第296回 古川順子『四月の窓』

うつつならうつつのものとして触れる花あわあわとけぶる栴檀

古川順子『四月の窓』

 栴檀は別名アウチまたはオウチともいい、高さ30mになることもある樹種である。五月初旬に紫色の花を咲かせる。掲出歌では栴檀の花があわあわと咲いているのだから季節は五月だ。うつつのもの、つまり現実に存在するものとして触れるとわざわざ述べているということは、作者の眼は現実ならぬものにも向かっているということである。近代短歌は写実、すなわち現実に存在するものをしっかり見つめることを基本の作法としたことを踏まえると、作者は少しくその本道から逸れた道を歩んでいることになる。

 プロフィールもなく、作中にもほとんど本人に関する情報がないのだが、あとがきによれば古川順子は2007年に未来短歌会に入会して岡井隆に師事している。『四月の窓』は昨年(2020年)の10月に砂子屋書房より刊行された第一歌集である。栞文は井上法子、上田信治、錦見映理子。錦見は未来短歌会の先輩だから栞文を依頼するのはわかるが、井上は一面識もないのに依頼を受けたそうだ。ましてや上田は俳句の人である。次のような句がある。

うつくしさ上から下へ秋の雨  『リボン』

ゆつくりと金魚の口を出る小石

すひがらの今日の形へ西日差す

 井上法子は歌集『永遠でないほうの火』の歌評でも書いたが、現代詩と踵を接するような作風の若手歌人である。どうやら古川は伝統的な短歌の枠に収まるつもりはなく、現代詩や俳句と通底する何かを追究しているようだ。それは端的に言ってジャンルの違いを超えたポエジーではなかろうか。事実、本歌集には短歌以外に三行書きの詩も収録されているのである。歌集のタイトルは「花のある四月の窓のあかるさのようにきみに会いきみと別れ来」という歌から採られている。「窓」は古川の歌によく登場するアイテムで、キーワードのひとつかもしれない。古川の作風を最もよく示すのは次のような歌だろう。

降るものを予感と名づけ春昼を降りゆくものの影を見ている

春のひかり充ちれば重い荷のように流すよ笹の舟を浮かべて

その部屋に眺めておりぬ遠心のちからと止まらんとするちからとを

水滴はしのびて来るよ砂利道をふむつま先にしらじらとうろ

くるぶしを水の記憶に浸しつつ待つひとのいて橋しずかなり

 一首目、空から降るものと言えば雨か雪か光であるが、この歌からはどれなのかわからない。春昼はうららかな陽気を思わせるので日光かもしれない。それは「予感」と名付けられている。そして歌中の〈私〉が見ているのは降るものではなくその影だという。なぜ予感と名付けられているのか、なぜ〈私〉は実体ではなく影を見ていのかは明かされることがない。それはわざと伏せられている。

 二首目、春の光が充ちると重い荷物のようだという。ふつう春の光は喜ばしいものなのだが、作者には人に知られぬ鬱屈があるのだろうか。笹舟に乗せて流し雛のように流すという。三首目、まず「その部屋」がどこかわからない。ぐるぐると回転しているものを眺めているという。私が思い浮かべたのは独楽だが、それが正しいかどうかは歌の情報からはわからない。四首目、水滴が忍んで来るとは何だろう。またつま先にある空虚も何だかわからない。漂うのは不穏な気配である。五首目はもう少しわかる。小橋から足を垂らして水につけて、過去を回想しているのだろう。

 このように古川の歌には、何か言い足りないもの、言い忘れたものがある感が必ず付着している。言葉にしようとして言葉になり切れない何かがあるように感じられる。これはどうしてだろうか。

 古川の歌を次のような歌と較べてみよう。

夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして  小池光

採血の終りしウサギが量感のほのぼのとして窓辺にありし  永田和宏

大ばさみのの刃との刃すれちがひしろたへの紙いまし断たれつ  栗木京子

 上に引いたような近代短歌のOSを使った歌と古川の歌の違いは、歌の「外部」の有無である。上の歌には意味の外部がない。三首とも言葉として表現された歌の内部のみで意味が完結している。たとえ短歌的喩の発条の作用によって、読んだ後に歌全体が何かの喩へと飛翔するとしても、その前段階においては意味の輪は閉じている。外から何かを補填しなくとも読む人はその意味を十全に理解することができる。しかるに古川の歌ではそうではない。ほとんどすべての歌に外部がある。意味が一首の中で完結していないために、言われていないもの、言い忘れたものが歌の外部にあるように感じられる。歌が一首の内部に留まっておらず、外部へと流出して触手を伸ばすような印象を受ける。これはいかなる骨法によるものだろうか。

