエジー」と評して、短歌のフラット化を推し進めた張本人は穂村ではないか。『短歌研究』誌四月号の作品季評で永井と評価が割れたことをショックだと言っているが、そのような事態を招いたそもそもの責任は穂村にあるのではないか。
 川本は自分の資料の「理の通らない評論」の項目に穂村の文章を引いていたくらいだから、もともと期するところがあったのかもしれない。かなりきつい調子で以上のようなことを述べた。これにたいして穂村はいつもの小さ目の声で低く語る調子で、次のようなことを述べるに留まった。
 囲碁や将棋には「定石」というものがある。定石とは局所的な盤面において、こう打ったほうが勝率が高くなるという経験則の集合である。しかし定石は最初からあったわけではなく、棋士が長年にわたって積み重ねてきたものである。短歌も同じで、こう作ったほうがよい歌になるという定石があるが、これも最初からあったわけではなく、近代短歌以降に蓄積されたものである。永井たちの棒立ち歌をよい歌だと感じられないとすれば、それは受け取る私たちのなかにそれに反応する回路がまだできていないからである。もし回路ができれば新たな定石となる可能性があると僕は考えていた。ところがなぜか短歌には、ひとつの定石が別の定石と反発して受け入れないという生理がある。今起きているのはそのようなことではないだろうか。
 こうして壇上の穂村が槍玉に挙げられた訳だが、これはむしろ本人にとって名誉なことだろう。加藤治郎・荻原裕幸とタッグを組んでニューウェーブ短歌を推し進めてきたのが穂村であり、川本が苦々しげに述べたように、穂村が「枝毛姉さん」の歌を取り上げればみんながこぞって論じ、穂村が「水菜」の歌を褒めると他の人たちも注目するというように、90年代後半からの短歌評論シーンで穂村は中心的役割を果たしてきたからである。「短歌のくびれ」「棒立ちの歌」「修辞の武装解除」「命の使いどころのない酸欠世界」など、穂村はキメ科白の達人でもある。しかし短歌の棒立ち化・フラット化を前にして、伝統的近代短歌派の歌人は苦々しい思いを噛み締めていたはずで、それが当日、川本の口を借りて噴出したと見ることもできよう。
 さて短歌の棒立ち化と、その背景にある新しい(と見えなくもない)〈私〉像をどう考えるべきか。シンポジウム当日は考えがまとまらなかったが、後日次のような考えに到った。私はこの状況に対して二つの見方が可能だと思う。一つはこの現象はローライズパンツ(または腰パン)のようなものだとする見方である。ローライズパンツとは、股上の浅いズボンをわざと下にずらして穿くファッションで、ヒップホップの流行とともに若者にはやった。下着のパンツが見えることもあり、年長者からは「だらしがない」ファッションとして評判が悪い。しかし若者の目から見ると、年長者のきちんとした服装は「カッコ悪い」のである。つまりこれは世代間闘争ということだ。世代間闘争には原理的に解決策はない。年長者が死に絶えることで問題が消滅するだけである。だからもし棒立ち短歌が世代間闘争の一種であるのなら、私たちにできることは何もない。ファッションがいつまでも続かず新しいファッションに置き換えられて行くように、棒立ち短歌も見過ぎて飽きられたら消えて行くだろう。
 もう一つの見方はもう少し大きな視野に立って、近代とそれを支えてきた〈私〉像が液状化を起こして溶解し始めており、棒立ち短歌はその表れではないかとする見方である。哲学者ミッシェル・フーコーはすでに80年代に、私たちがふつう考えている「人間」像は近代の産物であり、浜辺の砂に書いた文字が波に洗われて消えるように、いつかは消えてしまうだろうと予言した。これは大きすぎる問題で私にはほんとうにそうなのかどうか判断がつかないが、もしこの見方が正しいとするならば、やはり私たちにできることは何もない。大規模なパラダイム・シフトは文明規模で起きる現象であり、私たちが個人レベルで何をしてもそれは蟷螂の斧である。私たちは昨日と変わらず自分たちの小さな生を生きるしかない。
 司会の島田が最後にまとめと総括をあきらめてパネルディスカッションは終了した。企画した人たちが意図した方向には進まなかったかもしれないが、以上のようなことを考えさせられたという意味で、十分におもしろい討議だったと言えるだろう。

