第52回 尾崎まゆみ『明媚な闇』

うちがはにこもるいのちの水の色の青条揚羽みづにひららく
               尾崎まゆみ『明媚な闇』
 アオスジアゲハは羽全体が黒で、その中央に鮮やかなパステルカラーの青緑色の帯をまとっている。掲出歌はその帯の色を体内の水の色と見立てて表現した。「ひららく」は古語でひりひり痛いの意。羽を打ち飛ぶ様を、体内に抱える水に痛い思いをしていると見立てたものと読む。「ひららく」には蝶がひらひらと舞い飛ぶイメージが重ねられている。「うちがはにこもるいのちの水の色の」までは青条揚羽を導く序詞で、その調子も古典的で今様を思わせるゆったりとしたリズム感がある。三句六音の破調も手伝って、短歌定型の様式性が強く感じられる歌となっている。
 『明媚な闇』は昨年(2009年)末に上梓された尾崎の第五歌集。尾崎については本コラム「橄欖追放」の前身の「今週の短歌」で2003年7月に取り上げている。2005年に塚本邦雄が泉下の人となってからは、尾崎は魚村晋太郎林和清と並んで玲瓏の中心的歌人として活躍している。『明媚な闇』は「短歌研究」に連載した短歌を中心に、ほぼ編年体で構成された歌集である。
 あとがきに書かれているように、この歌集は作者の居住する神戸とその前に広がる瀬戸内の海を主要なテーマとしており、主題性が濃厚に感じられる。
水にまじはるひかりの春のすこし甘い苅藻川てふ風のかよふ道
瑠璃色の鵯越をまつすぐに空のふかみへ落ちてゆくなり
藻塩焼き残りし「枯野」海底にしづめてひびく潮のさやさや
時の道ときにつながる大観寺無量光寺の源氏稲荷に
 モダン都市神戸は古事記・万葉集を始めとして、伊勢物語・源氏物語・平家物語などの物語の舞台として、歴史の刻印を深く留める土地でもあり、その意味で神戸は「土地の精霊」(genius loci)に満たされた場所である。尾崎は土地の精霊に導かれて現在に過去を読み込む手法で歌を作っており、一首に物語の記憶を注入することによって、短歌言語と詩想の豊饒さを実現することに成功している。
 テーマ批評的に分析するならば、本歌集に最も頻繁に登場するのは水と光と闇である。なかでも闇は歌集題名に現れていることからもわかるごとく、現在の作者の心の有り様を端的に表現するものと思われる。
記憶には明るいはうと暗いはう、生きてゐるわたくしが思へば
水仙の芽は小指ほど暗闇をいだきては伸びあがるかたちに
からだ沁みとほるひびきはあたしから足首までの暗闇
ものを見るときのくらさにはなびらの散る雲母きららなす時の切れ端
空響くアレグロの風はたはむれに明媚な闇をふきぬけてゆく
 光と闇は生まれながらに双生児であり、光あれば闇ありまた闇あれば光がある。一首目を見れば尾崎の闇は主として記憶に由来することが知れる。遠くは1995年に阪神地方を襲った大震災の記憶であり、近くは師の塚本邦雄の逝去の痛みである。この世に人として生きる以上、光と闇をもろともに抱えねばならないという思いが作者にあり、それが歌となって迸る。三首目下句の減音破調が独特のリズムを生んでおり、また四首目の「雲母なす」と五首目の「空響く」が枕詞的に使われている点も注目される。
 師の塚本邦雄は前衛短歌の旗手から古典和歌の世界へと華麗に転身して見せたが、尾崎のまた古典への傾倒を深めているようだ。それは本歌集では頭韻による連作に見られる。例えば「ひいやり剥がす」と題された連作では、冒頭に「さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖のかぞする」という古今和歌集の歌が引用され、この歌の31文字から始まる歌が連作として構成されている。ただし最後の歌は「す」で始まり「る」で終わるので、合計30首による連作となる。いかにも新古今風の言語技法である。また第一歌集『微熱海域』、第二歌集『酸っぱい月』に散見された破調・句割れ・句跨りの前衛短歌的技法による個性的なリズム感も本歌集では影を潜め、塚本が開発した初句七音の歌はときおり見られるものの、古典調の流麗なリズムが全体を覆っている。
みづに文字書くように掻く真昼間のプールに水のからだ浮かべて
皮膚いちまい隔ててきつつ馴れにしはじんわり沁みるみづの揺らめき
さねさしさがを音にくづした超絶といはれる指のためのシャコンヌ
ひとすぢのひかりはがねの感触の来てやはらかく指にまつわる
白真弓春の弓張ありあけのあはく光を曳きて帰らな
 一首目の「書く」と「掻く」の言葉遊び、二首目の「きつつ馴れにし」の業平からの引用、三首目の本来は相模に掛かる枕詞「さねさし」、四首目の「ひとすぢ」「ひかり」「はがね」のh音の連続、五首目の「春」に掛かる枕詞の「白真弓」、「真弓」「弓張」の同音連続などの技法によって、言葉が日常言語の地平を離れて歌物語と古典和歌の歴史的地平へと押し上げられてゆく。読者は言葉のひとつひとつの曲がり角を曲がるたびに、日常的意味を超えた言葉自体の放つ光に触れる思いがする。
 歴史性を離れた歌群のなかでは、水泳やダンスをテーマとする身体性に基づく歌をおもしろく読んだ。「情熱の冥き」と題された歌群から引く。
薔薇の花びらの揉みあふ廃園に情熱の冥きつちふまずあり
わたくしのからだをまとふ骨はあり薄くひろがる肌にまみれて
初めてのステップを踏む人魚姫切りさかれたるやうな足首
ひかりを舐めて移る翳りをうしろへと摺り足シャッセ流れて締める足首
尾鰭またたゆたうやうにふうはりと立つ足首の先のふたひら
 何の説明もなく一首目を読んだら、歌意を取るのに苦労することだろう。上句「薔薇の花びらの揉みあふ廃園に」にとりたてて意味はなく、イメージ喚起のために置かれているのであり、「情熱」を導く長い序詞と見なしてもよい。「つちふまず」でダンスが詠まれていると知れる。二首目は体の中に骨があるという関係を逆転し、骨が体をまとうと捉えた点がおもしろい。ただ「まみれる」の使い方はどうだろうか。三首目はダンスのステップを陸に上がった人魚姫の足取りに喩えた歌。四首目でも「ひかりを舐めて移る翳りを」は序詞的な置かれ方をしており、本歌集では尾崎は短歌の様式性を強く意識しているようだ。五首目は足先を魚の尾鰭に喩えた歌。ほとんど意味がなく短歌定型のみが虚空に自立しているかのごとき趣があり、作者の重んじる所が見えるような歌である。「たゆたう」「ように」「ふうわり」のu音の連続が柔らかくゆったりしたリズムを作り出している点も見逃せない。
 最後に装訂に触れると、担当したのは今までに数々の美しい本を世に送った間村俊一。表紙装画は上ラインラントの画家の手になるLittle Garden of Paradise (1410年頃)という素朴な絵で、高い壁に囲まれ花が咲き乱れ小鳥が歌う楽園図である。拙宅のすぐ近くに恵文社一乗寺店という京都で最もユニークな書店のひとつがあり、ときどき「美しい本」というミニフェアを催すことがある。電子書籍の黒船襲来が叫ばれるこの時代に、美しい本をデジタル的にではなくアナログ的に手にすることは、人の世に数少ない喜びのひとつである。

