石段の段の高さに刻まれて
降りてゆきたり手に抱え持ち
高橋みずほ『フルヘッヘンド』
『フルヘッヘンド』は2006年に上梓された高橋みずほの第二歌集である。歌集題名の「フルヘッヘンド」はふつうの人には、セパタクロー(タイの球技)とかナーベラーヌプシー(沖縄のヘチマの煮物)などと同じように意味不明の単語である。あとがきに種明かしがあり、杉田玄白らが翻訳した『ターヘル・ナトミア』(解体新書)で語義推定に苦労したオランダ語であることがわかる。「堆(ウヅタカシ」すわわち「盛り上がり」という意味で、この「フルヘッヘンド」なる語を歌集題名に選んだことからも、作者の高橋がいかに「意味の病」から自由であるかがわかる。
高橋は1954年(昭和32年)生まれ。加藤克巳の「個性」で作歌を学び、2002年に今井恵子、吉野裕之と歌誌『BLEND』を創刊。第一歌集『凸』(1994)と、セレクション歌人『高橋みずほ集』(邑書林)がある。『フルヘッヘンド』には親交のある美術評論家の針生一郎が栞文を寄せているが、栞全部が一人の文章というのも珍しい。おまけに針生は文章を書くのに苦吟しているのである。私ももし、あらかじめセレクション歌人『高橋みずほ集』で第一歌集『凸』を読んでいなかったら、途方に暮れたにちがいない。なにしろ『フルヘッヘンド』には次のような歌が並んでいるのである。
細道は細道へとぶつかっていずれ線路に合う形する
裏口を開け放した蕎麦屋に動く指あり一列の卵
確かに現れるエスカレーター人もち上げる高さがありて
店なかに服吊られ店なかに靴が積まれて川端長屋
青栗の毬のなかへと霧雨がおちてゆく子のつまさきの
どの歌も定型からいくらか外れており、起承転結がはっきりしない。歌を構成する言葉のどのレベルで受け止めればよいのかわからず、途方に暮れるのである。しかし第一歌集『凸』を読んだ目で『フルヘッヘンド』を読むと、作者の重心の移動を感じることでわかってくることがある。立ち位置が変化したことで、どのような場所に立っていたか、そして今どのような場所に立とうとしているかを計測することができるからである。『凸』から歌を引いてみよう。
咲きかけの隙間に入りたる夏風の形となりて花びらの立つ
樹にあたる風を散らす葉の揺れを集めて幹の伸びてゆく先
電線が埋め込まれてしまう街空の刻み 放たれてゆく
そがれつつ風はサッシの隙間から人工音に変えられてくる
壁の線横に流れるものだけが速度のなかで消されずにある
壁かけを外したあとの薄汚れ取り残したる鋲にとめられ
坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる
セレクション歌人『高橋みずほ集』には、谷岡亜紀が周到な評論を寄稿している。谷岡は、高橋の歌に字足らずの破調が多いことに着目し、一回性の文体で現実を掬いとろうとしており、その根幹は視覚を中心とする感覚的表現であるとする。また高橋の歌は認識の歌であり、その多くは時間認識に関係し、きわめて方法論的意識のもとで作歌されていると結論づけている。高橋の短歌の本質を剔抉した明解な論旨である。基本的に谷岡の分析に賛同しつつ、変奏を加えることで高橋の短歌の立ち位置を考えてみよう。
高橋の短歌が時間認識に重点を置いていることを明らかにする手掛かりがふたつある。ひとつは動詞の多さと、起動相の述語の多さである。たとえば上に挙げた2首目「樹にあたる」を見ると、「あたる」「散らす」「集める」「伸びてゆく」と1首のなかに4つも動詞がある。一般に作歌心得として1首に動詞はせいぜい3つまでと言われており、その心得に照らせば動詞過剰の歌である。動詞は「出来事」を表し、出来事は時間の中で生起する。だから動詞は歌の中に時間の流れを作り出す。高橋が動詞を多用する理由はここにある。また起動相(inchoative)とは、「~しはじめる」という動作・状態の開始を表すアスペクト表現をいう。3首目の「放たれてゆく」と4首目の「変えられてくる」の「ゆく」「くる」という複合動詞語尾がそれである。これらの動詞語尾は「変化」と「推移」を表す。もう少し歌語的に表現すれば、「移ろい」と「過ぎゆき」を表すと言ってもよい。いずれも時間の流れを前景化するものであることは言うまでもない。しかし、「Aの次にBが起きる」とか「AだったものがBになる」という時間推移は、出来事レベルの時間である。高橋はこれを事柄の展開に関わる「横軸の時間」と呼んでおり、高橋がめざす時間にはもう一つあることは後述する。
次に谷岡が指摘する感覚的表現という点だが、これは師の加藤克巳にその深源があると見てよかろう。
ざくろの不逞な開口 沈黙の白磁の皿にのけぞっている 『球体』
あかときの雪の中にて 石 割 れ た