143:2006年2月 第3週 松村由利子
または、残酷と母性の鳥女は私

くりかえし繰り返す朝わたくしの
    死後も誰かが電車に駆け込む

          松村由利子『鳥女』
 たまに東京に行き電車に乗ると、強い違和感を抱くことがある。混み合った電車で人々は視線を合わすことを避け、徹底的に他人に無関心である。混んだ車内で隣の人と肘を付き合わせる距離に立ちながら、徹底的な〈孤〉の群として地下の闇のチューブを運ばれてゆく様は、都市東京の日常でありながら異常な光景である。私はどうしてもこれに馴れることができない。掲出歌も通勤電車のひとコマを詠んだ歌であり、勤め人ならば誰でも一度は抱いたことのある感想だろう。〈私〉はメガロポリス東京の1200万住民の一人であり、いつでも代替のきく社会の歯車にすぎず、〈私〉の死後も何事もなかったかのように日常が続いてゆく。これは震えが来るほどの真実である。「くりかえし繰り返す朝」というリフレインが、アイコン的に日常の無限反復を表象している。

 松村由利子は1994年に短歌研究新人賞を受賞し、1998年に第一歌集『薄荷色の朝』を上梓して注目された。『鳥女』は2005年刊行の第二歌集である。松村は毎日新聞社の記者を経て現在は同社の管理職に就いているキャリアウーマンである。インターネットで検索すると、短歌よりも新聞の署名記事関連のヒットが多いくらいだから、その道では名を知られたジャーナリストなのだろう。『鳥女』には「働く女性」としての夢と希望と蹉跌の全部が盛り込まれている。そういう意味で極めて個人的な歌集と言える。

 誰もみな背骨を立てていることのかなしくもあるミルクスタンド

 気がつけばミントキャンディがりがりと噛み砕きおり会議の後に

 何千足の履き潰されしパンプスの山越え女は役職に就く

 予定稿のろのろと書く画面には国内初の臨界事故死

 反戦の行為ならねど料理記事書く同僚のやや羨しかり

 これらの歌は広義には職業詠ということになるだろう。佐佐木幸綱がどこかの対談で、昔は短歌の担い手として工場労働者や農業労働者の層が存在したが、今では状況が変わってしまい、そういう場からの出詠が少なくなったという趣旨の発言をしていた。例えば昭和22年の『人民短歌』には次のような歌がある。

 乾燥炉のかな錆匂ふ炉蓋とり今日の作業をはじめんとする  林麟道

 木枯しのふき荒ぶ夜の汽車の旅安けくあれと車軸取換ふ  滝田晃聖

 粉末炭吹込風車のかそかなる唸りを聞きつつ汗を拭きたり  中津賢吉

 産業構造と社会の変化に伴いこのような汗の匂うような歌は少なくなった。高度成長と第三次産業へのシフトの結果、労働者のホワイトカラー化が進行したためである。しかし見かけは変わっても仕事の現場で人が感じることにはそれほどちがいはないのかもしれない。村松の仕事場は、事件の一報を合図に殺気立ち怒号が飛び交うような場所であり、またサラリーマンに付き物の人事異動や出世競争がある会社のひとつでもある。サラリーマン短歌と言えば長尾幹也が有名だが、村松や長尾の短歌はある意味で上に引用したような労働歌の直系の子孫だとも言えるのである。

