第172回 尾崎朗子『タイガーリリー』

リモコンにつまづくインコ秋深みわれより親しく死を内包す
                尾崎朗子『タイガーリリー』 
 鳥籠から出されて遊んでいたインコが、床に置かれていたTVのリモコンにつまづく。人間はリモコンを踏みつけることはあっても、つまづくことはない。インコはそれほど小さくはかない生き物である。三句目の「秋深み」は、上句の叙景から下句の抒情への橋渡しをする蝶番として働いている。下句のポイントは「親しく」だろう。死がより親しいとは、死に近い、すなわち死にやすいという意味と、死に抗わず従容と受け入れるという意味も込められているだろう。われらはなべて死すべきものというメメント・モリの歌である。
 『タイガーリリー』(2015年)は第一歌集『蝉観音』(2008年)に続く尾崎の第二歌集で、第一歌集以後の351首が収録されている。栞文は、伊藤一彦、島田修三、米川千嘉子。歌集タイトルのタイガーリリーとは『ビーターパン』の登場人物で、ネイティブ・アメリカンの族長の娘の名だという。それと同時にオニユリの英語名でもある。あとがきに、「優等生的なウェンディや蠱惑的なティンカーベルよりも、義に厚く元気なタイガーリリーが子どものころから好きでした」と命名の由来が述べられている。
 第一歌集『蝉観音』への評で、職業婦人である尾崎にとって短歌とは自らを鼓舞するためのものだと書いたが、それは本歌集でも基本的に変わってはいない。しかし本歌集の底を低く流れる通奏低音は、一人生きることの淋しさであり、それにかぶさるようなそこはかとなきユーモアである。このユーモアという成分は第一歌集を読んでいた折には気づかなかったので、おそらくは年齢を重ねた故に得た資質であろう。
時刻表に鎖されしままのわが時間植物園の半券褪せて
われを待つやはらかきものはなし 母さんになれぬつばめもゐるのだらうか
福相といはるるわが手がとりこぼす幸ひをだれが掬ひゆくらん
素数蝉分かち合へないかなしみを抱へ鳴くらん 億兆の孤が
また病ひ得てしまひたるわが母に笑へ笑へとつよくいひたり
 淋しさの表向きの原因は、一首目の示すごとく叶わなかった恋であり、二首目が語るように慈しみ育てるべき子がないということである。歌を読む限り、現在の作者は母一人娘一人の境遇のようだ。その母親も二度にわたって癌を患い、作者がただ一人の家族として看病している。しかしながら歌をよく読んでゆくと、その背後に感じられるのは、この世に人が人として生きる悲しみであり、それは四首目に見ることができよう。陶芸家のルーシー・リーとハンス・コパーを詠んだ連作からの一首だが、リーもコパーもナチスドイツの難を逃れてロンドンに亡命し、コパーはその後自死している。素数蝉とは地中に素数の年月育って地上に出る蝉のことで、13年蝉と17年蝉がいるらしい。この歌の素数はともに割り切れる公約数を持たないという意味で置かれており、作者が人とは畢竟一人一人孤独なのだと考えていることを表しているのだろう。そこにすべての根があるように感じられる。
 しかし作者が感じている生きづらさはそのように抽象的な位相に由来するものだけではなく、もっと直接的に私たちが生きている社会がもたらすものでもある。
人息に曇る壺中に働いてコンビニに買ふ〈ピュア酸素缶〉
四度目の転職をしてにこにこと感じのよいふうな人になりゆく
フリースローシュートを狙ふ静謐にビルより同僚が飛び下りし朝
わたくしもきつと誰かの代役で置き捨てらるるビニールの傘
努力つて報われるのかと聞いてくる二十五歳はラーメンすすれず
 一首目はずばり現代の酸欠社会を表している。先の国会で可決した派遣法の改正案を見ても、派遣社員の立場は今までよりも悪くなるとしか思えない。二首目でわかるように作者も何度か転職を経験しているのである。三首目は同僚が飛び下り自殺したという事件を詠んだ歌で衝撃的である。五首目も若い人たちの生きづらさを詠んだものである。
 第一歌集にはあまり見えなかったのは、次のようなユーモアを含んだ歌である。
十年の先は見えねど店員に勧められたるLED電球買う
仕事だからお仕事だからとひと吠えし火の輪をくぐるサーカスの虎
サロンパスうまく腰へと貼れぬ夜「ひとりを生きる」は傲慢なるか
四十代佇むそこは造成の終はれどもなにも建たざる原野(はらの)
食卓に愛でらるるのみ姫りんご皺めばをとこ目線に眺む
 白熱電球に較べてLED電球の寿命は格段に長い。一首目では「このLED電球が切れる頃、私はどうしているのだろう」と考えているのである。二首目は火の輪くぐりをするサーカスの虎がこれも仕事だからと割り切ってこなしているという歌で、やりたくもない仕事をしている自分と重ねているのだろう。三首目は「ひとりを生きる」とがんばってみても、腰の裏側にうまくサロンパスが貼れないという歌で、誰しも経験のあるところだ。四首目は40歳を超えても不惑どころか何も成し遂げていないという慨嘆。五首目は食卓でしなびてゆく姫リンゴを男の目線で見てしまうというオジサン化を詠んだ歌である。
 そんな作者が元気をもらうのはもっぱら人間以外の生物のたくましさのようだ。
その翅に頬打たれたら痛からうアサギマダラは旅をする蝶
海渡る蝶の鼓動よわれよりもいのちの太し てふてふ一頭
八重山のヒルギ真摯にしたたかに生きて倒れてまた世に生るる
 アサギマダラは何千キロも海を旅すると言われている。そんな力強い羽ばたきに打たれる自分を想像しているのである。三首目は沖縄の西表島を訪れた折の歌で、ヒルギすなわちマングローブを詠んだもの。マングローブのなかには大きな板根を持つものもあり、汽水域の大地にたくましく生きている。
 このように尾崎の歌はおおむね骨太であり直截で、淋しさや生きづらさを感じながらも、自分を鼓舞して働いている女性が行間から立ち上がってくる。まさにタイガーリリーの名にふさわしく、これ以上ふさわしいタイトルはないと思える歌集である。