西洋のさまざまな芸術運動に深い関心を示し、短歌においてそれを表現しようとしたモダニストの加藤の短歌においても視覚の優位は紛れもない。情景を説明的に描写するのではなく、むしろ表現を削ぎ落すことで感覚的印象をざっくりと定着しようとするその手法は、吃音的で前衛俳句に近づくことがある。上に引用した高橋の歌でも、「坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる」などは前衛俳句の香りがする。
このような手法から帰結する特徴として、上句と下句の照応の不在と、それと深く相関する表面上の〈私〉の不在を指摘することができる。永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだように、伝統的な短歌においては上句=問に下句=答が応答する (またはその逆)という照応関係、あるいは上句=叙景に下句=抒情 (またはその逆)という応答において一首の完結性を担保し、その照応関係の結節点として抒情の主座たる〈私〉を浮上させるという構造があった。ところが高橋の短歌においては、たとえば「不確かに寄せる力というがまな板の豆腐のゆがみの線にある」(『凸』)を例に取ると、頭から一気に読み下す形になっており、上句と下句の照応という構造がない。そのため照応関係を支える結節点としての〈私〉もまた表面上は見えなくなっている。高橋の短歌は、読者が作者の〈私〉の位置に想像上身を置くことで得られる安易な感情移入を峻拒するのである。
空間に線を引きつつ遠景をなお遠ざけて雨の町
暮れた空金槌音はとまらずに木を組みつつ空間を割る
空間認識をテーマとする歌を2首引いた。これらの歌からも明らかなように、高橋の歌に登場する景物は作者の内的感情の相関物(もしくは象徴)ではまったくない。そのようなレベルに歌意を汲み取るダイアルの波長を合わせても、聞こえてくるのは空電のみである。唐突な連想だが、高橋はきっとモンドリアンの絵が好きなのではないか。空間分割と色面の配置から成り立つ構成主義的なモンドリアンの絵は高橋の短歌と共通点があるように思う。
では高橋の短歌は何をめざしているのか。「縦軸の時間」と題された散文(初出『BLEND』No.5)において、高橋は子規と牧水の短歌を素材として、事柄の展開を追う「横軸の時間」とは異なるもうひとつの「縦軸の時間」の存在を指摘している。
つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり 牧水
「つるむ小鳥」「うれたる蜜柑」「おち葉の栴檀」ひとつひとつに焦点を当てることで時が生まれ、それは言葉の奥に畳まれている時間だという。韻文はこの縦軸に生まれる時間のなかで育まれるものであり、事柄主義的理解によって言葉の襞に畳み込まれた時空間を見落としてはならないと高橋は説く。高橋の言わんとするところを十分に理解しているかどうか心もとないのだが、私の理解したのは次のようなことである。私たちの日常言語や散文の言語の目的は意味の伝達にあり、そこで重要なのは「AだからBだ」という論理関係と、「Aが起こりBが起きた」という出来事の継起関係である。これが「横軸の時間」である。水平方向に時間軸がイメージされているので、時間の進行する方向が横軸になる。横軸の時間は論理と説明の支配する領域である。これに対して時間軸に垂直に交わる縦軸の時間とは、いわば言葉の内部に重層的に降り積もったイメージの集積体である。たとえば「桜散る」を例に取ると、「風が吹いたから桜が散る」という因果関係の説明や、「桜が散るから私は悲しい」という感情表現へと移行することなく、「桜散る」という単体の表現それ自体の奥に仕舞われているイメージということになる。それを事柄主義的な理解に回収するのではなく、それ自体として歌のなかにひっそりと置く、これが高橋のめざしていることではないだろうか。栞文を書いた針生が呻吟の末に、『凸』の認識論から『フルヘッヘンド』の存在論へという図式を描いて見せたのも、このような事情と無縁ではなかろう。事柄の連鎖へと回収されずにそのものとして有るというあり方は、確かに存在論的色彩を帯びるからである。
冬木立空に向かいて手を放つ ままに途切れた 『フルヘッヘンド』
竜の描かれてある襦袢の藍の深みは裾元薄れ
まな板に死にて目をむく魚の遠い海色透きて鱗
これらの歌では意図的に短歌の韻律をずらし、字足らずの破調を形式として選択しているが、これもまた言葉が事柄の連鎖へと回収されるのを阻害し、言葉がそれ自体の奥から輝くことを願ってのことと考えられる。
もしこのような読みが的を射ているとするならば、高橋のめざす道はなかなか険しいものと言わなくてはなるまい。針生も栞文のなかで「作者の意図や方法論がわかったということと、作品に魅惑されるということのあいだには、大きな距離があってその距離に苦しんでいる」と述懐している。高橋の短歌は読む人に高度な読みを要求する。その意味で読む人を選ぶと言えるかもしれない。しかしそれもまた歌人の選択であることは言うまでもない。
高橋みずほのホームページ 蓑虫の揺れ