第237回 穂村弘『水中翼船炎上中』

天使断頭台の如しも夜に浮かぶひとコマだけのガードレールは

穂村弘『水中翼船炎上中』

 

 ガードレールはふつう道路の脇に長く続くものである。車が車道を逸れるのを防止するためにあるのだから当然と言えば当然だ。しかしどういうわけがポツンとひとコマだけのガードレールが残されている。ひと「コマ」というのが正しい数え方かどうかは知らないが、要するに支柱2本分しかない短いものである。これではガードレールの用をなさない。路上観察学会にならって言えば「トマソン」である。「夜に浮かぶ」とあるので、暗い夜道を車で走っていたら、曲がり角でヘッドライトに白く浮かび上がったのだろう。それを「天使断頭台の如しも」という喩を用いて表現するところは近代短歌のコードを遵守している。天使も断頭台で死刑に処せられることがあるのだろうかなどと真面目に考え込んではいけない。これは「詩的比喩」である。詩的比喩はあるが、あまり「圧縮」はかけておらず、修辞は倒置法だけに留めているのでわかりやすい歌になっている。

 天使というと思い出すのは、塚本邦雄が最も美しい町名と評価した「天使突抜」である。京都市下京区に実在する。マリンバ奏者の通崎睦美がこの地名に引かれて住み着いている。穂村は塚本の短歌に衝撃を受けて短歌を作り始めたので、この歌の背後には密やかな塚本へのオマージュが隠されているのかもしれない。

 今年(2018年)の5月に講談社から上梓された『水中翼船炎上中』は、『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』以来、実に17年ぶりの穂村の歌集だという。とても信じられない気持ちになるのは、その間も穂村の名を頻繁に目にしているからだろう。穂村は定評のあるエッセーの名手で、爆笑エッセー集をたくさん出しており、また『短歌ください』のような投稿短歌のアンソロジーや、『ぼくの短歌ノート』のような歌論も書いているので、とても17年ぶりだとは思えないのである。『水中翼船炎上中』の装幀はあの名久井直子。挟まれたメモによると表表紙と裏表紙の組み合わせで9パターンあるそうだ。装画のテーマは旅である。昔の大西洋横断豪華客船の写真や旅行用大型トランクのイラストや古い絵葉書などが配されている。この「旅」は本歌集を読み解くキーワードと言ってよい。穂村はどこへ旅をするのだろうか。

 メモによれば、冒頭の連作「出発」は現在、「楽しい一日」「にっぽんのクリスマス」「水道水」は子供時代、その後は「思春期へのカウントダウン」「昭和の終焉から二十一世紀へ」、やがて「母の死」を経て、最後は「再び現在」となっている。つまり穂村は過去の世界へ旅をしているのである。このうち「楽しい一日」は2008年の短歌研究賞受賞作である。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

スパゲティとパンとミルクとマーガリンがプラスチックのひとつの皿に

水筒の蓋の磁石がくるくると回ってみんな菜の花になる

ゆらゆらと畳に影を落としつつ丹前姿になってゆく父

雪のような微笑み充ちるちちははと炬燵の上でケーキを切れば

元旦に明るい色の胴体を揉めばぷよぷよするヤマト糊

 最初の三首は「楽しい一日」から、残りの三首は「にっぽんのクリスマス」から引いた。一首目は新幹線の食堂車の光景である。今はもうないが昔の新幹線には食堂車があつた。子供にとっては憧れの的である。二首目は小学校の給食の風景だろう。私の子供の頃は脱脂粉乳だったが、穂村の時代には牛乳になっていたと思われる。三首目は遠足の光景。そういえば昔の水筒の蓋には方位磁石が付いているものがあった。四首目も明らかに昭和の風景だ。お父さんは会社から戻ると、スーツを脱いで丹前に着替えた。みんなで囲むのはちゃぶ台である。五首目はクリスマス。「食堂車」「マーガリン」「丹前」「炬燵」「ヤマト糊」といったノスタルジーを感じさせるアイテムが散りばめられている。穂村は単なるノスタルジーから過去に旅をしているのだろうか。

 穂村は『短歌研究』2018年9月号に掲載された短歌研究賞受賞のことばで次のようなことを書いている。当時の子供にとって新幹線やビュッフェは憧れだった。しかし新幹線はその後速度が上がったため食堂車は無用となり廃止された。新たな時代状況に見合った大人の憧れを探せばいいのだが、どこにそれを求めればよいのかわからない。「楽しい一日」にはすべてが幻だったような感覚と、それに抗う気持ちがまざっている、と。

 短歌は「今」を切り取り「今」を輝かせる詩型だ言われることがある。穂村自身、近代短歌の重要なモチーフは「生のかけがえのなさ」だと論じ、次のように書いている。

 「かけがえのない〈われ〉が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、ときには消去されているように見えても、それが定型の内部の出来事である限り、この根源的なモチーフとの接触は最終的には失われない。一人称としての〈われ〉が作中から完全に消え去っているようにみえても、生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず『かたちを変えて』定型内部に存在する。」(『短歌の友人』p.185)

 もしそうだとすると、上に要約した穂村の受賞の言葉は、今の世界に憧憬の対象を見いだせず、輝かせようにも「今」に手が触れないという気持ちを言い表していると取ることができる。

