第105回 山田航『さよならバグ・チルドレン』

りすんみい 齧りついたきりそのままの青林檎まだきらきらの歯型
        山田航『さよならバグ・チルドレン』(ふらんす堂)
 平成21年(2009年)に第55回角川短歌賞と第27回現代短歌評論賞をダブル受賞した山田航の第一歌集が出た。1ページに3首を配して100ページ余りなので、ざっと300首が収められている。解説は「かばん」の先輩で、今年『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』を山田と共著で出した穂村弘。歌集巻頭に角川短歌賞受賞作「夏の曲馬団」が置かれているが、作者のあとがきが長い割には、歌の配列が編年体なのかそれとも構成してあるのか書かれていないので、そこはわからない。おそらく構成によると思われる。
 山田についてはこのコラムですでに書いたことがあるが、第一歌集を一読してもその時に書いたことをあまり変える必要はなさそうだ。しかしこれだけの数の歌をまとめて読むと新たに発見することもあるので、今回はそのあたりを中心に書いてみたい。
 前のコラムでは山田の短歌世界に一番近いのは寺山修司で、西田政史らの短歌もよく読んでおり、これを総合すると「抒情プラスニューウェーブ」となると断じた。そのラインは変わらないけれども、一冊の歌集となると細かく見れば多面的で、短歌への立ち位置や文体において相当な幅があることがわかる。
角砂糖ふくめば涼しさらさらと夏の崩れてゆく喫茶店
雨を想ふ。大好きだつた人たちがみな消えてゆく夏になるまで
でもぼくは君が好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど
「いい意味で愚かですね」とコンビニの店員に言はれ頷いてゐる
 冬の長い北海道に暮らす山田には夏への憧れがあるのか夏の歌が多いが、その大部分は眩しいほどの青春の抒情である。上に引いた最初の2首はそのようなキラキラとした透明感のある歌で、山田のこういう側面を評価する人は多かろう。このような世界は定型と短歌の韻律を守った歌になっている。これに対して次の2首はニューウェーブ風で、文字こそ旧仮名だが完全に口語である。3首目はもろに西田政史風で、4首目となると短歌の韻律はほとんど感じられない。ほとんど呟きのような声の低い言葉が連なっている。
 さて、どちらが本当の山田の姿か。解説の中で穂村は、角川短歌賞を受賞した作品について、「選考委員のなかにはこの世界はつくられていると感じた人もいたにちがいない」と述べ、また「言葉の修辞レベルで甘やかにつくりこまれている」とも書いている。ただ、その背後にどうしようもない苦さが潜んでいて、突然〈私〉の表情と口調が変わったように、次のような歌が投げ出されることがあるとしている。
鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る
 この辺りの事に踏み込んで考察すると、どうしても作者のプライベートと心の秘密の領域に土足で上がり込まなくてはならないのだが、幸い山田自身が長いあとがきで率直にその事情を語っている。実はこの歌集で最も驚くべきなのはこのあとがきなのである。歌集のあとがきというと、○○年から××年までの歌を集めたという制作過程とか、歌集をまとめるにあたってお世話になった方への謝辞などが、簡潔な文体で書かれているのが普通である。しかし山田のあとがきは「僕はホームランを打ちたかった」と題名まで付いており、そこには心と体をうまくコントロールができずに人間関係や就職に失敗してきた様子が率直に書かれている。そんななかで短歌に出会い、短歌ならばクリーンヒットを打てるかも知れないと言葉を紡ぎ始めたという。他の人がやすやすとしていることをどうしてもうまくできないというのは穂村弘とよく似ているが、穂村は『世界音痴』や『現実入門』などでそのような自分を突き放して戯画化し、ほとんど芸の境地にまで達している。それにたいして山田は「大丈夫かいな」と感じるほど直球で率直なのである。
 今年創刊された同人誌『率』の創刊号に山田がゲストとして参加していて、自作を解説しているのだが、そこでおもしろいことを言っている。不安モードに入ると今現在のことしか考えられなくなり、その状態の時には動詞の終止形で終わる歌が多くなる。逆に恋愛などでテンションが高い時期には体言止めの歌が増えるというのである。そう言われて見れば、上に4首引いた最後の「いい意味で」と次の「鉄道で」は終止形で終わっている。4首の最初の「角砂糖」は体言止めである。
