146:2006年3月 第1週 鹿野 氷
または、〈虚〉と〈実〉の逆転は喩を経由して

天地のちとおもしろきいそうろうと
      この身思えば手足鮮し

          鹿野氷『クロス』
 作者についての個人的情報をまったく持たずに歌集を読むとき、歌の背後から当人の肖像が少しずつ立ち上がって来る。それは大理石の塊から徐々に人のかたちが表われて来るようでもある。歌集を読むことにはそんな楽しみもある。掲出歌の作者である鹿野氷については、その筆名の喚起する詩的イメージ以外には、結社「月光」「原型」に所属し、『B-BOY 平成歌物語』、『SIZUKU』、『LOVE&PEACE』、『小歌劇』などの著書がある歌人という以外には、その経歴を知らない。歌を読んで私が思い描いたのは、少女期から病弱で、そのためもあり本を読んで空想に耽ることを楽しみとしていた女性というイメージである。掲出歌の「天地のちとおもしろきいそうろう」という自己規定も、このようなイメージに沿うものに思えて来る。「いそうろう」とはここでは無用の者という意味だろう。

 鹿野の歌集『クロス』を通読して考えさせられたのは、短歌における〈想像力の含有率〉ということである。本多稜『蒼の重力』のように、ある時は海外の高峰に登山し、ある時は南洋の海原にスキューバダイビングするという活動的な人生を送る人は、眼の前に次々と新しい風景が展開して飽くことがないだろう。本多の作る歌もその活動性を如実に反映して、力動的かつバラエティーに富む内容となっている。しかしそれほど活動的でない人は、生活の些事を導火線として想像力の糸を紡ぐことで自分の世界を構築してゆく。鹿野は後者のタイプであり、その特徴は語法に表われている。

 一滴の精油に思う東欧の朝露に咲くわがための花

 漂着の瓶のラベルに記されていずや転生その果ての名も

 溺死せし若き神父が呑まれたるワインの色か海の夕映え

 忘れられしアリアもあらな去勢歌手もその名を書きしアルノの水に

 湾めぐる夜行列車にもたれあう人いて愛とも別離前とも

 一首目は上に述べたことを象徴するような歌である。「一滴の精油」は香水だろう。化粧するときに体に付けた香水の一滴がこの歌の題材のすべてであり、作者はそれを核として歌の中心に置き、遠く東ヨーロッパのどこかの国に咲き香水の原料となった花を思っている。結語の「わがための花」の力強い断定が作者の顔をくきやかに浮かび上がらせる。二首目は、現実に海で漂着した瓶を拾ったというわけではなく、すべては想像の産物だと考えたほうがよい。「漂着した瓶」に封入された手紙というのは、いたく想像力を刺激するイメージであり、子供の頃に心を躍らせて読んだ海賊物語によく登場するアイテムである。ここでは封入された手紙ではなく、瓶に貼られたラベルが焦点化され、転生物語へと架橋されている。三首目の現実の要素は「海の夕映え」であり、そこからいつの時代にか溺死した神父という物語が紡ぎ出される。後に触れるが、第四句までは結句を導くための喩であり、序詞と見なしてもかまわない。作者の想像力は羈旅歌において一際翼を得るが、未知の風物を眼にしての感性の拡大ゆえであることは言うまでもない。四首目はルネサンスの古都フィレンツェを流れるアルノ河の水を見て、カストラートと忘れられたアリアに思いを馳せており、「ア」音の連続が心地よいリズムを生み出していることも見落としてはなるまい。五首目はナポリ湾あたりを思い描いてもよいが、夜行列車の二人連れを見てその二人の愛が極点を迎えているのかそれとも消える寸前なのかと考えているのである。いずれもイメージの鮮やかな歌である。

 鹿野はこのように些細な景物を導火線として想像を紡ぎ出すことを好んでいるのだが、それはおそらく生来の心の傾きのなせる業だろう。その感性は鋭く、ときに危うさを感じさせるほどであり、自らも平穏な日常の中に危うさを嗅ぎ取るのである。

 夕立のあかるさの中少女とうあやうきものが柵を越え来る

 大理石(マーブル)に生まれんとする人型のあらたなる悲の予感のごとし

 瑠璃うすき器むざむざ多角なる砕けやすかるかたちに生まれ

 香水瓶に彫られし繊き人魚らもなべてかすかに鬱含むらし

 枝型のフロントグラスの罅にさえ冬は微細に切り込めるらし

 一首目は柵を越えて来る少女に危ういものを見ており、それは夕立と柵を越えるという行為によって表象されている。二首目は大理石の彫刻が題材で、生まれ出て来る人体にすでに悲の予感を感じるところに一種の諦観がある。三首目も多角形のガラス器を見て砕け散る場面を想像しているのである。四首目の香水瓶に彫られた人魚、五首目のフロントグラスの罅もまた、震えるような繊細な感覚を物語っている。

 鹿野における想像力の優位は、短歌語法としての喩の優位として実現されているという点に注意しておこう。歌集を通読して見られる喩の多用は、80年代後半に始まった加藤治郎の言う「修辞ルネサンス」を通過した故というよりは、むしろ鹿野の本来的感性に由来すると考えたほうがよいように思う。次に引いた歌は喩の優位が特に強く見られる例である。

 風の為す千の孤児なるひとつとてわが胸に来し桜花びら

 いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとくくるしみは来る

 忘却とう恵みの彼方にあるものを誘うがごとく金木犀香る

 夏よりの憎悪のやり場得しごとくやおらわが病む奥歯のひとつ

 砂あげて夏は水着の女優などまろばせし記憶持つごときベッド

 一首目では、「風の為す千の孤児なるひとつとて」までが散る桜の花びらの喩であるが、実体と喩の関係を〈実〉と〈虚〉の関係と把握するならば、ここでは明らかに〈虚〉の占める割合のほうが大きい。二首目でもやって来た苦しみの実体は明らかにされず、「いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとく」という喩の喚起する意味とイメージによってその欠落が喩的に補填される構造になっている。三首目では「金木犀香る」のみが〈実〉であり余は〈虚〉であるが、歌の重点は明らかに〈虚〉に置かれている。五首目はさらに極端で、結語の「ベッド」以外はすべて〈虚〉であり、一首のほとんどが喩から成り立っているという具合なのである。

 歌のなかに〈実〉と〈虚〉を配分し、ダブルイメージを作り出して一首の奥行きを倍加させる技法として喩は大きな役割を果たす。しかし鹿野の短歌においては、喩の投影する〈虚〉こそが作者にとっての〈実〉ではないかと思えるほどに、そのイメージは鮮明なのである。