作用の
仕天は
作極の
しずみを
焦す
いざつむえ
友原康博
仕天は
作極の
しずみを
焦す
いざつむえ
友原康博
今回の話題は歌集ではなく、都築響一『夜露死苦現代詩』(ちくま文庫)である。タイトルは「よろしく現代詩」と読む。「夜露死苦」は今ではもはや絶滅危惧種となった暴走族が、特攻服に刺繍したり、壁にペンキで落書きした当て字だ。
都築は1956年生まれの写真家・文筆家で、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』という写真集で写真界最高の権威とされる木村伊兵衛賞を受賞している。『TOKYO STYLE』という写真集は私も持っているが、東京に暮らす若者のアパートの室内を淡々と撮影した写真集で、見ているだけでものすごくおもしろい。『夜露死苦現代詩』は街角にころがっている詩や、ふつう詩とは見なされない言語表現を拾い集めたものである。死刑囚の作った俳句、老人介護施設で暮らす認知症の老人が垂れ流す言葉、玉置宏の歌謡曲の司会、暴走族の特攻服に刺繍された文章、見せ物小屋の呼び込み口上、湯飲み茶碗に印刷された説教詩、ラップ音楽のリリックなどが取り上げられている。冒頭に掲載したのは、統合失調症の青年がノートに書き綴った膨大な詩の一編である。断っておくが誤変換ではなく、原文のままである。
都築自身はこの言葉を使っていないが、本書で都築が目ざしたのは考現学だろう。考現学とは、早稲田大学の建築学教授であった今和次郎が、考古学をもじって作った造語だ。考古学とは言うまでもなく、遺跡などを発掘して古い時代のことを調べる学問だが、これにたいして考現学とは、今まさに私たちが生きている現代そのものを観察対象とする学問である。今は1923年の関東大震災のあと、焼け野原に廃材を寄せ集めて作られたバラック建築を見て回り、住むための家という建築の根源的あり方を見た。今が提唱した考現学は、その後、赤瀬川原平のトマソン、藤森照信らの路上観察学会・建築探偵へと発展していった。ちなみに考現学にはもうひとつのルーツがあり、京都大学人文科学研究所の多田道太郎らを中心とする現代風俗研究会がそれである。
『夜露死苦現代詩』はまさに詩の考現学と言えるのだが、本書のもうひとつの隣接領域はアウトサイダー・アートである。アウトサイダー・アートとは、主に知的障害や精神疾患などを抱えた人や、正規の美術教育を受けていない市井の人々が生み出す美術作品をさす。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン – 20世紀美術とアウトサイダー・アート」で広く知られるようになった。ちなみに私はこの展覧会を見ており、衝撃を受けてぶ厚いカタログまで買って帰った。今では現代美術のアイドルと化した草間彌生を初めて見たのもこの展覧会である。草間は当時はまったく無名だった。この展覧会には、ジュネーヴの霊媒エレーヌ・スミスが描いた火星の風景や、フランスの郵便夫シュヴァルの理想宮の模型も展示されていた。『夜露死苦現代詩』には、都築が「痴呆系」と呼ぶ認知症患者の吐き出す言葉の洪水や、統合失調症の青年が綴る詩も、現代詩のひとつの姿として収録されている。
都築の主張は前書きに書かれているが、要約すれば次のようになる。聞いてもちっとも気持ちよくならない現代音楽や、見ても楽しくない現代美術のように、読んでもわからない現代詩が溢れている。そもそも現代詩には読者がいるのかどうかも疑わしい。詩は死んではいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。街に出れば、ストリートという生きた時間が流れる場所で、詩人とは一生呼ばれないであろう人たちが、言葉の直球勝負を挑んで来る。そういうものを拾い上げたい。こういうことだろう。
街歩きと路上観察を趣味とする私には、『夜露死苦現代詩』は実におもしろい本なのだが、俳句・短歌などの短詩型文学や現代詩にたずさわる人にとっては、考えさせられることの多い本でもある。それは〈詩と詩ではないものの境界線はどこにあるか〉という問題を突きつけられるからである。
たとえば次のような暴走族の特攻服に刺繍された韻文である。
あるいは駄菓子屋で売られている点取占いのくじに書かれた文章だ。
あるいは統合失調症の青年が書き殴った詩である。
『夜露死苦現代詩』のなかでとりわけ感銘深いのは、死刑囚の俳句と、自死者の残した遺書だろう。本書には『異空間の俳句たち』(海曜社発行、雄山閣発売、1992)に収録された俳句が紹介されているが、これ以外にも佐藤友之『死刑囚のうた』(現代書館、1996)という短歌を収録した本も刊行されている(ただしいずれも絶版で古書でも入手は困難)。
『夜露死苦現代詩』を通読すると「人はなぜ表現するのか」という根源的な問いかけが立ち上がる。私もどうしても答を知りたいと願っている問である。