 それはおそらく古川が短歌だけではなく、現代詩や俳句と通底するポエジーを探究していることと無関係ではあるまい。言うまでもなく現代詩や俳句では、すべてを言葉で表現するということをしない。現代詩では言葉を遠くへ飛ばすことによって、日常的な意味の連関を断ち切って新しい美を現出させようとする。また俳句はその極端な短さゆえにすべてを言葉で言うことができず、余白や余韻の占める比重が大きい。古川は同じようなことを短歌で目指しているのではなかろうかと思えるのである。

 テーマ批評的に目に付くのは「水」に関連する語彙の頻度が高いことである。

春を呼ぶ雨には違いなく細く長く垂れ来たような線なり

また雨にふりこめられてくらがりにみちるみずうみ 印刷室へ

降りつづくみずのゆくえを思うとき可能性とはさみしいことば

雨はいつ雨から水になるのだろう 名のないものにひとはなれない

いつだって遅れてやって来た人としてここにおりやわらかな雨

栗の実のあおく内攻するちから一号館に長く雨降る

 まだまだあるが実によく雨が降っている。藤原龍一郎の短歌の雨はハードボイルドのアイテムとして降っているが、古川の歌ではそうではない。どうやら雨は歌の〈私〉を包むように、降り込めるように降っているので、作者の世界の捉え方の癖のようなものかもしれない。

沈黙のなかに古びてゆくものへまあるく架かる屋根の空いろ

葡萄の実しずかに太る三校時 昇降口にならびおり靴

見えている色の世界がちがうこと 芙蓉の香つよくはみ出る花壇

ほろびゆくことばをいくつ集めては七月ゆれている姫女苑

日本語はやさしいことば そのあとはないという「さよなら」はなく

白き殻パチンと割ってくろがねにめだま焼く朝みつめられつつ

 立ち止まった歌を引いた。一首目は原爆ドームを詠んだ歌ではないかと思う。原爆ドームの丸屋根は骨組みだけになっているので青空が透けて見える。二首目は「昇降口」に引っ掛かったのでちょっと調べてみると、地方によっては学校で児童たちが上履きに履き替える校舎の入口を昇降口と呼ぶらしい。私は聞いたことがなかった。昇降口と言われると、貨物用エレベータの荷物を搬入する場所かと思ってしまう。三首目には「色のシミュレータを教えてもらった」という詞書がある。色のシミュレータとは、いろいろな視覚特性を持つ人に世界がどのように見えているかを再現してみせるソフトウェアだという。四首目と五首目は日本語についての歌。ヒメジョオンはハルジオンと並んでよく見かける花なのに、その呼び名で呼ぶ人は少ない。五首目はちょっと解説が必要だろう。フランス語やイタリア語には何種類かの別れの挨拶がある。フランス語でいちばんよく使われるのはAu revoir.(オールヴォアール)で、「また会う時まで」を意味する。これにたいしてAdieu. (アデュー)はもう二度と会うことのない人に言う言葉で、もともとはà dieu「神の手に」を意味する。引用した歌ではこのAdieu.に当たるような言葉は日本語にはないと言っているのである。六首目はいわゆる厨歌で、朝食に目玉焼きを作っている場面である。ここに引いた歌では歌の「外部」はなく、歌の内部のみで意味をとれるように作ってある。だから古川はこういう作り方もできるので、歌に「外部」を作るのは意図的な操作なのだろう。

 

そこのみに夏のひかりはあふれおり厨にふたつ残れる檸檬

こんなにも世界は音に満ちていてかばんのなかに散るロキソニン

あわあわと夕闇は落ち大陸の地図はどこかが燃えてる今日も

こんぺいとう ちいさき冬のかたちして放られているあかるさのなか

映写機の光を浴びて溶けだしたあなたとすこしまじり合う午後

目守られてわたくしもまた沈むだろう海の底いに閉づるまなぶた

たましいを引きあげる手の静けさで記憶以前の場所に燃える火

闇にたたずみ咲くさくらばなみつみつとそうだったあれはあらがう力

 

 印象に残った歌を引いた。どれもうつつのものをうつつとしては描いておらず、現実の中にふと夢が入り交じるように、実と虚、闇と光、存在と非在が反転して照らし合うような煌めきを放つ歌である。

 栞文で錦見は古川のことを、たぶん自分よりひと回り若い人だろうと推測するのみで、個人的なことは何も知らないと書いている。おそらく自分のことはあまり話さず、内省的でanonymityにいることを好む人なのだろう。あとがきに山梨県立文学館館長の三枝昻之と山梨歌人協会会長の三枝浩樹にいつも背中を押されていたとあり、集中に「いまはもう消えてしまった町の名を待ち合わせ場所としるす手子町」という歌があって、手子町は甲府市にあった町名だから、作者は山梨在住か山梨にゆかりのある人と思われる。また「救命講習」という連作の「〈たすけて〉の五十のくちが横たわる救命講習こだまする風」という歌と先の「昇降口」とを考え合わせると学校関係者かとも思う。とはいえ本歌集に実人生における〈私〉を思わせるものはほとんどなく、また歌の理想は詠み人知らずであることを思えば、余計な詮索というものだろう。