 作者には子供がいるが家庭はない。自分のそのような状況と子供を詠んだ歌もたくさん収録されている。

 月一度新幹線に飛び乗りて子に会いにゆくレプリカの母

 母はこんないびつな鳥を作りたり粘土も人も手に負えぬまま

 カルピスのギフトセットが届く夏そんな家族もつくりたかったが

 ガラス越しに手を振り合える母と子のいよいよ遠き水泳教室

 自分を「レプリカの母」と感じてしまう気後れ、粘土細工で鳥を作るのがうまく行かないように人との関係を築くことができなかったという後悔、子供の成長とともに母子の距離がだんだん遠くなるという淋しさなどが詠われている。上に引いた職場詠にも言えることだが、作者の眼目は自分の置かれた状況を短歌という器で表現することにあるので、それほど修辞的技巧は凝らされてはいない。

 憧れの部分は主として恐竜の闊歩していた古生代に向かっている。

 ミルク色の霧たちこめる朝まだき羊歯も私も白亜紀を恋う

 今よりも世界美しかりし頃クジラの祖先陸を歩みき

 私たちどうして海を出たのだろう失くした鰭をプールで恋うも

 不思議なことだが、女性には水との親和性と並んで古生代へと想像力で直結する傾向があるようだ。男性歌人にはあまりそのようなことがない。

 女性の視点から男性を眺める次のような歌もある。

 キッチンに光あふるるこの朝もどこかで女が殴られている

 鶴となり狐となりて女らはついに子を捨てて旅立ちにけり

 男らは言葉少なに飲み食いし新幹線は獣舎のごとし

 したり顔にイラクを語るこの人も雌雄異体の種の一つなる

 作者はいわゆるフェミニスム論者ではないが、男性をこのように批判的視点から見る歌は個人的体験と並んでジャーナリストとしての経験から出たものでもあるのだろう。

 作者がリアリズムから離れて飛翔するのは歌集題名にもなった「鳥女」の連作においてである。

 わたしくの顔を見つけて立ち止まる幻視の画家の「鳥女」像

 鳥女きろりとまなこ光らせてまだまだ飛べぬふりせよと言う

 わが胸に長く羽ばたかざる鳥の黒き羽毛の抜けやまぬ夜

 くらぐらと口を開けたる沼の辺に鳥女赤き目をして立てり

 「幻視の画家」とは小山田二郎のことで、歌集のあとがきに小山田の「鳥女」を見たとき、これは私だと思ったとある。小山田の絵について論じられる「臆病さと残酷性」「寛容さと嫉妬深さ」を自らのことと感じたという。

 小山田二郎 (1914-1991)はシュルレアリズムに傾倒し幻想的な絵を残した画家で、晩年は世間との関わりを断った孤独のなかで過ごしていたため世に知られることが少ない。私はずっと前に小山田の「ピエタ」という絵をポスターで見て衝撃を受け、それ以来気にしていた画家なのだ。2005年に東京ステーションギャラリーで開かれた待望の回顧展は見に行くことができなかったが、その折りのカタログは手許にある。村松は小山田の「群舞」という絵を歌集表紙に使っているくらいだから、相当小山田に傾倒しているのだろう。

 小山田はフリーダ・カーロと同じように「痛い」画家である。心に鋭い痛みを感じることなくその絵を見ることができない。孤独と煩悶とが強烈な色彩を伴う幻視として形象化されてキャンバスに噴出している。鳥女像に自己を仮託して詠われた上の引用歌は、それまでのリアリズム基調の職業詠とはまったく異なる地平から撃ち出された歌に見える。その地平とは誰も立ち入ることのできないほの暗い内面である。職場での仕事や同僚や上司・部下らとの相関において把握された〈私〉を〈関係的私〉と呼ぶならば、鳥女像に村松が見た〈私〉は〈絶対的私〉である。〈関係的私〉は職場の異動や身分の変化によって動くが、〈絶対的私〉はそのような外的状況によって動かないものである。村松はこの〈絶対的私〉の発見によって歌の新たな根拠を見いだしたのではないか。「動くもの」ではなく「動かないもの」を詠むことで、村松の歌に新たな展開がもたらされるのではないか。そのように思えるのである。