独房で俳句を作る死刑囚は、作品を後世に残したいと願って作句したのではあるまい。極限状態に置かれた境涯がおのずと言葉へと向かわせたのである。池袋の老婆も誰かに読まれることを期待して日記を綴ったわけではない。吐き出さねばすまない表現衝動に追い立てられるように鉛筆を握ったのだろう。「窓緑なかのあたしは赤裸」「音の出る坂へバスで行きたいんですが」「おまえのおれをかえせ」など、意味不明の言葉を機関銃のように吐き出す痴呆老人に至っては、もはや通常に意味における表現という領域を超えている。
極限状態においても人は言葉を発する。それが他者へと向けられた意味ある言葉でも、他者へと向けられず虚空に吸い込まれる意味のない言葉でも、人は言葉を発する。人類は言語を獲得して初めてホモ・サピエンスになったと考える人類学者もいる。もしそれが正しければ、人の属性の最も根源的な階層に言葉は埋め込まれていることになる。こう考えれば、極限的状況において人が言葉を発することに不思議はない。そして極限状況で発せられた言葉が私たちの心に届くことにも何ら不思議はない。
『夜露死苦現代詩』を読んでいると、このように思われてくるのである。
都築は1956年生まれの写真家・文筆家で、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』という写真集で写真界最高の権威とされる木村伊兵衛賞を受賞している。『TOKYO STYLE』という写真集は私も持っているが、東京に暮らす若者のアパートの室内を淡々と撮影した写真集で、見ているだけでものすごくおもしろい。『夜露死苦現代詩』は街角にころがっている詩や、ふつう詩とは見なされない言語表現を拾い集めたものである。死刑囚の作った俳句、老人介護施設で暮らす認知症の老人が垂れ流す言葉、玉置宏の歌謡曲の司会、暴走族の特攻服に刺繍された文章、見せ物小屋の呼び込み口上、湯飲み茶碗に印刷された説教詩、ラップ音楽のリリックなどが取り上げられている。冒頭に掲載したのは、統合失調症の青年がノートに書き綴った膨大な詩の一編である。断っておくが誤変換ではなく、原文のままである。
都築自身はこの言葉を使っていないが、本書で都築が目ざしたのは考現学だろう。考現学とは、早稲田大学の建築学教授であった今和次郎が、考古学をもじって作った造語だ。考古学とは言うまでもなく、遺跡などを発掘して古い時代のことを調べる学問だが、これにたいして考現学とは、今まさに私たちが生きている現代そのものを観察対象とする学問である。今は1923年の関東大震災のあと、焼け野原に廃材を寄せ集めて作られたバラック建築を見て回り、住むための家という建築の根源的あり方を見た。今が提唱した考現学は、その後、赤瀬川原平のトマソン、藤森照信らの路上観察学会・建築探偵へと発展していった。ちなみに考現学にはもうひとつのルーツがあり、京都大学人文科学研究所の多田道太郎らを中心とする現代風俗研究会がそれである。
『夜露死苦現代詩』はまさに詩の考現学と言えるのだが、本書のもうひとつの隣接領域はアウトサイダー・アートである。アウトサイダー・アートとは、主に知的障害や精神疾患などを抱えた人や、正規の美術教育を受けていない市井の人々が生み出す美術作品をさす。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン – 20世紀美術とアウトサイダー・アート」で広く知られるようになった。ちなみに私はこの展覧会を見ており、衝撃を受けてぶ厚いカタログまで買って帰った。今では現代美術のアイドルと化した草間彌生を初めて見たのもこの展覧会である。草間は当時はまったく無名だった。この展覧会には、ジュネーヴの霊媒エレーヌ・スミスが描いた火星の風景や、フランスの郵便夫シュヴァルの理想宮の模型も展示されていた。『夜露死苦現代詩』には、都築が「痴呆系」と呼ぶ認知症患者の吐き出す言葉の洪水や、統合失調症の青年が綴る詩も、現代詩のひとつの姿として収録されている。
都築の主張は前書きに書かれているが、要約すれば次のようになる。聞いてもちっとも気持ちよくならない現代音楽や、見ても楽しくない現代美術のように、読んでもわからない現代詩が溢れている。そもそも現代詩には読者がいるのかどうかも疑わしい。詩は死んではいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。街に出れば、ストリートという生きた時間が流れる場所で、詩人とは一生呼ばれないであろう人たちが、言葉の直球勝負を挑んで来る。そういうものを拾い上げたい。こういうことだろう。
街歩きと路上観察を趣味とする私には、『夜露死苦現代詩』は実におもしろい本なのだが、俳句・短歌などの短詩型文学や現代詩にたずさわる人にとっては、考えさせられることの多い本でもある。それは〈詩と詩ではないものの境界線はどこにあるか〉という問題を突きつけられるからである。
たとえば次のような暴走族の特攻服に刺繍された韻文である。
たとえこの華散ろうとも見事な七五調で、最後だけ七七になっている。都築によれば暴走族のあいだでも他人の文章をパクるのはタブーなのだそうだ。だからこれは高校中退した左官見習いの青年が、ない脳みそを絞ってひねり出した韻文なのである。表現の稚拙さや陳腐さをあげつらうのはたやすいが、それが逆に、日本語が内蔵している最大公約数的コトバの貯金をあぶり出してくれる。
