176:2006年10月 第4週 加藤英彦
または、短歌は一行の思想詩たりえるか

神学の果てぐらぐらと煮えたぎる
    鍋ありはつか血の匂いする
      加藤英彦『スサノオの泣き虫』

 「誤爆」と題された連作中の一首であり、イラク戦争に材を採ったものと思われる。だとすると「神学」はイスラム教を暗示し、血の匂いは自爆テロへと意味的に通底することは明らかだろう。宗教への熱烈な帰依が時として暴力行為へとつながることを主題とした歌で、歌意はかなり直截に表現されている。問題は、この歌に表現されているのがひとつの「思想」であり、その主体となるべき〈私〉が歌の中に不在であるという点にある。このことは同じ加藤の「寒鰤の頭(ず)をきり落とす厨からたちまち世紀が昏れはじめたり」という別の歌と比較すると、ちがいがよくわかる。台所で出刃を振るい寒鰤の頭を切り落とす行為の主体は、表現されていなくても〈私〉であるとするのが短歌の約束事である。この歌には台所という具体的な情景があり、〈私〉の身体的行為と相関するように、「たちまち世紀が昏れはじめたり」という思念が歌われている。ここでは〈知覚できる具体物〉と〈目に見えない思念〉とが、互いに照応するようにバランスよく配されていて、一首の意味が読者の心の適切な場所に着地することを可能にしているのである。ところが掲出歌ではこの具体物と思念とのバランスが極端に一方に偏るように崩れており、まるで作者の頭の中の思念だけを掴みだして見せられているような感じさえする。

 加藤英彦は1954年生まれで、現在は同人誌『Es』を拠点として活動している。歌歴は長いが『スサノオの泣き虫』は第一歌集で、三枝昂之・内藤明・天草季紅が栞文を寄せている。先に加藤の歌における思念の突出について触れたが、歌集を一読すると、加藤にとって短歌とは「韻律を響かせる型式」ではなく、「思想を盛る器」であることがわかる。一行で書かれた思想詩のような作品が多く見られ、そこにひっかかりを感じるのである。

 権力にまみれて鈍きてのひらをもたばたやすく汚れてしまう

 かつて〈地上の楽園〉というまぼろしを恃みし幾万の骨起(た)ちあがれ

 中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや枯木一枝をかかえ

 突如蜂起の合図かこれは空砲の数発か いや、真夏の花火

 飼育さるる劣位に太るわが眠りをはるかに越えてゆく機影あり

 権力がめくれているぞ炎天を樹皮一枚のように反りつつ

 歳月に霜はふりつつ蔵ふかく眠るよ古き一振りの斧

 権力と対峙し蜂起を夢見る左翼的思想が基調にあるが、作者の自意識のスタンスをよく示しているのは、3首目「かつて〈地上の楽園〉」と5首目「飼育さるる」と7首目「歳月に」あたりの歌だろう。「中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや」と自問する〈私〉が抱えているのは役に立たない枯枝であり、〈私〉は日常的に飼育されるという劣位にあってだらしなく太り続けている。蔵に眠る斧は世界変革を夢見る意志だが、斧を振るわなくなって久しく、斧は空しく錆びて蔵の中に眠るばかりである。おおむねこのような苦さを含む自己省察と鬱屈感が表現されている歌が多い。そこから次のような一連の歌も生まれるのだろう。

 ゆっくりと書架が倒れてくる夢のうらがわで一人が殺される

 どのような世界にゆける黙したるこの水道の蛇口のくらさ

 殺めたきひとりをさがす眼に会いてより心中に咲(ひら)く花あり

 硝子屋の玻璃いっせいに燦きはじむ未来など信ずるに足らぬ

作者の思想は上に引用したような歌群よりは暗喩的に表現されており、歌の重心はより抒情に傾いてはいるが、連続性は明らかである。これら一連の歌において、作者が表現しようとする思想が膨れあがり、短歌定型という皮を突き破って溢れようとするため、短歌の内的韻律が片隅に追いやられてしまうということがしばしば起きている。同じように思想的な短歌を作りながらも、「歌は韻律」ということを忘れない佐藤通雅とは対照的である。

 加藤の短歌のもうひとつの特徴はその演劇性である。集中の「死蝶幻想」と題された連測には戯曲から取られた科白が詞書きのように添えられていて、演劇と短歌の融合を試みているかのようである。

 あれはだれの忘れもの 闇のなかの螢。百年前の祭のあとの──

 燃えつきる記憶の蝶がひりひりと死の叢に放たれる

 呪われている 誰が? そう、あなたのなかの私とわたしのなかのあなたが

 井戸のポンプゆたばしる水勢しろき脛にひかりを感じ濡れるたましい

 短歌の定型が解体されて劇的科白へと組み換えられている。加藤はあとがきのなかで「限りなく日常の事実性から遠ざかることで、一首を自在な空間へと解き放とうと思った」「虚構という呼称すら無効となるような全き幻想のなかに身を投じるほか、作品が自立する道などないように思われた」と書いている。このようなスタンスを採る加藤が演劇の持つ本来的虚構性に惹かれたことはまちがいない。このように加藤は、一行思想詩という切り口から現代詩へと接近し、また虚構の演劇性という切り口から演劇へと接近するのだが、両方の方向に見られるのは強い観念性である。加藤が拠る同人誌『Es』の同人の江田浩司山田消児松野志保にもまた劇的身振りがよく見られるのは、決して偶然ではないだろう。

 しかし、上にも書いたことだが、過剰な観念性は短歌における知覚可能な具体物と不可視の思念とのバランスを大きく一方に傾けてしまうため、読者の理解を拒否する短歌になりがちであることに留意すべきだろう。読者は歌に詠まれた具体物の視覚的イメージを手掛かりとして、韻律の河を遡り、暗喩の橋を渡って、歌に詠まれた〈何か〉を追体験的に感得しようとする。よくできた短歌はこの「〈何か〉の追体験」を読者みずからが遂行できるよう組み立てられているため、読者はそこに自分で発見したかのような強い感動を覚えるのである。これを可能にするためには、歌のなかの具体物と思念とがバランスよく配されていることが必要であり、かつ読者による探索的遡上を可能にするために、表現したい思念を剥き出しにせず敢て隠すという配慮もまた必要なのである。すべてが言い切られていたら、もうそれ以上〈何か〉を探しに行く必要はないのであり、歌の魅力はなくなってしまう。加藤の次のような歌を見ると、そのように感じてしまうのである。

 抱(いだ)きあうかたちの雲がうごかざり愛の濃さとは渇きのふかさ

 日常はつまずきやすき泥濘にあれば爪先だちて歩めよ

上に引用した歌群とはまた異なる方向性の歌もこの歌集にはある。

 水が匂うゆうべの堀割をすぎて蔵のなかへと手をひかれゆく

 指先を湯にあたためている午後の君にちかづくまでの二、三歩

 あなたふかい空洞を抱く食卓に水蜜桃(すいみつ) ひとつが影を落とせり

 夏陽たかく澄む丘を越ゆいちまいの空ふるわせて響く空砲

 高層ビルの屋上くらき亀裂よりひとすじ春の無精卵ふる

 三枝昂之は栞文のなかで、このような歌が加藤の短歌の「古層」だろうと述べている。確かに加藤の短歌の「やわらかき部分」であることはまちがいない。このような古層から汲み上げる歌と抽象的思念とのバランスが問題だと思うのである。