183:2007年1月 第1週 櫟原 聰
または、青空と樹木と水を凝視によって形象化する歌

空の樹の水の祈りを聴きとむる
   かなしみの瞳(め)のしづかなる耳
          櫟原聰『光響』(不識書院)

 歌集題名の「光響」は造語であり辞書にはない。ふつうは「交響」と書き、こちらは「互いに響きあう」を意味し、symphonyの訳語「交響曲」として用いられている。しかしsymphonyを語根に分解すると sym-「同、共」phone-「音」となることからわかるように、「交響」は音のみから成る世界である。一方、「光響」は「光」と「響」から成り、視覚と聴覚とが交錯する世界を表さんがための造語であり、この歌集は題名が示すとおり音と光の交響楽なのである。

 たとえば掲出歌を見てみよう。作者は空と樹木と水の祈りに耳を傾ける。その祈りを聴き留めるのが「かなしみの瞳」であり、それは同時に「しづかなる耳」でもある。空を木を水を見る目がすなわち祈りを聴く耳であるということだ。目で見たものが耳で聴いたものになるという感覚の転換もしくは相互浸透がここにあり、それが『光響』という題名にふさわしい音と光の交錯する世界を生みだしている。

 櫟原聰(いちはら・さとし)は1953年(昭和28年)生まれで、京都大学文学部国文科に学んだ古典文学の学徒である。高校生の頃から前登志夫のもとに出入りし山繭の会に参加。「ヤママユ」「木霊」「京大短歌」に所属している。『光響』は20代の歌を集めた第一歌集で1989年(平成元年)に出版された。同年に第一歌集でデビューした歌人に、水原紫苑『びあんか』、藤原龍一郎『夢みる頃を過ぎても』、大辻隆弘『水廊』、喜多昭夫『青夕焼け』らがいる。櫟原には他に歌集『樹歌』(1995年)、『歌の渚』(1997年)、『火謡』(2002年)、評論集『夢想の歌学』、『現代短歌の相貌』などの著書がある。

 櫟原は奈良県は大和国原の一角をなす平群の地に生まれ、万葉集を学び若くしてヘルダーリン・リルケ・伊藤静雄に傾倒した文学の徒であるという。大和の悠久の自然と万葉の古歌という肥沃な土壌を滋養とし、眼には見えぬ形而上的世界を希求する抒情を心に抱いた青年であったわけだ。ここから生まれる歌は、豊かな自然との交感のなかに不可視の蒼穹を仰ぎ見る歌である。

 どこまでもわがひとりなる野の立ちて叫ばむとする空のしづけさ

 急にひばりのさへづりは鋭く空に噴き青空を降り哭けるわが谷

 ゆかばはや夏は崖なす 思春期のかくやはらかきてのひらを見よ

 声にうたふ咽喉(のど)やはらかき夕闇をひとつ星きみにひたきらめかむ

 若草をわが踏みゆけばかなしみは土やはらかに残る靴あと

 いかにあらむわれらのひと生(よ)海の辺に生き継ぎ山に息つぐわれら

 作者は古典文学の学徒だから、「ゆかばはや」とか「いかにあらむ」などの古語を駆使してそれに自らの心情を託すことができる。今の若い歌人にはこのような古語に現在進行形的リアルさを感じるのは難しいかもしれない。歌人としての櫟原が歌に託す心情とは、最後の歌にある「いかにあらむわれらのひと生」という言葉に尽きると言えるし、また青年櫟原が20代に捉えられた情動とは、5首目「若草を」の歌にある「かなしみ」であり、それは1首目の「どこまでもわがひとりなる」の孤独感へと続いている。それは櫟原の歌に人間がほとんど登場せず、櫟原の対話の相手となるのはもっぱら空・草・樹木・虹・水・霊であることにも見てとれよう。

櫟原の歌に最も多く登場するのは青空であるが、その空のなんと青いことか。

 碧空の下にて振れば鳴り出づるひとつてのひらうち砕かれよ

 ニ短調の青空ひびく窓にして燦々と降る誰が涙かも

 青空にひとつはるけきピアノありひかりの粒はそこよりこぼる

 有ることのかなしみとして青さ増す天(そら)はひとつのひかり放たむ

小笠原賢二は『終焉からの問い』のなかで、現代歌人は「魂の救済という潜在的な、しかし意外に強い衝動」を持っている」とし、その証左のひとつとして現代短歌に頻出する青に注目している。小笠原は現代短歌に歌われた青が不安・不充足のイメージを背景として、それらと背中合わせの形で救済の喩として憧憬されるといういびつな構造を持つと指摘している。櫟原の歌に登場する青空もただ青いだけではない。寺山修司が若くして「青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢」と詠んだとき、青空には青春の甘い自己陶酔の香りがした。しかし櫟原の青空は「ニ短調」であり「有ることのかなしみ」を形象化したものである。上に引用した歌においてもまた音と光の光響が実現されていることに注意しよう。

 いったい短歌において情景を描写するとき、その背後には情景を見る知覚主体としての〈私〉が控えており、情景を描くことによって背後の〈私〉が前景化するという構造がある。ところが櫟原の歌においては描かれた情景は物象化し〈私〉を前景化することがない。青空や光は修辞を通じてそこにあるものとして形象化されている。これは櫟原が若くして親炙したヘルダーリンやリルケの詩に学んだものだろう。

 その舌のもつるるごとく蝶舞へばさびしさは野に母音のごとし

 りんごひとつ手にもつ時に空深く果実に降るは果実の時間

 樹を彫りししづかな楽器空に鳴り空かがやける世界の真昼

 うつくしき匂ひかなでてわが食める瞳のごときレモンの楽器

 鳴きのぼるひばりの咽喉はいかならむ火を食ぶる術(すべ)われに与えへよ

 これらの歌のいずれも美しいが、初期歌篇に収録されている2首目は特に鮮やかな印象を残す。季刊『現代短歌雁』55号の特集「わたしの代表歌」でも櫟原自身が自分の代表歌として挙げている。りんごを手にした時に感じる重みという身体的感覚と、空深くから果実に降る時間という意識とを交錯させ、地上と天上、水平方向と垂直方向とが交差する奥行きの深い世界を生みだしている。現代短歌の成果のひとつとして長く記憶される歌だろう。