第17回 須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

あめつちはいちにんのため季(とき)を繋(と)めくろき扇に撒かれし雲母
                 須永朝彦『定本須永朝彦歌集』
 「いちにん」は王朝和歌の時代ならば「上御一人」すなわち天皇を指すが、ここではそうではなくある特定の人と取るべきだろう。天地がその人のために時間を停めるというのであるから、造化の寵を一身に承けた人である。「雲母」は「きらら」と読みたい。黒い扇に撒かれた雲母は天から降る霰の喩と取る。すると誰かの晴れがましい席に、季節外れの霰が降った情景を詠んだ歌となる。「時」を「季」と書くことにより時間ではなく季節の移ろい滲ませ、「繋める」と書いて天を擬人化するその技巧もさることながら、黒い扇に純白の霰を載せる美学は到底現代のものではない。新古今の和歌に傾倒する作者ならではであろう。
 今回底本としたのは昭和53年刊行西澤書店版の『定本須永朝彦歌集』である。366首を収めた著者自選のアンソロジーで、郡司正勝、三橋敏雄、中村苑子、松田修、多田智満子、岡田夏彦が栞文を寄せているが、その多くが既に泉下の人となっているのが感慨深い。内表紙に水茎鮮やかな著者の自署がある。帯文は加藤郁乎。
 須永朝彦の経歴は韜晦の彼方に没し戦後すぐの生まれとしかわからない。あとがきによれば中学生の頃から詩歌に親しみ、詩のごときものを持参して高橋睦郎の披見を仰いだところ「これは詩に非ず」と断じられ、塚本邦雄の『緑色研究』と葛原妙子の『葡萄木立』を示されたのが真の短歌との出会いだったという。自作を版木に彫りつけて私家版歌集を制作し、あちこちに送りつけて塚本の知遇を得ることになったとある。その現物の写真は石神井書林の古書目録74号に見られる。第一歌集『火の鳥』(昭41)がそれで著者20歳の折である。「髣髴とラヴェルのボレロ夜を犯し西班牙の戀少年に偏る」「西班牙は太陽の死ぬ國にして許すこゝちすソドムの戀も」の2首が見える。その隣には限定9部制作の肉筆歌集『九十九夜』(昭49)の写真があり、流麗な毛筆が見事である。
 『血のアラベスク』『就眠儀式』などの吸血鬼小説集もある須永は耽美超俗の人であり、もとより自作の世間への流布を求めていないようだ。こういう人の場合、作品よりも本人のエピソードが一人歩きする傾向があり、事実本歌集の栞も須永の作品に触れた文章よりその人となりを綴るものばかりである。曰く、古今東西の文学はもとより映画・シャンソン・バレエに造詣の深い博覧強記の人、豊富な話題で座を賑わせる座談の名手、長髪白皙の美青年、等々。なかでも人が語るのが塚本邦雄との関係で、一時は塚本の寵童でありながら、何かの折に師の逆鱗に触れて破門されたという。「あんなに何から何まで似ていては、一つ大きく違うところがあったら破門せざるを得ないだろう」という高柳重信の言葉がすべてを語っているのかも知れない。
 さてその短歌世界であるが、いくつか歌を引いてみよう。
蓬原けぶるがごとき藍ねずみ少年は去りて夕べとなりぬ
掌に水銀の粒ころばせて空に架けたる戀を待つ夜
少女(おとめ)らはわれらが戀へ銀の針に咒文をこめて編む透編(レース)絲
祭逐ふ流浪に倦みて廻廊にもたれつつ聞く薔薇物語
無為の日のすさびと舊き西班牙の創ある地圖におとすわが錘(すい)
鬱(よわ)き陽に零りかこまるる一天の瞑りてもみゆ 曠野(あれの)と呼ばむ
ぬばたまの髪もまなこもつめたけれ扇の秋のなかの紅葉
