第377回 山田恵理『秋の助動詞』

ひそやかに語る女生徒ふたりいて渡り廊下は校舎の咽喉のみど

山田恵理『秋の助動詞』

 本コラムを書くときにはまず冒頭の掲出歌を選ぶ。付箋の付いた歌を中心に歌集を読み返す。そうすると歌人の体質や体温といったものが改めて強く感じられる。本歌集を読み返したとき、やはり選びたくなるのは生徒を詠んだ歌である。そこに作者の心の襞や傾きが最もよく感じられるからだ。

 歌の舞台は高校の校舎の渡り廊下。学校を舞台にするとき、絵になるのは教室よりも屋上や体育館の裏や渡り廊下だろう。生徒の表の顔ではなく、ほんとうの顔が見られるからだ。渡り廊下で女子生徒がふたり顔を近づけ声を低くして何かを話している。憧れの男子生徒の話だろうか。渡り廊下を校舎の咽喉に喩えているのには二重の意味があるだろう。咽喉は発声器官で、渡り廊下は本音が語られる場所だという類似性と、喉が口と胃や肺を結ぶ通路で、渡り廊下は校舎と校舎を結ぶ通路だという類似性である。

 山田恵理は1965年生まれの歌人。「コスモス短歌会」に所属し、同人誌「COCOON」にも参加している。本書は2023年に六花書林から刊行された第一歌集である。梶原さい子と大松達知が栞文を寄せている。

 作者は公立高校の国語教員であり、三人の娘の母でもある。つまり教師と妻と母とう三つの役割と顔を持っているのだが、集中で最も惹かれるのは何といっても教員として詠んだ歌だ。

モヒカン刈り叱られ教室飛び出した生徒を探し月曜はじまる

我ながらほれぼれするほど響くこえ隣の校舎の生徒を叱る

二人欠け修学旅行ははじまりぬお金のない子と行きたくない子

一番のやんちゃ坊主の担任を外れて少しつまらない 春

明日からは来ぬ生徒らの名を呼びぬ春まだ浅き体育館に

 一首目、さすがにモヒカン刈りは校則違反なのだろう。叱られた生徒はどこかにトンズラしてしまい捜索隊が出る。二首目、教員は教室の奥まで届く声で授業しなくてはならないので、自然と声帯が鍛えられる。中庭を挟んで向かいの校舎で良からぬことをしている生徒を大音声で叱っている。三首目、修学旅行に参加しない生徒が二人いて、それぞれ理由がちがっている。生徒を引き連れての修学旅行は日本独特の習慣で、引率する先生は大変だ。四首目、学年が変わりクラス一のやんちゃな生徒が別の組になった。ほっとすると同時に少し淋しい気持ちにもなるという歌だ。五首目は卒業式の場面である。高校生活のクライマックスといえば文化祭や体育祭もあるが、何と言っても真打ちは卒業式だろう。作者は卒業して明日からはもう学校に来ない生徒の名を、淋しさを感じながら読み上げている。

 これらの歌を一読して感じるのは、生徒たちへの深い愛情と、だからこそ保たれている生徒との適切な距離感である。教員たるもの生徒に愛情を持つのは当然だ。愛なくして教育はない。かといって生徒の生活や心の中に限度を越えて踏み込むのもよろしくない。作者は細やかな眼で生徒たちを見つめながら、適切な距離感を保っているように感じられる。

赤ペンで汚れし右手にお釣り受く閉店間際のスーパーレジ

プリントを出せない理由は殴られて血がついたから 鬱の養父に

時に手で黒板ぬぐった二十代チョークにきっちりカバーする今

四度目の異動希望を清書せり 窓の外には空しかなくて

「えいやっ」と定時に帰る西の空 雲の入り江にまだ青き波

 一首目、教員の大事な仕事に試験問題作りと採点がある。授業が終わってから放課後に採点をするので、勢い帰宅するのはスーパーの閉店間際になるのだ。教員は最初から給与を少しだけ上乗せしているのと引き替えに、残業手当が支払われない。残業し放題というブラック企業と変わらない。ちなみに採点するときには太字のペンがよいので、私が愛用していたのはOHTOのSaiten Ball 1.0とLamyの太字万年筆である。二首目、言葉を失う家庭内暴力の話で、これはもうソーシャルワーカーと警察の領分だろう。三首目、素手でチョークを握ると手が荒れる。若い頃は気にしなかったが、年齢を重ねて手を労るようになるという歌。四首目、公立高校の先生には異動が付きものなのだろう。異動はまた別れでもある。五首目、忙しい先生が定時に帰宅するにはこれくらい決断が必要なのかもしれない。