 穂村はたびたび「酸欠世界」について語っている。穂村が今の世界に欠けていると感じている「酸素」とは、「愛や優しさや思いやりといった人間の心を伝播循環させるための何か」であり、それが欠けた世界では「愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている」(『短歌の友人』p.106)のである。そして「蜆蝶草の流れに消えしのち眠る子どもを家まで運ぶ」と詠む吉川宏志や、「花しろく膨るる夜のさくらありこの角に昼もさくらありしか」と詠む小島ゆかりは酸欠とは無縁で、それは彼らが一人用の高性能酸素ボンベを背負って詠っているからだとする。「一人用の高性能酸素ボンベ」とはいかにも穂村らしい言い回しで笑ってしまうが、言いたいことはわかる。今の自分の暮らし、住んでいる町、つきあいのある友人、働いている会社、所属しているサークル、通っている教会などの近景や中景世界で、どんなに些細でも「愛や優しさや思いやり」を感じることのある人は酸欠にはならない。

 穂村が『水中翼船炎上中』で過去に旅をするのは、現在に「生のかけがえのなさ」「生の一回性」を実感できる「今」が感じられないからではないだろうか。だからこそ毎日が「わくわく感」に充ちていた子供時代がモチーフとなるのである。

灼けているプールサイドにぴゅるるるるあれは目玉を洗う噴水

東京タワーの展望台で履き替えるためのスリッパをもって出発

カルピスと牛乳まぜる実験のおごそかにして巨いなる雲

ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下

魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏

 このような歌に穂村が求めているのは過去を懐かしむノスタルジーではない。毎日が「わくわく感」に溢れていた「今」を再び現前させたいと願っているのである。正月とクリスマスを除けば、描かれているのが夏であることもこれと無縁ではない。長い夏休みは子供時代のハイライトである。穂村はそれを詠むことによって、「ワンダー」をもう一度感じたいと希求しているのではないだろうか。

 このように本歌集は「過去への旅」をテーマとしているので、そちらに注意を引かれがちだが、穂村の短歌の作り方の巧さにも注意しておきたい。

あのバスに乗ったらどこへ着いたのと訊かれて駅と答える冬の

埋立地で拾った猫がレフ板の上でねむれば墜ちてくる雪

金色の水泳帽がこの水のどこかにあると指さした夏

 穂村は口語が基本だが、定型は驚くほどきちんと守っている。おそらく穂村が腐心しているのは歌を「どこに着地させるか」である。一首目は「あのバスに乗ったらどこへ着いたの」という仮定法過去完了の会話に始まり、「駅」と答えた後で「冬の」と付け加えている。結句は「冬の駅と答える」でも音数は同じだが、「あのバスに乗ったらどこへ着いたのと訊かれて冬の駅と答える」とすると、用言の終止形で終わる凡庸な歌になってしまう。口語的な後置法を用いることで統辞法に詩的な捻れを生み出している。二首目では「埋立地で拾った猫」まではありそうなことだが、「レフ板」で読者は「?」となる。レフ板はプロの写真家が撮影に用いるものだ。すると埋立地で写真の撮影をしているという情景が浮かび上がる。冬で雪が降ってくるのだが、それに「墜ちてくる」と漢字を使うことでうっすら天使失墜のイメージが被さり歌が重層化する。三首目は「この水」の解釈が鍵だ。学校のプールなら探せばすぐに見つかるだろう。だから「この水」は海でなくてはならない。しかしもし「この海のどこか」としたら詩的水位はぐんと下がってしまう。そのような点に工夫があるのだ。

 しかし考えてもわからないのは、なぜ穂村はすぐに酸欠になってしまうのかだ。穂村は1962年(昭和37年)生まれである。キューバ危機の起きた年だ。吉川宏志は1969年(昭和44年)生まれ。東大の安田講堂占拠事件のあった年だ。穂村の方が年長だから、もし酸素が徐々に消失しているのなら、吉川の方が酸欠になっているはずだ。確かに吉川は18歳で京都大学に入学するまで、自然豊かな宮崎で少年時代を過ごしているので、酸素の備蓄がたくさんあるのかもしれない。私が唯一考えついたのは「穂村=カナリア説」である。

 1995年に地下鉄サリン事件が起き、しばらくして警察は山梨県の上九一色村にあったオウム真理教教団本部の強制捜査に入った。ものものしい装備を付けてサティアンに突入する機動隊の先頭の隊員は、鳥籠に入ったカナリアを持っていた。昔、カナリアは炭鉱で使われていたという。坑道で有毒ガスが発生したとき、ガスに弱いカナリアがまっさきに苦しみ出す。それを見て鉱夫は逃げ出したという。もし穂村が何らかの理由でカナリア体質だったとしたら、酸素の欠乏に敏感に反応してしまうのではないか。もしそれが正しければ穂村は未来の予言者である。そんな想像をしてしまうのだ。

 特に心に残った歌を挙げておく。

何もせずに過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿

冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に

ひまわりの顔からアリがあふれてる漏斗のようなあおぞらの底

下駄箱の靴を掴めば陽炎のなかに燃えたつ審判台は

金魚鉢の金魚横から斜めから上からぐわんとゆがんでる冬

母の顔を囲んだアイスクリームが天使に変わる炎のなかで

今日からは上げっばなしでかまわない便座が降りている夜のなか

生まれたての僕に会うため水溜まりを跳んだ丸善マナスルシューズ

カーテンもゴミ箱もない引っ越しの夜に輝くミルクの膜は

 一首だけちがう色の付箋を付けた歌がある。本歌集の空気を象徴する歌だと思う。

胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割りつくされたる世界