162:2006年7月 第3週 河野美沙子
または、〈私〉は共感覚の世界の拡がりのなかにいて

冬の陽ざしにおもたさ生まれ寺町通(てらまち)の
         度量衡店に天秤ありつ
           河野美砂子『無言歌』

 梅雨時の蒸し暑い京都に居て河野美砂子の歌集『無言歌』を読んでいると、短歌とは微細な対象や些細な異和感を表現するのに適した文学形式だとつくづく思う。そう思わせる歌集なのである。たとえば掲出歌を見てみよう。この歌をほんとうに味わうには、京都の寺町通は茶屋や画廊や骨董店などが並ぶ昔を感じさせる通りだということを知っている必要がある。だから歌に登場する度量衡店も、近代的なピカピカの店ではなく、お爺さんとお婆さんが細々と経営している古びた店でなくてはならない。硝子の引き戸を開けて入るような店である。度量衡店だから天秤を売っているのは当然なのだが、もちろんこの歌のポイントは上句の「冬の陽ざしにおもたさ生まれ」にある。無風で明るい日差しが照る冬の日だろう。硝子越しに店の中に降り注ぐ透明な日差しを見て、そこに重さが生まれると感じたのである。この重さはほんの数グラムか数ミリグラムの微細な重さでなくてはならない。店のなかの天秤はわずかにどちらかに傾ぐかのように感じられる。これらすべては極めて微細な感覚的印象なのだが、それを捉えて歌に定着することによって、ひとつの視界が立ち上がる。これが短歌の内的生理である。

 作者の河野美砂子はピアニストで「塔」所属。1995年に「夢と数」50首で第41回の角川短歌賞を受賞している。受賞対象となった連作は改作されてこの歌集に収録されている。歌集のなかでまず目に付くのは、音楽とピアノ演奏に題材を採った歌である。

 どこからが音であるのか一本の指のおもさが鍵盤(キイ)になるとき

 椅子の距離やや遠くして弾きはじめ残響一・五秒をためす

 鍵盤のちがふ深さの沁みるまで指に腕に押さふる黒白を

 総休止(ゲネラルパウゼ) わが身は失せて空間のごとき時間が開(あ)くぽつかりと

芸術において異なるジャンルのあいだに架橋するのは一般に極めて難しい。音楽を言語で表現したり、思想を絵画で表現するには困難が伴う。河野が音楽を素材として作る歌が例外的に成功しているように見えるのは、音楽を単に音としてではなくピアニストとしての演奏者の肉体的感覚を通して把握しているからだろう。一首目では指でキーを押すときにどこからが音になるのかを問うているのだが、これは音楽を聴く側ではなく演奏する側に固有の感覚である。二首目では椅子とピアノの距離を調整しつつ理想的な残響を試しているが、ここにもまた空間に満ちる音を体感的に把握するスタンスがある。三首目は演奏会場のピアノを試し弾きしている情景だろう。一般の楽器奏者とは異なり、ピアニストはミケランジェリのような例外は別として、自分の楽器を持ち込むのではなく、ホールに備え付けの楽器を用いる。だから普段とはちがう鍵盤の深さを体で覚えているのである。ちなみにこの歌は角川短歌賞を受賞した「夢と数」では、「鍵盤のちがふ深さの沁みるまで黒白を指と腕に押さふる」となっていて、倒置語法で改作されている。四首目の総休止は音楽用語ですべての楽器が休止することを意味し、わずかな残響を除いて完全な沈黙となる。その休止に突入するさまを「空間のごとき時間が開く」と表現しており、時間の位相が空間へと転位されている様もなるほどと感じさせる。

