第270回 江國梓『桜の庭に猫をあつめて』

故郷を離れし人と失くしたる人のにほひの混ざり合ふ街

江國梓『桜の庭に猫をあつめて』


 掲出歌の情景は大都市ならばどこにでも当てはまるが、何と言ってもその筆頭は首都東京だろう。就職のために、仕事を求めて、人は故郷を離れて東京に出る。こちらは積極的な離郷である。その一方で、故郷に住めなくなってやむなく東京に来る人もいる。東京電力福島第一原発事故で父祖の地に住めなくなった方々がそうである。こちらは消極的離郷だ。すべての人を呑み込んで大都市は鼓動する。その様をちがう匂いが混じり合うと表現した所がポイントで、そこに詩の発見がある。

 江國梓えくにあずさは歌林の会所属の歌人で、2014年に第一歌集『まだ空にゐる』を上梓している。2019年からかりん編集委員。簡素な巻末のプロフィールからはこれくらいしかわからない。しかし、読み進むに連れて、作者の人生航路や嗜好や人柄までも掌を指すようにわかるのが短歌のおもしろさというものだ。『桜の庭に猫をあつめて』は2019年刊行の著者第二歌集である。歌集題名は「いつの日か我が家も空き家となるのだらう桜の庭に猫をあつめて」という歌から採られている。

 旧仮名の文語定型に口語を交える詠み方は、現代の歌人の多くが採っている手法だが、江國の短歌に個性があるとすれば、それは周囲の物事への強い好奇心と探究心が生み出す素材の多彩さにあると言える。身巡りの半径50mの景物を詠むことでも短歌は成立するが、作者はどうやら好奇心からか遥か遠くの事物にまでも目が届くようだ。

明神池の渡りをやめたマガモたち翔びたいわれのスマホに游ぐ

デング熱の風評は蚊より疾く飛びて鳩もデモ隊も消えた公園

ヤブイヌに狩られることもなき檻にアルマジロけふもつひに動かず

さかなにも託卵ありてシクリッドの卵に混じる曲者のあり

「餓死するか象を殺すか」二つしかないと思ひしトゥルカナ族は

 一首目、もう北国へ帰らないマガモは馴化された生物で、それは近代の便利な生活に慣れきった私たちを鏡に映しているようだ。マガモは飛ばないのだが、作者は飛びたいのである。二首目、数年前、東京の代々木公園の蚊からデング熱のウィルスが発見され、しばらく立ち入り禁止になった。そのせいで鳩もデモ隊もあっという間にいなくなったという歌。三首目、ヤブイヌは原始的な犬の種で、南米に多く生息する。作者は動物園に行っているのだろうか。檻の中でアルマジロが微動だにしない。四首目、シクリッドとはアフリカに生息する淡水魚で、卵を口の中に入れて育てるという。しかしナマズがそこに自分の卵を潜ませて、生まれたナマズの幼魚はシクリッドの幼魚を餌にして育つそうだ。歌の曲者とはナマズのこと。五首目、トゥルカナ族とはケニアに住む民族で本来は遊牧民である。どういう事件を詠んだものかはわからないが、トゥルカナ族が生きるために象を狩ったのだろう。このように歌に詠まれている素材の多彩さはたいへんなものだ。

 短歌は抒情詩である。その定義上、短歌には人間の喜怒哀楽の心情が詠まれるのだが、心情は目には見えない内的感情であるので、目に見える事物に託して詠む。心情と事物とがない混ぜになり、有機的一体となったものが歌である。しかしながら心情と事物のパランスは歌人によって異なる。心情にウェイトを置く歌人もいれば、事物に傾く人もいる。見たところ江國は、心情よりも事物に視線が行く歌人のようだ。

