第292回 加藤英彦『プレシピス』

うすきグラスに泛びてさむしたまゆらの夏をさやさやゆれる茗荷は

加藤英彦『プレシピス』

 『スサノオの泣き虫』(2006年)で第13回日本歌人クラブ新人賞を受賞した加藤英彦が実に14年振りに第二歌集を上梓した。その名『プレシピス』precipiceとは「断崖、絶壁」の意である。あとがきによれば、政権が急速に危うい方向へと舵を切り始めた暗鬱な時代への喩をこめて命名したとある。確かにprecipiceには「危機、窮地」という比喩的意味がある。だが一読すると歌集題名の含意はそれだけではなく、作者の人生航路の危機というニュアンスも感じられる。デビューしたての若い歌人の歌集と較べた時に、年齢を重ねたベテラン歌人の歌集に感じられるのは人生の苦みである。本歌集にも人生の苦みがたっぷりと詰まっている。

 加藤は1954年生まれで、結社「創作」「氷原」にしばらく所属したあとは無所属で、同人誌『DOA』『Es』を拠点として活動していた。本歌集のあとがきで、加藤は小笠原賢二と親交が深く、昨年他界した松平修文に長く私淑していたことを知った。本歌集は第一歌集以後の作品から480首を収録したもので、発表年には拘らず再構成し改作もしたという。このため若い頃に書いたと思われる歌が後半に現れることがある。歌人の歩みを辿りたい読者としては、これはいささかもどかしい。先日このブログで取り上げた川野芽生の『Lilith』では、文学研究者らしく巻末に初出一覧が付されていた。作者としては歌集全体の構成を考えて歌の配置を案配するのだろうが、読者の側からすれば歌人の作風の変遷や思想的深まりを辿りたいという思いがある。

 本歌集に収録された歌は、大きく分けて「現実の出来事に反応する歌」「家族の歌」「鬼籍に入った人への挽歌」「日常の思念詠」に分けることができる。「現実の出来事に反応する歌」には次のようなものがある。

咽喉もとまで土砂つめられてれもせずしずかに息を吐きて辺野古よ

もがれたる機首から遠くそのふとき腹のかた側を波が洗えり

いくさへと傾くニュース切りて朝、鬱然と雨のなかを出てゆく

微粒子セシウムがゆっくり雨に溶けはじむ朝 応答をせよ、海や空

知らざれば知らされざれば低濃度ゆえにほうれん草のみどりは

地雷のありかをさぐる足うら 一兵として犯されしいもうとのはぎ

 一首目は沖縄の辺野古への基地移転問題、二首目はオスプレイの不時着事件、三首目は安保関連法案の国会可決、四首目と五首目は東京電力福島原発事故を詠んだもので、六首目はきな臭い現実を支点として未来を幻視した歌である。第一歌集『スサノオの泣き虫』でもそうだったが、加藤にとっての歌は多かれ少なかれ思想詠であるため、世の中を揺るがす大きな事件が起きた時にはそれに反応する歌を詠むのは当然のことなのだろう。静かな怒りが感じられる歌である。