 作者は音楽家なので音感が鋭いのは当然で、このため聴覚によって世界を把握する傾向が強く、その資質が短歌のおもしろさとなっている。たとえば次の歌である。

 またちがふ蝉が鳴きだし窓のそとひとつづつふえてゆく距離があり

 家の窓の外でさっきまで鳴いていた蝉とはちがう蝉が鳴き出す様を作者はまず耳で音として捉え、それを空間的な距離感として把握している。蝉の鳴き声のわずかな差異が空間的奥行きに転換されているのである。さきほどの総休止の歌では時間が空間へと転位されていたが、蝉の歌では聴覚と空間感覚の間に転位が見られる。そしてこの感覚の間での転位現象は河野の歌では広くまた種々見られ、あたかもボードレールの「万物照応」Correspondance か共感覚の世界を作り出しているのである。

 錯覚のごとく匂へり沈丁花は受験ののちの日を匂へりき

 手套(てぶくろ)にさしいれてをりDebussyの半音にふれて生(なま)のままのゆび

 野をわたる草色の和声(ハーモニー)目に見えて〈幻想〉はながい旅をはじめる

 濡れ紙を切りゆく鋏の感触はどこかうすみどりいろをおびたる

 朴落葉ここに大きく落ちてゐて落ちてゐる音手にひろひたり

一首目は嗅覚が過去の記憶と結びついている。この結合はそれほど珍しいものではない。二首目は音と触覚のあいだの共感覚である。Debussyの半音の音の記憶が手の指にまだ生々しく残っているという感覚は演奏者固有のものだろう。三首目では聴覚と視覚の、四首目では触覚と視覚の共感覚が見られる。五首目では落ちている朴の葉を拾うのではなく、落ちている音を拾うという所に表現の共感覚的転換があり、強い詩的圧縮という効果を生んでいる。

 このような次第であるから、河野の歌を読んでいると、歌に対象を定着させるのが目的なのか、それとも対象から受ける感覚を詠むのが眼目なのかわからなくなることがある。そもそも私たちは感覚によって対象を認知するのであるから、対象と感覚は表裏一体であり不即不離だと言える。しかし実際の表現の位相においては、おのずといずれかに重点が置かれるのかふつうである。ところが河野の歌では、対象から受ける感覚を起点として、それが他の感覚へと転位されてゆく様に面白味のかなりの部分があり、これは他にあまり見られない独自の世界で作者の個性である。またこのように感覚の玉突き衝突のような事態を微細に描くことにより、歌のなかに広い空間性が確保されていることも付言しておきたい。

 共感覚を持つ人は、音を聴いて色を感じたり、色を見て形を感じたりすることがあるという。最相葉月は著書『絶対音感』のなかで、絶対音感を持つ人の一般人には想像もつかない世界を克明に描いたが、共感覚を持つ人に見える世界もまた、われわれには想像もできないものだろう。河野が共感覚を本当に持っているとは思わないが、ピアニストとして音を中心に生活するうちに、眼には見えないものを感じる力を身に付けたのだろう。その力と短歌の生理との幸福な結婚により、この歌集が生み出されたのである。

 共感覚的世界を描いたものではないが、次のような歌にもまた、眼には見えないものを透視しようとする意志が感じられる。

 ふかみどりの瞳の猫の額(ぬか)に透く小(ち)さき鳥小さき横向きの鳥

 秋冷の午後を見とほす硝子戸の向うがむかし あまくゆがめる

 百ほどの白い綿棒頭(づ)をならべ尼僧のごとくしづけきまひる

 夜の樹々みごもるやうに匂ひたつ天皇の骨を埋めあるあたり

 花揺るる大盞木のある街の母住む家に喪の服がある

 石の面を秋のはじめの水ながれ流れつづける死者の名に触れ

 特に二首目のガラス戸の向うに過去を幻視する感覚や、四首目の天皇陵の木立に身籠もるような匂いを感じる感覚は印象に残る。歌集題名の「無言歌」は一義的にはメンデルスゾーンの楽曲を指すが、あとがきにも書かれているようにもう少し広い意味で使われており、作者にとっては世界のすべてが言葉なく何かを歌うものと捉えられているのだろう。作者のスタンスをよく表す題名である。