 また作者は才気煥発な人のようで、出来事に対する反応が鋭敏でおもしろい。読んでいてくすっと笑ってしまう歌も多くある。

微笑みてゐればやすけき世間なら厠に長く留まりてをり

生肉のごとき夕焼けせまるとき関西弁になるこころの叫び

われ知らずきみの知りたるわれの増ゆ夜毎聞かるる歯軋りのおと

われと目を合わさぬ数多の医学生ギャラリーとなる今朝のマンモグラフィー

アメリカの飛び地なるらし舞浜は基地に漂ふジャンクフードの香

一票の死にかた選ぶ投票所の七百億円とふえんぴつ倒し

 一首目はニコニコしていれば暮らしやすい世間に反発してトイレに籠もるという歌。二首目はまず「生肉のごとき」という喩に驚く。心に湧く叫びは「なんでやねん」だろう。三首目は、歯軋りの音は自分には聞こえないが、横で就寝している夫には聞こえているという歌。四首目は乳癌の検査を受けている情景で、医学生がずらりと並んで見学しているのだ。五首目はあのネズミのいるランドを詠んだ歌。六首目は国会議員の投票で、作者が投票する候補者は決まって落選するのである。だから「一票の死にかた」となる。七百億円は選挙に投入される税金で、こんな無駄遣いするくらいならいっそえんぴつ倒しで決めたらどうだと言っている。

 本歌集には生き物を詠んだ歌が多くあり、特に昆虫がよく登場するのだが、それは作者の再婚のゆえである。馬場あき子が寄せた帯文に、「中年にしてみつけた大人の恋からはじまり、双方の家族ぐるみで結婚するというドラマが、俗ともならずいきいきと展開する」とある。どうやら再婚相手は昆虫学者らしいのである。

それぞれに忘れられないときを秘しあなたと晩夏の夕暮れに逢ふ

ひきだしの広口瓶に秘事のごと君の匿ふヤマトシロアリ

これがニンフこれがワーカーと白蟻を指さすきみと暮れてゆく部屋

先妻の頃より鼠はゐたといふ 鼠に負けたやうな気になる

非常勤講師の最後の日に夫は「インカのめざめ」の種芋買へり

婚六年夫から青虫の贈りもの紋白蝶にもう驚かず

 再婚相手との穏やかな暮らしが描かれているが、その後、自分の子にも再婚相手の子にも子供が生まれ、子に会いにアメリカまで行くことやら、母親の死去、父親の老い、師と仰いだ岩田正の死去など、歌の主題は人事にも及びこれまた多彩である。作者の生年は記されていないので年齢はわからないが、歌に詠まれた景物から、私や藤原龍一郎の少し下の世代だろうと知れる。

ゲリラはもう豪雨を飾るしかなくて風の新宿西口広場

われ十二歳じふにフォークゲリラにくみしたく泣けども兄は一人で行きぬ

終焉はモノクロ画像に記憶せり三島の割腹、浅間山荘

フランシーヌの場合はどうか?焼身のメッセージつひに見えなくなりぬ

 フォークゲリラとは、1960年代の後半に起きた街頭で反戦的なフォークソングを歌う運動で、新宿西口広場がその場所として有名だった。フランシーヌ・ルコントは1969年に焼身自殺したフランス人女性で、その事件を歌った「フランシーヌの場合」はヒット曲となった。私の世代の人間ならば、今でもメロディーは空で歌える。

くびすぢのロザリオ揺れて妬心かなし諫めるものは肌に冷たく

行者にんにく入れてむすめと包む餃子ひだの数など微妙に違へど

落葉には塵とは違ふ意地ありて箒のさきを転がりゆきぬ

ワイパーに消されては生るる水滴の夕暮れてゆく胸走りの街

ばんえい競馬にケンタウロスの前脚の微妙な立場を思ふ夕映え

新生児みな岡本太郎の手振りする無垢なるもののほとばしるとき

 四首目の「胸走り」とは胸騒ぎのこと。六首目の岡本太郎の手振りとは、「芸術は爆発だ」とやるときの振りのことだろう。新生児は特に目的もなく、おそらく反射によって手を大きく振ることがある。最近生まれた孫を観察しての発見だろう。ケンタウロスの歌にも思わず笑ってしまう。

 母親の死去や岩田正の死去に際しての歌にも心打つものがあるが、江國の真骨頂は並外れた好奇心と探究心から事物と出会い、出来事にぶつかり、その時の反応を歌にしたものではないかと思われる。

 

【後記】あろうことか日付をまちがえて、本来ならば第一月曜の12月 2日に掲載すべきものが今日になってしまいました。この勢いで次回は第四月曜の23日に掲載します。