 「さてどちらが本当の山田の姿か」という先ほどの問への答はこれで明らかだろう。どちらも山田の本当の姿なのである。ただし、不安モードでは今現在の自分のことしか考えられなくなり終止形止めの歌ができる。逆の昂揚モードの時は、あれこれ想像を巡らせ修辞を工夫する余裕ができて、体言止めの歌が増える。両方のモードの歌をもう少し引いてみよう。
たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく
突然に舗道は途切れ木漏れ日は僕を絡める蜘蛛の巣になる
いつの日か誰かわかつてくれるだらう 夕焼けもまた自閉してゆく

自転車は波にさらはれ走り去るものみな君に届かぬ真夏
遊歩道に終はりの見えしとき君の口笛はふいに転調をせり
ぼくたちのこころにかくもふりやまぬ隕石を撃ち落とした輪ゴム
 要するに山田は生きるためにブンガクを必要とする人間だということだ。ブンガクは「江戸の敵を長崎で討つ」ようなものだ。実生活において幸福な家庭を持ち、社会的地位も金もある人間はブンガクを必要としない。フランスの批評家モーリス・ブランショが「文学は欠如 (manque)から生じる」と喝破したとおりである。しかし逆にこれほどまでにブンガクを必要として短歌に接近することに、一抹の危惧を覚えないわけではない。
 そのことはあとがきに見える山田のあまりの率直さにも言える。作品を作る時にはそこには多少の自己演出がある。「こう見られたい私」というものが少なからずあるはずだ。歌集をまとめるときにはそれは選歌に現れる。選ぶ歌と捨てる歌の選別の中に、「自分の短歌世界はこの方向に向けたい」という演出がある。演出と言って悪ければプロデュースと言ってもよい。本歌集にはそのような意味でのプロデュース感覚がなく、そのために読んでいて歌の世界の振幅の大きさに驚くことになるのだろう。穂村弘だって〈ほむほむの世界〉をちゃんとプロデュースしている。今後の山田の課題はこのプロデュース感覚ではなかろうかと思われる。
 「夏の曲馬団」については以前のコラムでも触れたので、それ以外の歌から印象に残ったものを挙げてみよう。
まるく太る雲のテューバにささへられソプラノで鳴る初夏の自転車
祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも
水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ
炎天を歩くレンテンマルクにて購ひしパラフィン紙を破る
アヌビアス・ナナ水槽に揺れてゐて ナナ、ナナ、きみの残像がある
鍵穴は休符のかたちのドアを開くにふさはしき無音あれ
脈搏の数より多き星めがけ指をかけたり楕円の引金トリガ
フェルディナン・シュヴァルよ、蟻よ、かなへびよ、わがいとほしきものは地を這ふ
 2首目と3首目は作者の静かな祈りのような境地を表していて印象に深く残る。4首目にレンテンマルク、6首目にアヌビアス・ナナのようなカタカナ語が挿入されている。これらは意味よりも語感や韻律に奉仕しており、何か不思議な呪文のようにも響くところがおもしろい。レンテンマルクとはインフレ対策としてドイツで1924年から一時的に発行された不換紙幣だから、今はもう使えないはずだ。だからこれでパラフィン紙を買うことはありえない。しかしレンテンマルクとパラフィン紙の組み合わせが詩的効果を生んでいることは確かである。5首目のアヌビアス・ナナは熱帯魚などの水槽に入れる水草。ナナは女性の名のように聞こえるが、ラテン語で「小さい」を意味する語。アヌビアスからは魂を狩りに来るエジプトのアヌビス神が連想される。しかし山田の歌ではナナはまるで女性への呼びかけとして響いており、意味の浮遊感が歌柄を大きくしている。7首目「脈搏の」からは「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という正岡子規の歌が連想される。ただ子規の歌では星から光が届くのだが、山田の歌では星をめがけて撃つというちがいがある。8首目のフェルディナン・シュヴァルは不思議な石の宮殿を作ったフランスの郵便配達夫。その建造物は今でもリヨンとグルノーブルの間に存在する。
 次は山田の述志の歌と読むべきだろう。
ざわめきとして届けわがひとりごと無数の声の渦に紛れよ
 歌集冒頭に「スタートラインに立てない全ての人たちのために」というエピグラフを配し、巻末の著者紹介の最後に「PUSH START BUTTON 」と書かれた矢印を作った作者にとって、本歌集は応援メッセージであると同時に、作者自身の覚悟の表明でもあるのだろう。