第281回 笹原玉子『偶然、この官能的な』

切れ長の目をしてゐるね半島の朝、瞼の縁でゆれるバラソル

笹原玉子『偶然、この官能的な』

 

 初句の「切れ長の目をしてゐるね」は終助詞「ね」によって会話だと知れる。おそらく男性が女性に向かってそう言ったのだ。場所はどこかの半島で、時刻は朝である。半島は世界にごまんとあるのでどこだかわからず、どこでも当てはまる。しかしここはシンガポールのラッフルズホテルあたりを想像しておきたい。パラソルという単語から避暑地を連想するからである。下句の瞼の持ち主は男性から「君は切れ長の目をしているね」と言われた女性だろう。すると避暑地の朝の恋の予感の場面ということになる。

 意味のみに頼って読み解くとそのようになるが、韻文は意味と形式の融合体であり、時には意味より形式が優ることもある。目につくのは三句「半島の朝」の字余りである。小池光が何度も力説しているように、三句の字余りはふつう御法度だ。三句は上二句と下二句を繋ぐ蝶番の役目を担い、歌の内的韻律を形成する。しかも掲出歌ではその後に読点まで打ってある。明らかに作者は三句から蝶番としての役割を剥奪して、上三句と下二句を切り離したいのだ。師の塚本邦雄譲りの「辞の断絶」である。これは上二句と下二句とで人物が交代していることに対応する。三句が蝶番の役目を果たさなくなると、内的韻律の凝集力がなくなり、歌は溶けたゼリーのように外に流れ出す。この「外への流出」が笹原の短歌の大きな特徴なのである。

 『偶然、この官能的な』は、第一歌集『南風紀行』(1991年)、第二歌集『われらみな神話の住人』(1997年)に続く第三歌集である。書肆侃侃房のユニヴェール叢書の一巻として2020年4月に刊行された。第二歌集から実に23年の歳月が流れている。あとがきによれば、敬愛する山中智恵子と師の塚本が相次いでこの世を去ってから、作歌の意欲をすっかり喪失し、10年余のブランクがあったという。栞には林和清、佐藤弓生、石川美南が文章を寄せている。

 笹原の第一歌集と第二歌集は2006年 5月に本コラムの前身「今週の短歌」で取り上げて批評した。もう14年も前に書いた文章をあらためて読み返してみると、ほとんど付け加えるものがないことに驚く。ならば本稿はこれで擱筆となるのだが、笹原の歌に変化がまったくないわけではなく、私も昔は気づかなかったこともあるのでしばらく続けて書くことにする。

 栞文で石川美南が、図書館で歌集を借りては短歌をノオトに書き写していた頃、笹原の『われらみな神話の住人』は愛読書のひとつだったと書いている。これを読んでなるほどと得心するところがあった。笹原と石川の短歌に共通するのは「物語性」である。石川は笹原の歌に自由に羽ばたく物語の想像力を見たのだろう。

犬戎けんじゅうの頭目なれば文盲にして星辰の列すべて暗んじ

みづいろにひたされつづける廊下を歩くこの天体の淵のあたりを

およびから滑る骰子さいころ 卓上が砂漠へつづくアレキサンドリア

みそなはせ宴もたけなはやうやくに流竄の帝のご登場

形代かたしろは詩歌ばかりの島なれば軽羅のむすめがとほく手招く

 一首目の犬戎は古代中国の周辺民族で、定家が「紅旗征戎非ズ吾事」と書いた西戎の一部族。三首目の「および」は指のことで、アレキサンドリアは現在のエジプトにあるヘレニズム文化の中心他。四首目の流竄の帝はおそらく隠岐島に流された後醍醐天皇だろう。五首目の形代は紙の人形に厄を移して川に流すもの。いずれも歴史の時の流れと地理の空間的広がりを縦横無尽に跨ぎ越して、一首の中に物語を紡いでいる。物語性の強い歌人というと、井辻朱美と紀野恵がすぐ頭に浮かぶ。