059:2004年7月 第1週 尾崎まゆみ
または、光と闇の合わせ鏡で世界を知的に構築する短歌

花びらを掬ふてのひら染み透る
      面影はまだ指のあひだに

           尾崎まゆみ『酸つぱい月』
 邑書林の「セレクション歌人」叢書は、歌壇に暗い私にまだ馴染みのない歌人と出会う絶好の企画である。叢書12巻目として刊行された尾崎まゆみ集は、作者の第一歌集『微熱海域』のごく一部と、第二歌集『酸つぱい月』完本から構成されている。

 この叢書は巻末に詳しい作者略歴が添えられているのも特徴である。それによれば、尾崎は1955年生まれ、子供時代から文学に親しみ、1985年頃から短歌を作り始める。1987年塚本邦雄の「玲瓏」に入会。1991年に「微熱海域」30首で第34回短歌研究新人賞を受賞している。

 掲載歌はイメージの美しい歌なのだが、韻律の面であまり尾崎らしい歌とは言えない。歌集を読み始めて、なかなか作者の短歌世界に没入できないでいらいらするのだが、それは作者独特の文体のせいなのだとやがて気づくことになる。その文体に少し慣れて、尾崎がどのような工程を経て短歌を組み立てているのかがほの見えるようになると、その世界を味わうことができるようになる。それまで少し時間がかかるのだ。

 尾崎の文体の一番の特徴が、定型を守りながらも句割れ・句跨りを多用した破調のリズムだということは、大方の認めるところである。試しに尾崎らしい韻律の短歌をいくつか見てみよう。

