第238回 野口あや子『眠れる海』

押し黙ればひとはしずかだ洗面器ふるき卵の色で乾けり

野口あや子『眠れる海』

 

 第一歌集『くびすじの欠片』(2009年)、第二歌集『夏にふれる』(2012年)、第三歌集『かなしき玩具譚』(2015年)に続く、著者第四歌集である。書肆侃侃房の現代歌人シリーズの一巻として刊行された。短歌だけでなく、写真家三品鐘によるモノクロ写真が収録されている。野口は朗読会を開いたり、他のジャンルとの交流を積極的に進めているようで、そのような姿勢の一環だろう。

 本ブログではすでに『くびすじの欠片』と『夏にふれる』を取り上げているので、今回で3度目になる。野口はどのように変化した、あるいは変化しなかったのだろうか。

愛しては子供をつくることに触れボトルシップのようなくびすじ

秋すなわちかげろうでありきみの姓を聞いてふりむくまでの眩しさ

父の骨母の血絶つごと婚なして窓辺にかおる吸いさしたばこ

茶葉ふわり浮いてかさなるはかなさで夫と呼んで妻と呼ばれる

子はまだかとかくもしらしらたずね来る男ともだちの目に迷いなく

 これらの歌を読むと、野口は伴侶を得て結婚したようだ。しかし結婚して幸福に包まれているかといえば、どうやらそうでもないようで、互いを夫と妻と呼ぶことにも茶葉が浮く程度の現実感しか感じていない。また子をなすことにためらいがあるようで、三首目の「父の骨母の血絶つごと」は子を残さない決意のようにも感じられる。一首目の「ボトルシップのようなくびすじ」、三首目の「窓辺にかおる吸いさしたばこ」の下句のさばき方はいかにも野口流である。

 上に引いたような歌では、意味はほぼ定型の中に収まっているのだが、読んでいるとそのような歌ばかりではなく、どこか過剰で定型に収まりきらない何かがはみ出しているような印象を受けることがある。

あしのつけねのねじをまわしてくろきくろきポールハンガーたたむひととき

大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せて人生、なんてわたしたち

飛ぶことと壊れることは近しくてノブを五つあけて出ていく

あ・ま・だ・れとくちびるあければごぼれゆく 赤い、こまかい、ビーズ、らんちゅう

 一首目、部屋におかれているポールハンガーを畳むというごくふつうの動作だが、「くろきくろき」と反復されることで何か過剰なものが感じられる。二首目のアルミラックも若い人たちの部屋によく見られる家具だが、大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せるという前半と、「なんてわたしたち」という結句の詠嘆がうまく結びつかない。三首目、「ノブを五つあけて」というのは語法的にいささか妙で、ノブをつかんで開けるのはドアである。仮にそう解釈したとして、ドアを5つ開けて出てゆくというのもどこか過剰だ。四首目は意味がよく取れないが、唇から零れるにしても、ビーズはよいとしてらんちゅうは不思議だ。

 いろいろな歌人の歌を読んでいると、言葉と自分(作者)を隔てる距離が人によってずいぶん異なることに気づくことがある。自分と言葉の距離が大きな人にとって、言葉はいわば自分の外にあるもので、画家が絵の具を配合して絵を描くように、石工がレンガを積み上げて家を建てるように、言葉を操作し組み合わせて何かを作り出す。こうして作り出したものは自分の外部に存在する。例えば塚本邦雄はそのような歌人の代表格だろう。一方、言葉と自分の距離が小さな人にとっては、言葉は自分の外にあるものではなく、ましてや操作するものではなく、自分の内側から滲み出て来るものであり、たやすく外在化することができない。自分から言葉を無理に剥ぎ取ろうとすると、皮膚が破れて血が滲んでしまう。野口の歌を読んでいるとそのように感じることがある。

さげすみて煮透かしている内臓の愛と呼びやすき部分に触れよ

夜の底、撹拌されてあわあわと垂らすしずくのオパールいろよ

ゆきふるかふらぬか われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ

真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は

ひらかれてくだもののからだ味わえばおなじくいたむ嵐の中で

 このような歌を読むと、野口は言葉を道具として用いて、自分の中にある意味なり感情なりを表現しようとしているのではなく、言葉を皮膚に絡ませ、皮膚を裏返して言葉に被せ、自分と言葉の間をたゆたう関係性を、絞りだすように歌にしているようにも感じられる。

 このことはよく短歌で論じられる「私性」とはちがうことである。「私性」とは、現実を生きる作者としての私と歌の中に詠まれた〈私〉の異同の問題である。「生活即短歌」のような立場では、歌の中の〈私〉はほぼそのまま実人生の作者と取ってかまわない。しかし反写実、芸術至上主義の立場に立つと、その等式は成り立たない。「私性」は現実の私と歌の中の〈私〉の関係を言うものだが、上に野口について述べたのはそうではなく、作者としての現実の私と言葉、あるいは声との距離の問題である。これ以上うまく言えないのだが、短歌の実作者ならば感じ取ってくれるかもしれない。

 このことは野口の身体と関係しているかもしれないとふと思う。

とかげ吐くように吐く歯磨き粉の泡の木曜日がみるまに繰り上がる

芹吐けり冬瓜吐けりわたくしのむすめになりたきものみな白し

 集中にはこのように何かを吐くという歌があるのだが、野口は青春期に長く摂食障害に苦しんでいたらしい。摂食障害は自分の身体との違和である。また『気管支たちとはじめての手紙』という共著の著書もあるので、喘息の持病もあったのかもしれない。身体との違和があったり持病を抱えている人にとって、身体は透明な存在ではなく、時に自己の内部に蠢く他者ともなる。野口の歌に感じられる言葉や声との距離の近さはそのような事情と関係しているのかもしれない。

 最後に印象に残った歌を挙げておこう。

うしなったのも得たものもなく午前十時の地下鉄にいる

感情を恥ずかしむため眉引けばあらき部分に墨はのりたり

ひややかに刃にひらかれて梨の実は梨の皮へとそらされていく

ずがいこつおもたいひるに内耳うちみみに窓にゆきふるさらさらと鳴る

つよく抱けば兵士のような顔をするあなたのシャツのうすいグリーン

さみどりののどあめがのどにすきとおりつつこときれるよるの冷たさ

血脈をせき止めるごとくちづけてただよう薄荷煙草の味は

名残 いえ、じょうずに解けなかっただけ 牡丹のように手から離れる