陶製の浴槽バスに体をはめこみて森の国カレドニアでの暮れぬたそがれ 井辻朱美『水晶散歩』

中国の茶器の白さが浮かぶ闇ここ出でていづれの煉獄の門

王女死せし砂漠のうへを吹き来し吾がほそ道の火の躑躅揺る 紀野恵『架空荘園』

女東宮にょとうぐうあれかし庭に雀の子遊ばせてゐる二十五、六の

 井辻はファンタジー文学の研究者であり、もともと物語は得意なテリトリーである。また紀野においてはその詩想の高踏性が物語と親和性が強い。井辻や紀野の歌が短いながらも一行の物語を語っているのにくらべて、笹原の歌の物語はその未完性と断片性にある。笹原は一つの物語を語り終えることをめざしておらず、むしろ物語を未完のままにし断片化することによって、歌を外へと開いている。自身次のように詠んでいるとおりだ。

大鴉さいごの章を銜へ来よ此処は未完のものがたりゆゑ

 もうひとつ注目されるのは、言葉を用いて歌を作っているにもかかわらず、言葉以前への憧憬が繰り返し述べられていることである。

まだことば生まれぬまへに祈りはあつた綺羅めく空に膝を折りし日

身ぬちにて昏くさゆらぐ月のみづうみ言の葉をまだ知らぬさひはひ

 言葉がまだない昔に人間はより良き状態にあったというのはルソーの『言語起源論』を思わせる。言葉を自在に操る達人ならばこそ、言葉が捉えきれない始原の意味に憧れるのかもしれない。それは次のような歌にも繋がっているようだ。

いつよりかわれらひそかにもちしは心 神の訪ふ日の木末こぬれに隠し

 本歌集を読んで私が心惹かれたのは次のような歌である。このような人生詠は以前の歌集にはあまり見られなかったものだ。

 

のちの世はよみひとしらずの詩となりてこどくなあなたの灯火の友に

うつつでは忘れられたるゆめみどり私のノオトでたゆたふことを

放物線そのはじまりが水滴でをはりが風跡そんな一生ひとよ

ひとはゆめみる儚ごと もみぢならもみぢのかたちに散るまでを

 あとがきに「このつたない歌集がたとえば深夜、孤独な人の灯火の友にでもなればそれにまさる喜びはありません」と書かれているので、一首目はその願いをストレート詠んだ歌である。「自分の歌が後の世で詠み人知らずとならんことを」という願いは、「消私」の願望に他ならない。つまり作者は〈私〉とは何ほどのものでもないと思っている。ならば当然、短歌は自己表現の手段ではない。笹原の短歌の背後に「たった一人の私」を求めても無駄である。かくのごとくに笹原は近代短歌の王道とは異なる道を歩んでいるのである。

 では笹原にとって短歌とは何かということが二首目に詠まれている。「ゆめみどり」は蝶の古名で、今はもう忘れられた古い名だ。効率と営利追求の現代社会にゆめみどりの居場所はない。ならば私のノオトの中に安らぐがよい。これが笹原にとっての短歌である。

 三首目と四首目は人生詠に分類できる。特に四首目は心に沁みるが、若い人にはなかなかわからないかもしれない。「紅葉なら紅葉のかたちに散るまで」というのは、人生の残り時間を数えるようになってわかる境地である。

森のみどりそれより空のふかみどりしたる罰か手のひらに森

パンゲアにいつの日か帰ることあらむとほき始祖も知らぬ悔恨

ゆたけしな黒髪さわぐ秋篠ゆ朱色の櫛を拾ふゆふぐれ

かの御手みてに掴まれたくて蒼穹にさしいれてみるとがふかき手を

耳底じていはもみづうみに聴くセレナーデが奏でしかはるかなるねぎ

悦楽園園丁がのこす花式図は緋色の迷路シラクーサ

花積みの舟が港に着いた朝こめかみからまづ冷える如月

 特に印象に残った歌を引いた。いずれも塚本邦雄が「上質の不可解」と評した笹原短歌の美質を遺憾なく発揮している歌である。意味を説明しろと言われると言葉に窮するが、意味を超えた明滅するイメージの美しさがある。「悦楽園園丁」や「花積みの舟」はいかにも塚本好みだ。