 背中のくぼみばかりの並ぶ踏切を須磨行きの電車過ぎ昼過ぎ

 雨のまなざしの驟雨に消えさうな曼珠沙華またそり返る蘂

 月がふくらむまでの時間を両方の瞼上下をあわせてしまふ

 ひそかに眺められて三日月横顔の眠りの波へ呼吸合はせて

 一首目は33音の字余りである。自信はないが、一応定型に近い音数に区切ってみると、次のようになるだろう。音節数を数えやすくするため、拗音は現代風に表記する。

せなかのくぼみ(7)|ばかりのならぶ(7)|ふみきりを(5)|すまいきのでん(7)|しゃすぎひるすぎ(7)

 初句・二句が14音で破調なのに加えて句跨りがある。四句・結句は14音だが、ここにも語割れが見られ、全体として破調感の強い韻律である。ついでながら、「電車過ぎ昼過ぎ」には「紫野ゆき標野ゆき」の亡霊が揺曳しているようにも感じられる。

 残りの歌も同じように区切ってみる。二首目は31音で音数は定型だが、初句・二句に句跨りがある。

あめのまな(5)|ざしのしゅううに(7)|きえさうな(5)|まんじゅしゃげまた(7)|そりかへるしべ(7)

 三首目は33音の字余りで、初句・二句はどう区切ってよいのかわからないほど一体化している。

つきがふくらむ(7)|までのじかんを(7)|りゃうほうの(5)|まぶたじゃうげを(7)|あはせてしまふ(7)

 四首目は32音で、これも初句・二句のひと連なり感が強い。

ひそかになが(6)|められてみかづき(8)|よこがほの(5)|ねむりのなみへ(7)|こきゅうあはせて(7)

 小池光は「リズム考」(『街角の事物たち』所収)で破調の韻律を詳しく分析し、減音破調は増音破調に比べてパリエーションが圧倒的に少なく、そのほとんどが禁制であると指摘している。その理由は、増音破調は増えた音の上を駆け抜けるようにして読むことで、短歌の定型感を決定的に破壊することなく処理できるという点にある。尾崎の破調も残らず増音破調となっているのは、小池の分析を傍証しているようだ。また破調が上二句に集中していることも注意すべきだろう。

 伝統的和歌の韻律を破壊しようとしたのは、いうまでもなく尾崎の師に当たる塚本邦雄である。塚本が戦後の前衛短歌運動の旗手として立ったときに、当面対抗しなくてはならない相手は、桑原武夫の「第二芸術論」と、小野十三郎の「奴隷の韻律」論であった。「オリーブ油の河のなかにマカロニを流したような」和歌の韻律を意識的に壊すために、前衛短歌が句割れ・句跨りを駆使したということはよく知られている。尾崎の破調は塚本の影響下に生まれたものだろうが、塚本の短歌と比べたとき、破調感が一層強いのはなぜだろう。それはたぶん塚本が徹底して文語・旧字・旧かな遣いを墨守しているところに生じるある秩序感覚に対して、尾崎がひらがなを多用し一部口語を混ぜているためではないだろうか。文語ベースの口語に漂う独特の屈折感、屈曲感、抵抗感が、尾崎の文体の特徴なのである。

 しかし塚本譲りとは思えない文体上の特徴も指摘しておかなくてはならない。それは次の歌に見られるような名詞の羅列である。穂村弘はこの手法を「よこはま・たそがれ」式と呼んでいる。言うまでもなく「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」で始まる五木ひろしの歌を踏まえてのネーミングである。

 傲慢不遜あざみひと株帰り道紙の袋の底にカサッと

 オートリヴァースくちびるの線紅葉が思ひあふれて散りしきるなり

 名詞連続のいちばんの特徴は、名詞と名詞のあいだの論理的関係が表示されず、読む人が想像力で補わなくてはならない点にある。「よこはま たそがれ ホテルの小部屋 くちづけ 残りは 煙草の煙」くらいならば、ありふれた歌謡曲的シチュエーションなので、理解するのに想像力はそれほど必要としない。しかし白状すると、私は「傲岸不遜」「あざみひと株」「帰り道」のあいだの関係や、「オートリヴァース」と「くちびるの線」の繋がりがわからない。「傲岸不遜にあざみひと株を持ち帰る」ということなのだろうか。カセットテープの「オートリヴァース」と「くちびるの線」にいったいどのような関係性があるのだろう。このように名詞を羅列する手法は、読者の理解をその場で停めてしまう危険性があることは留意すべきである。

 同じことは名詞連続ではないが、次のような文体にも言える。

 分解掃除された去年の蒼穹の空井戸深く眠るほほゑみ

 春風駘蕩午後あさく聴く青空を四方隈無く閉ぢるラベルと 

 これは「喩の畳みかけ」とでも呼べばいいのだろうか。「喩の速射砲」でもいい。読者は次々と繰り出されるイメージを着地させる場所を見つけることができず、ただ頭がくらくらしてしまうのである。