 絢爛華麗な言葉の世界である。言葉の隅々にまで美意識が行き渡っており、自分が入ることを許したものしかこの世界に入ることができない、そういう世界である。美意識を同じくする人は狂喜乱舞して神の如くに崇めるが、そうでない人は全く受け付けないというように、評価が二分されるに違いない。「実人生は詠わない」と断言した師の塚本と同じく、作者の実生活の匂いは拭い去られていて、歌の中にあるのは冷たく輝く美の世界である。
 衆道の香りが漂う点も塚本によく似ている。
戦慄す トラックの幌わかものが縛められて運ばれゆくと
草原に兄とあひ寝むその草の草いきれもて絶えむと冀(ねが)ふ
薔薇匂ふ抒情の澱み若者の四肢はめざめむ 少女みにくし
いにしへのイクシオーンの水車刑わかものの四肢花のごとくに
朝露の消ぬ水無月のなかぞらに反るあをつばめ去年(こぞ)の夭者(わかもの)
 美を至上の価値とする芸術のための芸術を志向する人が衆道に傾くのは、natureを厭悪しartを佳しとするためである。芸術のための芸術 l’art pour l’artの創始者は疑いなくボォドレエルだが、人工楽園 Paradis artificielという題名からもわかるように、芸術による美を徹頭徹尾人工的なものと見なす。そんな芸術観を持つ人にとっては、子を産む女性はnatureの側に位置するのだと思われる。
 自分の美意識に叶ったものだけからなる世界を作り上げてその中に住まうなら、その人は至上の幸福を味わっているはずなのだが、唯美主義者にしばしば悲劇的様相が伴うのはいかなる理由か。須永の場合も例外ではないようである。
永劫の愛信ぜざるわが視野を燃ゆる色もて塗り潰したり
信ぜざることばを賭けて逐はれゆく禽獣のごとわが歌ふなれ
少年花月天(そら)にみがたし われもまた地獄めぐりのこの晧き額
ものみなに水のみなぎる秋を在り然も絶えざる渇きを歩む
 その謎を解く鍵は最後の歌の「絶えざる渇き」にある。そういえばボォドレエルにもSed non satiata「されど飽きたらずして」という一篇があった。唯美主義者が追い求めるのは理想の美であるが、その美が理想であるが故に遂には手の届かないものとして憧憬される。手が届かないからこそ理想なのだという逆説がここに成立する。かくて唯美主義者は絶えず渇仰する存在として自らを規定することになるのだ。絶対を希求する者の悲劇性であり、永遠の修羅であると言えよう。
 唯美の血脈はいつの世にもあるが、三島由紀夫・中井英夫・赤江瀑などの小説や、天井桟敷の美術も手がけた宇野亜喜良などが熱狂的に支持されたのは、60年代から70年代の半ばにかけての時代だろう。その時代に較べると現代ではいささか唯美の旗色は悪いように見える。なぜだろうか。つらつら考えるに、それは唯美主義が一種のユートピア思想だからではないだろうか。ユートピア思想は現実否定のベクトルの反対側に成立する。60年代から70年代初頭は、政治の世界でも世界革新の理想が信じられていた時代である。現実の彼方にある理想社会と絶対的美が支配する唯美の世界は、向かっている方向こそ違えいずれもユートピア的思考に支えられていると言ってよい。現実を否定する力が強いほどユートピアも遠く彼方に輝く。ところが現代ではそのように現実を力強く否定する力線が見あたらない。これが現代において唯美が根拠を持ちにくい理由ではないかと考えられるのである。
 さもあらばあれ。須永の詩歌の精髄を以て稿を締めくくるとしよう。
うちなびく草の穂なかに佇つ馬を乞ふ 薄明のさやぐ言葉に
詞華を翔ぶ鵆(ちどり)のきみが若青(わかあを)のうしほを浴ぶるつひのまぼろし
額(ぬか)の悲傷(いたみ)のみなもと 殺めらるるまで或は生くるかぎり少年
絶え入らむ窗の西なる磨硝子 青昏(せいこん)と稱(よ)びわが血の祓