 本歌集で大きな場所を占めているのは「家族の歌」だ。

さっきだれかが訪ねてきたよと母がいう花に水さす背をみせていう

姉もわれもわからなくなりなずきには小さく白い花ひらきおり

胸にいくつの扉はありてひらくとき母にふぶけるとおきふるさと

軽くなりたる父を湯舟に洗いおり触るれば楽器のような肋を

さっき焼かれていたのは父かむらぎもにみっしりと棲みつきたる癌か

別れぎわに少しほほえむ耐えることしか知らぬ子になりてしまえり

ひきしぼるこころの弓弦ゆずるぎしぎしと子よ弑逆の一矢を放て

あきらかな叛意ひとつを泡立てておりキッチンに妻の無言が

 一首目から三首目は認知症となり妄想を抱くようになった高齢の母親を詠んだものである。自分を慈しみ導いてくれた親が妄想の世界に住むようになるのは子にはつらいことである。「うんうん、そうか」と静かに付き合い見守るしかない。四首目と五首目は癌と闘病の末に他界した父親を詠んだ歌である。かつて企業の中枢で働いていた父親は加藤が文学に傾倒する様子を見て、「文学に身をよせてゆく半生を蔑してながき父の不機嫌」という態度を取ったという。同じことは私にも身に覚えがある。実業の世界に生きる父親の目には、文学や芸術は男子一生の仕事にあらずと映るのだろう。六首目と七首目は息子を詠んだもの。事情はわからぬものの、子との関係には緊張感が漂う。七首目は妻を詠んだ歌で、こちらも何やら不穏な気配である。中年男性の家族の歌には波乱と後悔の匂いがする。

 加藤は松平修文に私淑していたので、松平が病に倒れてからも足繁く病室を訪って励ましていたようだ。薬石効なく松平が他界して哀切極まる挽歌を詠んでいる。

こんな夜にあなたは逝ってしまわれた私たちが病棟を去った深夜に

もう苦しまなくていいからむかし蒐めた枯れ枝やきのこは窓辺にかざる

森や沼や川からひとりずつありわれて寡黙な少女らのしろい脛

思いだしたように大きく目をひらくがもう口をひらくことはなく

 私も『水村』以来、松平の幽玄の歌境に魅了されていたので、死去の報に接して驚き悲しんだ一人である。上に引いた三首目は松平がしばしば歌に詠んだ幻影の少女だろう。哀切の念があまりに強いために破調になっているところが逆に胸に響く。松平のお別れの会を開くのに奔走したのも加藤だった。私は参加できなかったが、松平の作風を考えて白い花を供花として送った。あの白い花は冥界への道を歩む松平の足元をほの暗く照らしてくれただろうか。

早暁にみまかりしとぞ声ひくく受話器のむこうより伝えくる

骨壺に納まりしのちもうごかざる位置を定めておらむ眼窩は

小高賢その小気味よき論調をなつかしみつつ酌む二、三合

まだそこにいるような気がしてならぬ語り口調が耳をはなれぬ

 一首目と二首目は菱川善夫が亡くなった折の歌で、三首目と四首目は小高賢の訃報に接した時の歌である。長く生きていると、見上げるように後を付いていた人たちが死ぬのは避けられないことである。

 これらに加えて歌集の基底を構成しているのは次のような日常の思念詠である。

ふかく空がたわむ夕ぐれ窓あけて見ておりだれを呼びだすでもなく

かたちあるものはたれむ土砂降りをしたたか弾きかえす舗道に

ゆうぐれの庭に朽ちかけたる枝がゆれおりわたしの肋骨ほどの

そら豆のみっしりと太りいてその怒りのごとき一皿

ちゆくは何に憑かれし一群ぞいま蒼然と森がさわげば

 一首目では窓を開けて外を見ているという情景のみが描かれているが、下句の「だれを呼びだすでもなく」がその情景にある思念を呼び込んでいる。それはおそらく無用と孤独の想いだろう。二首目は歩道に土砂降りの雨が降っているという景色から、おおよそ形のあるものは打たれるのだという思念に到っている。三首目は夕暮れの庭に枝が風に揺れているという情景に自分の骨を見ている。「ほらほら僕の骨」という中原中也の詩が頭に浮かぶ。そういえば中原も生きる悲しみを詠った詩人だった。四首目は初夏の夕餉の食卓の風景である。みっしりと豆の詰まった空豆の塩茹でが食卓にあるが、それは自らの憤怒の象徴である。五首目の鳥が一斉に飛び立つ森の光景も単なる叙景ではなく、そこには胸騒ぎする作者の思念が色濃く投影されている。

 本歌集に収録された歌には純粋な叙景歌は極めて少ない。それは加藤の興味が花鳥風月を描くことにはなく、人間と社会の関わり、あるいはこう言った方がよければこんな社会で暮らすことを余儀なくされている人間に心を寄せることにあるからだろう。