 尾崎が短歌の遺産を十分に踏まえて作歌していることは、次の例を見てもよくわかる。

 縄跳びを駆け抜けるため光・闇二面の鏡平行に置く

 これは塚本の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」へのオマージュに他ならない。師の提示した公案に対する尾崎なりの解答であろう。光と闇は尾崎の短歌の至る所に見られるモチーフである。また次の歌は、後京極良経の名歌「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」の本歌取りであろう。

 「ゆふすげびと」のページ開きて手に鳴らす明日秋風はここより立たむ

 次の歌は伊勢物語第123段を踏まえており、横尾昭男の「深草の鶉のたまご下敷きのおほいなる愛母の臀あり」と響き合う。

 粗食は人をやはらかくする深草の草と鶉の卵を食べて

 尾崎の作歌上のもうひとつの特徴として、擬音語・擬態語をよく使う点があげられる。折しも『歌壇』6月号が「短歌におけるオノマトペの可能性」という特集を組んでいて、教えられる所が多かった。また小池清治『日本語は悪魔の言語か?』(角川oneテーマ21)には、俳句に比べて短歌ではオノマトペを余り使わないという指摘もある。なかなかおもしろい問題なのだが、考察はまたの機会に譲ることにして、尾崎の歌からいくつか例をあげるに留める。

 春までを眠りつくした錠剤のヴィタミンCをさりさりと噛む

 機知よりも理知の夕焼けピッカリと甘いピアスの三日月の先

 手の会話水の耳鳴りゆふまぐれ秋の硝子がひりひりと鳴る

 郵便切手少しななめに美しくしらしら眠る百合の蕾と

 文体の問題を離れて、歌われた意味の世界に話を進めよう。巻末に藤原龍一郎の評論があるが、これは見事に藤原節になっていておもしろい。尾崎は神戸に住んでいて1995年の阪神淡路大震災を経験している。そのため破壊された神戸の町と死者への鎮魂の歌が多く、これらの歌群は心に沁みる。藤原は、震災詠を離れても尾崎の歌には濃密な虚無と喪失があるというのだが、いささか自分の世界に引き寄せすぎかとも感じるところだ。生と死と破壊はいつも変わらぬ短歌のテーマである。

 酢と塩にふみしだかれた夏の日の残照のピクルスの苦瓜

 揚羽蝶一頭二頭たはむれにあるいは生命(いのち)とほりすぎたり

 ひかり媚態と観念と死とやはらかくかたちを変へるみづの感傷

 破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける

 尾崎の描く短歌世界は、破調の抵抗感のある文体と、やや硬質な語彙の選択によって、知的に構築された短歌という印象が先行する。その印象はまちがいではなく、確かに知的に構築されてはいるのだが、私が魅力と感じるのは、その知的構築性が抽象的思念の世界から演繹的に発するのではなく、肉感的とも言える具体の地平から立ち上がっているという点である。例えば次のような歌がそうである。

 面影の玉葱を剥き二、三日前の世界を薄く刻めば

 たましひの重さの夢のワンピース睡りたゆたふ空におぼれて

 ゼムクリップにとどめるひかりとめどなく真夏あたしを溶かしつづけて

 空をただ溢れる雨がアスファルトを濡らす瞳の黒が抒情す

 今日が流れる酸つぱさ苦さ縦割りの檸檬を齧る役割の歯へ

 ふかき淵にも食卓はある親指の朱のマニキュアはひびに重ねて

 玉葱を薄く刻むという台所での日常的行為と、もはや面影しか残っていない別れた人、あるいは見知っていたはずの世界を対置させ、「世界を薄く刻む」という短歌的喩に合一させる、これが尾崎が好む手法である。「喩のカットバック」とでも呼ぶことができよう。「今日が流れる酸つぱさ苦さ」では、「今日が流れる」は日常の無為の流れを言うのだろうが、「酸つぱさ苦さ」はその日常を前にしての〈私〉の感慨であるともに、次の「檸檬」を導く序詞としても機能している。しかし歌の眼目がこうして導かれた檸檬にはなく、序詞に含まれた〈私〉の感慨にあることはいうまでもない。また三首目「ゼムクリップに」に見られる力強い一人称「あたし」もまた、尾崎の歌を肉感的に地上に繋ぎ止める役割を果たしている。

 第三歌集『真珠鎖骨』(短歌研究社)はまだ読んでいないのだが、尾崎の短歌世界がどのような深化を遂げたか楽しみである。今日にでも三月書房に買いに行こう。