 中でも特に印象に残ったのは次の歌である。

ふるさとで綺麗な着物をきて生きる おほよそのことはあとのゆふぐれ

 「おほよそのことはあとのゆふぐれ」と言い切る潔さが素晴らしい。笹原の短歌は「自我の詩」である近代短歌の王道からはずいぶん外れた歌なので、決して短歌シーンの主流になることはないだろう。それは本人がいちばん自覚しているにちがいない。そのうえで「主流とは何ほどのもの」というつぶやきが聞こえて来そうである。

 

154:2006年5月 第3週 笹原玉子
または、意味が外部へ溶解してゆく物語性

十指とふこの十全なかたちのゆゑに      
     かなしみのくる秋の食卓
        笹原玉子『われらみな神話の住人』

 世に難解な短歌というものがあるが、それとは別に不思議な短歌というものもまた存在する。笹原の短歌はその代表格であり、師の塚本邦雄は「良質の不可解」と断じたという。どれほど不思議かは実際に笹原の歌を見てみればわかる。

 色鉛筆が折れてばかりゐる春がくる いつそあつまれやはらかきもの 『南風紀行』

 鶴の骸は折鶴を折るやうに 思ひ出はハンカチを畳むやうに

 乙女達が花冠を編みをはるころ丘は陸よりしづかにはなれる

 ひと夏の蝶の骨もてつくらるる首飾りして最後の恋を

 雪が舞ふ よこたはりゐる父の手に識れるかぎりの蝶の名を書く

第一歌集『南風紀行』(1991年)から引用した。写実からはほど遠く、かといって心象風景でもなく、一首全体が夢想の断片か物語の一片のごとき観を呈している。近代短歌の方程式である叙景と叙情の対位法、もしくは永田和宏の言う「問いと答えの合わせ鏡」の構造はこれらの歌には皆無であり、読者は一首の中のどこを繋留点として全体の意味を構築するべきか判断できず、いわく言い難い宙吊り感覚に捕われる。そう感じたとき読者はすでに笹原の言葉の魔術の術中に墜ちているのであり、解釈過程における宙吊り感覚が生み出す意味の空白に、ポエジーがするりと滑り込むという仕掛けなのである。

この仕掛けを実感するために、写実派の吉川宏志の歌と比較してみよう。

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥  『海雨』

吉川の歌に夢幻的要素は皆無である。夕暮れ時、電線に留まっている鳥が一羽また一羽と塒に飛び去る光景を詠んだ歌で、歌意は解説の要もないほど判明である。私たちは歌の言葉が立ち上げる世界像と、現実に私たちが体験により知っている世界像のあいだに、安定した対応関係を確認する。こここに意味の宙吊り感覚はない。では吉川の歌のどこを味わうべきかと言うと、作者が現実に目にしたと思われる鳥が一羽また一羽と飛び去る様を「引き算を繰り返しつつ」と表現した所にある。しかるに笹原の歌を前にしたとき、このような解釈過程を辿ることはあらかじめ拒絶されているのであり、そのような歌の造りにどうしても馴染めない人がいることは当然予想される。吉川の歌も笹原の歌も、言葉によって組み上げられた心的世界であることは同様なのだが、それが現実世界(と私たちが信じているもの)との対応関係へと誘うのか、その回路を意図的に遮断するのかのちがいが、言葉に対するふたりの歌人の態度の差なのである。