 最後に特に引かれた歌をいくつか挙げておこう。

目にみえぬもの感官に戦がせて嬰児めざめる夜の車中に

月にも盈ち欠けがあるなら海馬にもうすき影さすほそき雨ふる

夕映えの原子炉一基にやわらかきイエローケーキが降るあさき夢

夢の汗よりもどればきみは陽のにおう朝をさしだすようにスープを

だれもこないゆうぐれ うつむけばくらき口より花ひらくみゆ

花首をあかるき午後の窓におく陽に晒されていたる死の量


 

176:2006年10月 第4週 加藤英彦
または、短歌は一行の思想詩たりえるか

神学の果てぐらぐらと煮えたぎる
    鍋ありはつか血の匂いする
      加藤英彦『スサノオの泣き虫』

 「誤爆」と題された連作中の一首であり、イラク戦争に材を採ったものと思われる。だとすると「神学」はイスラム教を暗示し、血の匂いは自爆テロへと意味的に通底することは明らかだろう。宗教への熱烈な帰依が時として暴力行為へとつながることを主題とした歌で、歌意はかなり直截に表現されている。問題は、この歌に表現されているのがひとつの「思想」であり、その主体となるべき〈私〉が歌の中に不在であるという点にある。このことは同じ加藤の「寒鰤の頭(ず)をきり落とす厨からたちまち世紀が昏れはじめたり」という別の歌と比較すると、ちがいがよくわかる。台所で出刃を振るい寒鰤の頭を切り落とす行為の主体は、表現されていなくても〈私〉であるとするのが短歌の約束事である。この歌には台所という具体的な情景があり、〈私〉の身体的行為と相関するように、「たちまち世紀が昏れはじめたり」という思念が歌われている。ここでは〈知覚できる具体物〉と〈目に見えない思念〉とが、互いに照応するようにバランスよく配されていて、一首の意味が読者の心の適切な場所に着地することを可能にしているのである。ところが掲出歌ではこの具体物と思念とのバランスが極端に一方に偏るように崩れており、まるで作者の頭の中の思念だけを掴みだして見せられているような感じさえする。

 加藤英彦は1954年生まれで、現在は同人誌『Es』を拠点として活動している。歌歴は長いが『スサノオの泣き虫』は第一歌集で、三枝昂之・内藤明・天草季紅が栞文を寄せている。先に加藤の歌における思念の突出について触れたが、歌集を一読すると、加藤にとって短歌とは「韻律を響かせる型式」ではなく、「思想を盛る器」であることがわかる。一行で書かれた思想詩のような作品が多く見られ、そこにひっかかりを感じるのである。

 権力にまみれて鈍きてのひらをもたばたやすく汚れてしまう

 かつて〈地上の楽園〉というまぼろしを恃みし幾万の骨起(た)ちあがれ

 中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや枯木一枝をかかえ

 突如蜂起の合図かこれは空砲の数発か いや、真夏の花火

 飼育さるる劣位に太るわが眠りをはるかに越えてゆく機影あり

 権力がめくれているぞ炎天を樹皮一枚のように反りつつ

 歳月に霜はふりつつ蔵ふかく眠るよ古き一振りの斧

 権力と対峙し蜂起を夢見る左翼的思想が基調にあるが、作者の自意識のスタンスをよく示しているのは、3首目「かつて〈地上の楽園〉」と5首目「飼育さるる」と7首目「歳月に」あたりの歌だろう。「中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや」と自問する〈私〉が抱えているのは役に立たない枯枝であり、〈私〉は日常的に飼育されるという劣位にあってだらしなく太り続けている。蔵に眠る斧は世界変革を夢見る意志だが、斧を振るわなくなって久しく、斧は空しく錆びて蔵の中に眠るばかりである。おおむねこのような苦さを含む自己省察と鬱屈感が表現されている歌が多い。そこから次のような一連の歌も生まれるのだろう。

