177:2006年11月 第1週 澤村斉美
または、遠く開くドアは歌人の心のなかに

遠いドアひらけば真夏
  沈みゆく思ひのためにする黙秘あり
        澤村斉美「黙秘の庭」

 澤村斉美は「黙秘の庭」50首で、今年の角川短歌賞を受賞した若い歌人である。1979年生まれで、「京大短歌会」から「塔短歌会」に所属し、現在京都大学文学部の博士課程に在学中という。とはいえ同じ大学にいながら学生は何千人といるため、本人とは一面識もない。今回はこの連作を中心に取り上げてみたい。

 「黙秘の庭」は、「花冷えのやうな青さのスカートでにはたづみ踏むけふの中庭」に始まり、「海の青はつめたいだらうスカートに伝はる海の声を聞きゐる」で終わっている。同質の主題による歌を冒頭と末尾に配しているが、冒頭では花と中庭が、末尾では海と水とが青の特性を持つものとして描かれており、主題的に照応しつつも変化を持たせている。その間に置かれた歌は、いくつかのテイストに振り分けられ、連作意識が高いことを窺わせる。最後まで賞を争った松崎英司の「青の食單」が、同一の発想で50首ぐいぐいと押したためやや単調に堕したと見なされたことを考え合わせると、連作における緩急濃淡の配合の重要性をあらためて思わせられる。

 「黙秘の庭」50首を構成する歌を、私なりにテイスト別に分類してみると次のようになるだろう。まず身辺詠に近い歌群から。

 数字積む夜を森閑とひとりなり蛍光ペンを引く音かたし

 減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す

 ベランダに鴉の赤い口腔が見えたりけふは休みの上司

 目礼をしつつ過ぎたるかきつばた バイト社員の一人と知りぬ

 育ちゆく大学の森そのなかに友をり古き書物をひらく

 われの知る父より父は遁れつつメーデーのけふ声の笑まふも

 大学院に在籍しつつアルバイトをするという境涯を詠んだ歌が中心となる。一人で勉強する姿と並んで、バイト先の上司や社員や父親や友人も登場し、まずまず等身大の歌の世界だろう。取り立てて個性と言うほどの特徴はないが、あとで述べるように連作においてはこのような等身大の歌も混ざっていることが重要なのである。
 次に日常の具体性を離れ、多少空中に浮遊して短歌的抒情に傾いている歌。

 側溝を魚のすばやく流れたる夜の闇なれどくりかへし思ふ

 かなしめり 腕(かひな)のひかり日のひかり相聞歌には光が立てり

 日の道は光の休むところなりしづかな声をそのまま行かす

 記憶ではくまなく匂ふ桜園あか黒き実に触れながら行く

 椎の葉の葉とのあひだに生む光もぎとるやうに葉をちぎりたり

 このような歌群になると澤村の巧さが際立つ。一首目では、側溝を魚が泳ぐという何でもない夜の経験を端緒として、自分の心の中の世界へと歌を導いており、その導き方に無理がない。二首目では「かなしめり」と初句切れにして詠嘆を強め、「ひかり」「立てり」と「り」で終わる句を畳みかけている。三首目の「日の道は光の休むところなり」は日光の当たっている場所を指しているのだろうが、下句の「しづかな声」が何を指すのかいささか疑問が残る。敢て具体性を捨象して歌の輪郭を消しているのだとすれば、それもまた作者の意図のうちということになる。四首目では「記憶では」により現在と過去を交錯させているところに歌の奥行きが生まれ、単なる写実ではない歌になっている。五首目は特に澤村らしい歌で、言葉の連接が美しく短歌の生理が内面化されている様がうかがえる。歌が送り返す世界が青春期特有の淡い情感であったとしても、歌の立ち上がり方がしっかりしている。
 次はさらに具体性を離れ抽象化された歌。

 白犀は心の水の深きまで沈みつ水の春は熟れゆく

 夢の机に拾ふレシートなめらかな紙には嘘があるやうな夜

 鉄橋に向かひて叫ぶ人のをりうつつの人と思はれず朝

 はじめから失はれてゐたやうな日々海沿ひの弧に外灯が立つ

 ただ夏が近づいてゐるだけのこと 缶コーヒーの冷を購ふ

 こういった歌は境涯や日常性の具体的場面から発想されたものではあるまい。言葉と現実の往還のなかから発想された歌で、夢幻的光景や情感を自分の内部から汲み上げて形象化したものだろう。選評で高野公彦が二首目「夢の机に」を取り上げてよくわからない歌だと評していて、確かに歌意に取りにくい所もあるが、具体性を離れた情感を汲めば成り立つ歌だろう。掲出歌「遠いドアひらけば真夏 沈みゆく思ひのためにする黙秘あり」もこのグループに属すると見なしてよい。選評で小池光が「黙秘」という言葉の使い方を批判しているが、取り立てて瑕疵とは思われない。記憶に残る歌である。

 受賞対象となった「黙秘の庭」以外の澤村の歌も少し見ておこう。同人誌「豊作」からばらばらにいくつか引く。

 しづかなる湖面を開き魚の背の現るるところ日差しを吸へり

 ふりかへれば横断歩道の明るさは片脚で立つてゐるフラミンゴ

 雑踏にあるときの人の肩の線ふかく沈みゆきそののちに浮く

 かはきゆくみづのかたちを見てゐれば敷石の上ひかりうしなふ

 ひつたりと血を落としゐしわが身体昨夜(きぞ) 更くるまでアメリカにあり

 一首目は葛原妙子の「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」を遠く連想させる歌で、確かな写実に微量の幻視を混入していよう。二首目は下句の喩のおもしろさが効いていて、かすかな青春の痛みを感じさせる。三首目は吉川宏志ばりの「神は細部に宿る」歌。四首目と五首目はアメリカに旅行した折りの羈旅歌。これらの歌を見ても、澤村は言葉を介しての〈私〉と〈現実〉との秘めやかな距離の測量と、それを韻律に従って31文字に定着する技法に習熟していることがわかる。

 いずれも完成度の高い歌である。受賞対象となった「黙秘の庭」50首よりも短歌的には完成している。しかしこのような歌ばかり並べては、角川短歌賞は受賞できなかったかもしれないともふと思う。「黙秘の庭」では、大学院に在籍しながらアルバイトの日々を過ごす等身大の〈私〉の歌、具象的写実に基づきながら抒情を志向する歌、さらに具体性を消去して言葉の共振に身を委ねた歌が、高い連作意識に基づいて配合案配され配置されている。このような戦略が総合的に見て有利に働いたことは確かだろう。あまりに完成された歌からは〈私〉が見えにくい。短歌賞の審査員は歌の背後の作者を知りたがる。小島なおが2年前に角川短歌賞を受賞したとき、作者がほんとうに17歳の女子高校生なのかが選評であれほど議論されたのはそのためである。賞をめざす連作には、完成度は低くても等身大の〈私〉が見える歌が必要なのだ。いやむしろほころびのある歌が混じっていることこそ肝要だと言えなくもない。連作における「捨て歌」の効用である。澤村がそこまで計算していたかどうかはわからない。しかしいろいろな切り口を見せることができることもまた技量のうちだろう。

 まだ歌集を持たない若い作者だが、これからの自分を「歌人」と規定する決意があるか否かが今後を決める。心のなかにある名刺に「歌人」と肩書きをつけるかどうかである。今後に期待したいものだ。