これだけは覚えておけよサッカー部 カ行一段動詞「蹴る」

「セカンドのサードの間」とヒント出し野球部員に読ませる「せうと」

いくつもの口を開きて人生を呑みゆくごとし「癌」という文字

はね、止めを呑みこんでいるゴシック体文化を滅ぼす字体にあらん

竜、竜人、竜之介もいる一年生 来年入ってくるか巳之介

 国語の先生らしい歌を引いてみた。一首目、「蹴る」は古語ではケ・ケ・ケル・ケル・ケレ・ケヨと活用するカ行下一段動詞である。二首目は旧仮名遣いで「せうと」はショートと読むことを野球に掛けて教えている。三首目は父親が癌と診断されたときの歌だが、「癌」という文字のなかに口がいくつも開いていることを不気味と感じている。四首目、漢字の習字で大事なのは書き順とはね・とめである。文字に書く順序があると説明すると外国人は驚く。この歌ははねも止めもないゴシック体の活字は国語の文化を滅ぼすとしている。新しいクラスを持つときのいちばんの悩みは生徒の氏名の読み方だ。私が在職中いちばん驚いたのは「東海左右衛門」という苗字の学生がいたことである。近頃はいわゆるキラキラネームが多くて、「空」と書いて「スカイ」と読ませたりするらしく油断がならない。五首目はクラスの生徒の名前に「竜」の字が多いことをおもしろがる歌。巳之介はおそらく谷崎潤一郎の小説の登場人物だろう。

 上に引いた歌にもユーモアが感じられるが、集中には「湯を沸かすのみが仕事の薬罐にてなぜか鍋よりよく磨かれる」という歌もあり、このようなユーモアも作者の魅力となっている。

雨の日は水槽のごとき校舎なり昇降口に藻のにおいして

 前にも一度書いたことがあるが、生徒らが登校して上履きに履き替えたりする場所でロッカーが並んでいる出入り口を「昇降口」と呼ぶ地方があるようだ。作者は愛知県に在住なので愛知ではそう呼ぶのだろう。関西では言わない。「昇降口」と聞くと、フォークリフトで持ち上げて荷物を積む飛行機の貨物室の開口部かと思ってしまう。

 学校の歌ばかり引いたが、両親や娘たち家族を詠んだ歌や身めぐりを詠んだ歌にもよい歌がある。家族や友人は近景、職場や町内は中景、国家や政治は遠景と区別すると、本歌集に収録された歌のほとんどは近景と中景である。「私」を滅却して短歌の芸術性を追求する歌人もいるが、作者はそうではない。あとがきに「怒濤のように流れていく」日常生活の中で、「何かを表現したい」、「形を残したい」という動機から作歌を始めたと書かれている。短歌は人生の伴走者であり、自分が生きた記録なのだ。

 短詩型文学には俳句と短歌と川柳があるが、このような特性がいちばん強いのは短歌だろう。俳句は人生の記録にするには短すぎる。ルナールの蛇の逆だ。世界を見まわしても、こういう文学は短歌を措いて他にはないのではないかと思う。そもそも有力新聞がこぞってポエムの欄を設け、毎週何千というポエムが投稿されるという国は日本以外にない。短歌を考える上で忘れてはならないことである。

いちまいの布になりたし子の展く空間図形に秋の風吹く

死は必然 生は偶然 なかぞらに圧倒的な死者のひしめく

形なきものが形を持つときにるる優しさ初雪が降る

木蓮のつぼみふくらみ青空に禅智内供の鼻のつめたさ

球児らの「あの夏」になるこの今を皆が見つめる高き高きフライ

教室の窓よりうろこ雲ながめふりむけばしばし暗む生徒ら

女生徒がふたり笑えば雲よりもはるかに白い夏のセーター

「ほぼほぼ」という語なずきは拒めどもほぼほぼ馴染みほぼ定着す

 二首目を読んで確かにそうだなあと思う。私がこの世に「私」として生を受けたのは偶然であり、そのうち死ぬことは必然だ。人の一生とはこの偶然と必然の間に挟まれた須臾の間である。四首目の禅智内供は芥川龍之介の短編で、木蓮のつぼみを禅智内供の大きな鼻に喩えたところが面白い。五首目の「高き高き」とくり返されたフライは、もちろん捕球されゲームセットとなる凡打である。六首目は生徒が何かに悩んで暗い顔をしていたということではない。明るい外を見ていて暗い教室に視線を移すと、目が慣れていないため暗く見えるという順応の歌だ。最後の歌は定着しつつある「ほぼほぼ」という言い方を取り上げたもの。「ほぼほぼ」を二度くり返し、自分は「ほぼ」を使っているところにささやかな抵抗がある。

 読後の爽やか歌集である。