一生一度の青春を
地獄で咲かせて天で散る
自分で選んだ道だから
命尽きても悔いは無し
我ら華麗な暴走天使
あるいは駄菓子屋で売られている点取占いのくじに書かれた文章だ。
鉛筆で書くのはきらいだがけづるのはすきだこういったくじの文句と谷川俊太郎の詩を区別するのは難しい。ひとつひとつ別のくじの文句だが、こうして並べると全体が一編の詩のようにも見えてくる。並べ替えればまた別の詩が出来るのは、偶然性の音楽のようだ。
おいもを食べすぎてお尻がやかましい
犬の背中にのってはしりたい
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった
あるいは統合失調症の青年が書き殴った詩である。
小さく小さく小さく微生物のようにこうなるともうはっきり現代詩だ。違いはただ、これらのコトバたちは譫妄状態で機関銃のように吐き出されたもので、世間に発表することをまったく考えずに生まれたコトバたちであり、現在、中年になり症状も穏やかになった本人が、あれはすべて病気が書かせたもので、今の自分には関係ありませんと、著者性すら否定しているという点である。つまりこれらのコトバたちが生まれた位相は「詠み人知らず」ではなく「詠み人おらず」で、作者主体を喪失したコトバなのだ。作者は不在で、コトバだけが時空間を永遠に漂い続ける。この浮遊感覚は独特のものだ。
いつも動いている微生物どうしが
乱動を起す
小さな凶器が血を流す
ガラスビンの中は赤くおごれている
ガラスが波乱する
化学者は白い服を赤い血で
そまっている (後略)
『夜露死苦現代詩』のなかでとりわけ感銘深いのは、死刑囚の俳句と、自死者の残した遺書だろう。本書には『異空間の俳句たち』(海曜社発行、雄山閣発売、1992)に収録された俳句が紹介されているが、これ以外にも佐藤友之『死刑囚のうた』(現代書館、1996)という短歌を収録した本も刊行されている(ただしいずれも絶版で古書でも入手は困難)。
綱よごすまじく首拭く寒の水 和之句が作られて状況を思えば沈黙するしかない俳句だが、これよりさらに衝撃的なのは「池袋母子餓死日記」という章で語られている事件である。1996年4月27日、池袋の古びた木賃アパートの一室で77歳の母と41歳の息子が餓死しているのが発見された。息子には障害があり、一家の収入はわずかな老齢年金だけだったという。少ない収入の中から電気代や家賃は律儀に払い、生活保護を受けるのは申し訳ないと餓死したらしい。死後、ノートにびっしりと書かれた老母の日記が発見された。
叫びたし寒満月の割れるほど 西武雄
秋天に母を殺せし手を透かす 祥月
今日までで、私共の食事は、終りと思っていたところ、子供が、明日から、お茶丈では苦しいからとて、毎日うすいせんべいを、三枚食べているのに、一枚明日のに残すと言って食べないで、残したが、私は、毎日、一枚のせんべい丈を、朝と、後からとの二回にわけて食べているので、明日に残すものがない、子供は、毎日、ひもじいのを、じっと、ガマンして、不足も言わないし、気げんも悪くしてないので、大変、助かるが、今後の事が、不安である。(後略)読点が異常に多く切れ目がなくて、ひとつの思考が次の思考を呼び寄せるように、うねるように続いていく特異な文体である。読んでいるとふと異空間に彷徨い出すような感覚すら覚える。日本語散文の頂点のひとつが「三日とろろおいしゅうございました」で始まるマラソンランナー円谷幸吉の遺書であることに同意する人は多い。池袋餓死老母の遺書にも形容し難いライブ感と、手に掴めるほどの言葉の生々しさが漂っていて、言語の極北を見る思いがする。試しに政治家や官僚の内容空疎な言葉と比べてみるがよい。
『夜露死苦現代詩』を通読すると「人はなぜ表現するのか」という根源的な問いかけが立ち上がる。私もどうしても答を知りたいと願っている問である。
独房で俳句を作る死刑囚は、作品を後世に残したいと願って作句したのではあるまい。極限状態に置かれた境涯がおのずと言葉へと向かわせたのである。池袋の老婆も誰かに読まれることを期待して日記を綴ったわけではない。吐き出さねばすまない表現衝動に追い立てられるように鉛筆を握ったのだろう。「窓緑なかのあたしは赤裸」「音の出る坂へバスで行きたいんですが」「おまえのおれをかえせ」など、意味不明の言葉を機関銃のように吐き出す痴呆老人に至っては、もはや通常に意味における表現という領域を超えている。
極限状態においても人は言葉を発する。それが他者へと向けられた意味ある言葉でも、他者へと向けられず虚空に吸い込まれる意味のない言葉でも、人は言葉を発する。人類は言語を獲得して初めてホモ・サピエンスになったと考える人類学者もいる。もしそれが正しければ、人の属性の最も根源的な階層に言葉は埋め込まれていることになる。こう考えれば、極限的状況において人が言葉を発することに不思議はない。そして極限状況で発せられた言葉が私たちの心に届くことにも何ら不思議はない。
『夜露死苦現代詩』を読んでいると、このように思われてくるのである。