 ゆっくりと書架が倒れてくる夢のうらがわで一人が殺される

 どのような世界にゆける黙したるこの水道の蛇口のくらさ

 殺めたきひとりをさがす眼に会いてより心中に咲(ひら)く花あり

 硝子屋の玻璃いっせいに燦きはじむ未来など信ずるに足らぬ

作者の思想は上に引用したような歌群よりは暗喩的に表現されており、歌の重心はより抒情に傾いてはいるが、連続性は明らかである。これら一連の歌において、作者が表現しようとする思想が膨れあがり、短歌定型という皮を突き破って溢れようとするため、短歌の内的韻律が片隅に追いやられてしまうということがしばしば起きている。同じように思想的な短歌を作りながらも、「歌は韻律」ということを忘れない佐藤通雅とは対照的である。

 加藤の短歌のもうひとつの特徴はその演劇性である。集中の「死蝶幻想」と題された連測には戯曲から取られた科白が詞書きのように添えられていて、演劇と短歌の融合を試みているかのようである。

 あれはだれの忘れもの 闇のなかの螢。百年前の祭のあとの──

 燃えつきる記憶の蝶がひりひりと死の叢に放たれる

 呪われている 誰が? そう、あなたのなかの私とわたしのなかのあなたが

 井戸のポンプゆたばしる水勢しろき脛にひかりを感じ濡れるたましい

 短歌の定型が解体されて劇的科白へと組み換えられている。加藤はあとがきのなかで「限りなく日常の事実性から遠ざかることで、一首を自在な空間へと解き放とうと思った」「虚構という呼称すら無効となるような全き幻想のなかに身を投じるほか、作品が自立する道などないように思われた」と書いている。このようなスタンスを採る加藤が演劇の持つ本来的虚構性に惹かれたことはまちがいない。このように加藤は、一行思想詩という切り口から現代詩へと接近し、また虚構の演劇性という切り口から演劇へと接近するのだが、両方の方向に見られるのは強い観念性である。加藤が拠る同人誌『Es』の同人の江田浩司山田消児松野志保にもまた劇的身振りがよく見られるのは、決して偶然ではないだろう。

 しかし、上にも書いたことだが、過剰な観念性は短歌における知覚可能な具体物と不可視の思念とのバランスを大きく一方に傾けてしまうため、読者の理解を拒否する短歌になりがちであることに留意すべきだろう。読者は歌に詠まれた具体物の視覚的イメージを手掛かりとして、韻律の河を遡り、暗喩の橋を渡って、歌に詠まれた〈何か〉を追体験的に感得しようとする。よくできた短歌はこの「〈何か〉の追体験」を読者みずからが遂行できるよう組み立てられているため、読者はそこに自分で発見したかのような強い感動を覚えるのである。これを可能にするためには、歌のなかの具体物と思念とがバランスよく配されていることが必要であり、かつ読者による探索的遡上を可能にするために、表現したい思念を剥き出しにせず敢て隠すという配慮もまた必要なのである。すべてが言い切られていたら、もうそれ以上〈何か〉を探しに行く必要はないのであり、歌の魅力はなくなってしまう。加藤の次のような歌を見ると、そのように感じてしまうのである。

 抱(いだ)きあうかたちの雲がうごかざり愛の濃さとは渇きのふかさ

 日常はつまずきやすき泥濘にあれば爪先だちて歩めよ

上に引用した歌群とはまた異なる方向性の歌もこの歌集にはある。

 水が匂うゆうべの堀割をすぎて蔵のなかへと手をひかれゆく

 指先を湯にあたためている午後の君にちかづくまでの二、三歩

 あなたふかい空洞を抱く食卓に水蜜桃(すいみつ) ひとつが影を落とせり

 夏陽たかく澄む丘を越ゆいちまいの空ふるわせて響く空砲

 高層ビルの屋上くらき亀裂よりひとすじ春の無精卵ふる

 三枝昂之は栞文のなかで、このような歌が加藤の短歌の「古層」だろうと述べている。確かに加藤の短歌の「やわらかき部分」であることはまちがいない。このような古層から汲み上げる歌と抽象的思念とのバランスが問題だと思うのである。