 第二歌集『われらみな神話の住人』(1997年)でも笹原のこのような作歌態度は不変であり、それは笹原の歌人としての生理そのものなのだろう。

 その踝から濡れてゆけ 一行の詩歌のために現し世はある

 白馬(あを)にまたがり野を焼きはらふいもうとは異教徒だった、断髪の

 霧の日に振ればはつかに鳴りはじむカランコロンとそんな空函

 われらみな神話の住人。風の鎖につながれてそよぐ岸辺の

 この髪だ、きみのからだでみづうみのにほひもつともしてゐるところ

 秋を汲まばや旅人よ深井には今日をいのちの蛍火の群れ

 骨組みのいとやはらかき身をもてばみんなみの風、風の一枚

一首目の「一行の詩歌のために現し世はある」という断言は、芸術至上主義の言挙げであり、第二歌集の巻頭に置かれたこの歌は、作者の信条表明と受け取ることができよう。

 笹原の短歌で特徴的なのは、短歌定型へと凝縮して収斂するよりも、定型の韻律から逃れ去ることで、一首を詩の世界へと開く態度が顕著に見られることである。笹原にとって短歌とは、おそらく「一行の詩」なのであり、一首の核へと内的に収斂してゆく凝集性が希薄である。それよりも、セピア色のインクが紙に滲んでゆくように、一首の外へと広がる詩的世界へと意味を溶解させようとする力学が働いているように思える。このことは次のようなタイプの歌に顕著に感じられる。

 孤児がうつくしいのは遺された骨組みから空が見えるからです  『南風紀行』

 みんなみのましろき町はあかるくて目隠などして遊んでゐます

 月桂樹のしたでルカ伝を読むことが夏期休暇の宿題です

 そのかみの私の星は三分の光の洪水に溺死しました  『われらみな神話の住人』

 ここはくにざかひなので午下がりには影のないひとも通ります

 主に「です・ます調」で書かれているこれらの歌には、もはや五・七・五・七・七の短歌韻律はなく、まさしく一行詩となっている。内的リズムによる凝集性がある場合には、短歌の意味は一首の内部へと収斂するが、それがない場合には意味は逆に拡散する傾向がある。そうすると上のような歌は、唐突で尻切れとんぼの散文であるかのごとき相貌を呈するのだが、文脈による意味の充填があらかじめ拒まれているため、読者は語られていないより大きな詩的世界の断片だと理解せざるをえない。「一首の外へ広がる」というのはこのような意味形成過程をいうのである。より短歌的韻律を備えた歌群のなかに、上のような一行詩が織り交ぜられている。そうすると従来の短歌文脈で読める歌すらも、その韻律的凝集性に疑いが生じてくる。読者は今までの短歌文脈で読んで来た歌もまた、実はその本質は一行詩ではなかったかと感じるてしまうのである。

 『われらみな神話の住人』の栞に文章を寄せた井辻朱美は、笹原短歌における用言の多さと速度感を指摘した。用言の多さは体言止めの少なさの裏返しであり、体言止めが一瞬の光景をあたかも一幅の絵画であるかのごとく定着するのに適した文体であるのにたいして、用言による結句は一首に物語性を帯びさせ、時間の流れを感じさせる。井辻が指摘した速度感はここに由来する。

 では笹原は何の物語を語りたいのか。それはおそらくシェラザードのように千夜一夜語っても語り尽くすことのない「〈私〉と世界の物語」であろう。笹原にとっては、写実によって世界の一隅を切り取って提示することで世界と〈私〉の関係性を暗示するという手法はまどろっこしいのであり、いきなり主体的立場から「〈私〉と世界の物語」を語ろうとするのである。これは大胆不敵な試みと言わねばならない。笹原の歌が描く世界に参入することができるのは、作者自身が認可した人に限られるだろう。しかしお墨付きを得てその世界に足を踏み入れた人は、シェラザードのように倦むことなく、百億の昼と千億の夜にわたって、星々の誕生と消滅の物語を語る人の声を聴くことになるのである。その世界の住人はおそらく不死だろう。それは物語なのだから。